ガルダ湖畔の戦い 15:マントヴァ要塞への救援
Battle on the shores of Lake Garda 15
ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ロナート:約20,000人 カスティリオーネ:約30,000人 |
ロナート:約2,000人 カスティリオーネ:約1,300人 |
オーストリア | ロナート:約15,000人 カスティリオーネ:約25,000人 |
ロナート:約5,000人 カスティリオーネ:約3,000人 |
マントヴァ要塞の救出
1796年8月1日夜明け、マントヴァ要塞司令官カント・ディールは要塞を包囲していたフランス軍が姿を消したことに気付いた。
カント・ディールはすぐさまボルゴフォルテ、マルカリア、ゴヴェルノロ(Governolo)、ゴーイトへ強力な部隊を送り、フランス兵700~800人を捕虜にし、塹壕内に40門の大砲の材料が、ボルゴフォルテの広場などに139門の大砲や多くの資材が打ち捨てられていたこと、カステルルッキオにフランス軍の前哨基地があることを把握した。
そしてマントヴァ要塞の包囲が解かれたことを知らせるためにルカヴィナをヴァレッジョにいるヴルムサーの元に送った。
この時、セリュリエはマントヴァの熱病(マラリア熱)のために戦線離脱を余儀なくされており、セリュリエは後に治療のためフランス本国に移送されることになる。そのためセリュリエ師団の指揮は暫定的にガルダンヌ少将に引き継がれていた。
時を同じくして、ヴルムサーはマントヴァに向かっていた。
バヤリックス旅団はペスキエーラを攻囲し、メサロス師団はレニャーゴに移動していた。
バヤリックスはペスキエーラ守備隊が大砲を放っている中、塹壕を掘り進めた。そして前哨基地を斜堤から200mほどにまで押し上げ、対壕の平行線の右側から攻撃を開始した。
その後、2日間攻撃を継続したが、ペスキエーラ守備隊はペスキエーラ要塞東の出入口であるヴェローナ門を堅く守り防衛工事を完了した。
ヴルムサーがロヴェルベッラに迫ったとき、ロヴェルベッラのフランス軍はもうそこにはおらず、マントヴァへの障害は存在しなかった。
ヴルムサーはフランス軍との距離を詰めるべく、前衛のリプタイ旅団約4,000人をゴーイトへ向かわせフランス軍の後を追うように命じた。
そしてカスダノウィッチに8月2日にミンチョ川を渡る旨の伝令を送り、自身はマントヴァ要塞へ急いだ。
疲弊の極致にあると思われるマントヴァ要塞の兵士を回復させ、フランス軍に対抗させるためである。
ヴルムサーはマントヴァ要塞に到着すると、カント・ディールと協力して新鮮な食糧を要塞内に運び入れ、攻囲のための塹壕を取り払い、フランス軍が放棄した大砲を要塞内に運び入れた。
しかし、カスダノウィッチ師団が7月31日にサロー、ロナート、8月1日にブレシアでの戦闘で敗北したという報告を受けたヴルムサーは、8月2日、前衛のリプタイ旅団をカスティリオーネまで押し進め、本体は午前3時にマントヴァを出発し、リプタイ旅団との連絡のためにシュビルツ騎兵隊のみ分離してミンチョ川を渡らせてカスティリオーネとゴーイトの中間地点に位置するグイディッツォーロ(Guidizzolo)に向かわせた。そして軍の大部分は慎重を期してミンチョ川を渡らずゴーイトに移動するに留めた。
◎ヴルムサーの計画
この時ヴルムサーは、8月2日にミンチョ川を渡り、3日にカスダノウィッチ師団とフランス軍を挟撃する計画を立てていたのだと考えられるが、ヴルムサー本体はミンチョ川を渡っていなかった。
恐らく、カスダノウィッチ師団がサロー、ロナート、ブレシアの戦闘で敗北したことを知り、前衛のリプタイ旅団に状況を探らせるためにカスティリオーネに向かわせ、自身は安全のためにあえてミンチョ川を渡らなかったのではないだろうか。
ミンチョ川を渡ってカスダノウィッチ師団が敗走していた場合、ヴルムサー本体はフランス軍全軍と相対しなければならず、もし撤退するにしても川が障壁となって撤退しづらい状況に陥る可能性が高くなるのである。