ガルダ湖畔の戦い 11:退路の確保と戦力の集中
Battle on the shores of Lake Garda 11
ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ロナート:約20,000人 カスティリオーネ:約30,000人 |
ロナート:約2,000人 カスティリオーネ:約1,300人 |
オーストリア | ロナート:約15,000人 カスティリオーネ:約25,000人 |
ロナート:約5,000人 カスティリオーネ:約3,000人 |
退路の確保と戦力の集中
1796年7月30日深夜、ボナパルトは、31日の夜にマントヴァ要塞の攻囲を解き、その後マルカリアへ撤退するようにセリュリエへの命令を変更した。
さらにマントヴァ要塞を包囲しているダルマーニュ旅団をマッセナ師団の元に、ペルティエ旅団をオージュロー師団の元に送るよう命令し、クレモナ、ピッツィゲットーネ、ピアチェンツァへの道を確保するためにオリオ川に架かるマルカリア橋をセルヴィエズ旅団とシャルトン旅団で占領させるよう命令した。
同時にボナパルトはマッセナにボルゲット橋を破壊し、ヴァレッテ旅団の歩兵と砲兵約1,500人をカスティリオーネに移動させるよう命じた。
さらにロヴェルベッラにいるセルヴォニ旅団とランポン旅団、キルメイン騎兵隊をモンテキアーリへ派遣し、マッセナ師団とともにモンテキアーリを攻撃するよう命令した。
カスティリオーネ周辺に兵力を集中させた上で、ボルゲットを騎兵隊のみにし、フランス軍が未だミンチョ川を勢力下に置いているとオーストリア軍に思わせ、ミンチョ川の渡河を阻むことが目的であった。
マッセナ自身はオージュローのブレシアへの攻撃を支援するために、ミンチョ川から離れロナートとカスティリオーネの間に部隊とともに移動した。
ソーレ師団とデスピノイ師団はマッセナの指揮下に置かれ、マッセナはソーレ師団とデスピノイ師団でキエーゼ川を渡るための橋が架かっているポンテ・サン・マルコとカルチナートを奪還することになっていた。
もしソーレとデスピノイがサローを再び奪還できなかった場合、マッセナはそれらの師団を補強した上でポンテ・サン・マルコとカルチナートに向かわせなければならなかった。
さらにマッセナはカスティリオーネからクレモナまでの退路を確保するよう命令を受けていた。
7月31日夜明け頃、ジュベール旅団がカステルヌォーヴォからペスキエーラへ退却し、ヴィクトール旅団も孤立することを避けるためにセボッテンドルフのいるガルダ湖東岸に分遣隊を送って時間を稼ぎつつ、ペスキエーラへ退却した。
◎30日夜から31日夜明けにかけてのマッセナ師団全体の動き
ヴィクトールはカステルヌォーヴォまでオーストリアの前衛部隊の追撃を受けつつも退却を続け、ペスキエーラ前でペスキエーラ要塞の支援を受けつつ退却戦を繰り広げ、夜中にペスキエーラに到着した。
各都市でのフランス軍への集団抗議と反抗
オーストリア軍がブレシアを占領し、マントヴァ要塞の解囲のために進軍した時、パヴィア(Pavia)、クレモナ(Cremona)、カザルマッジョーレ(Casalmaggiore)の人々はフランス軍に対して集団抗議(デモ)を行った。
フェラーラでも反乱が起こり、当時のフェラーラ大司教が扇動して民衆を武装させ、フェラーラの城塞を占領した。
フェラーラは教皇との休戦協定においてフランスの勢力下に入ったが、休戦協定を破って反乱を起こしたが敗北。オージュローに略奪され、フランス軍に対し特に反感を抱いていた地域である。
そのフェラーラで再び反乱が起こったのである。
ヴルムサー率いるオーストリア軍が迫り来る中、ボナパルトはこれらの対処はできなかった。