ガルダ湖畔の戦い 26:ガルダ湖畔の戦いの終わり
Battle on the shores of Lake Garda 26
ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | ロナート:約20,000人 カスティリオーネ:約30,000人 |
ロナート:約2,000人 カスティリオーネ:約1,300人 |
オーストリア | ロナート:約15,000人 カスティリオーネ:約25,000人 |
ロナート:約5,000人 カスティリオーネ:死傷者約2,000人、捕虜約1,000人 |
中央ダヴィドウィッチ師団の後退
バルド山の防衛任務に当たっていたバヤリックス旅団はマッセナ師団の攻勢によりコロナを奪われ、8月13日までの間にさらにボケッタ・ディ・カンピオーネからの撤退を余儀なくされていた。
ボケッタ・ディ・カンピオーネからはダヴィドウィッチ師団のいるアディジェ川方向とカスダノウィッチ師団のいるリーヴァ(Riva)方向の2つの後退路があったが、ボケッタ・ディ・カンピオーネの部隊はアディジェ川方向に後退した。
ビカソヴィッチ旅団はダヴィドウィッチ師団のアディジェ川左岸沿いの前衛部隊としてオッセニゴ(Ossenigo)に配置されており、アディジェ川右岸沿いの前衛部隊であるミトロフスキーは、マッセナ師団のピジョン将軍とランポン将軍に追撃されつつリヴァルタ(Rivarta)からアーヴィオ(Avio)に移動し、体調不良のためヴァイデンフェルト大佐に旅団の指揮権を移譲した。
シュビルツはアラで9個騎兵大隊を指揮し、スポークはフレダ谷の防衛を任され、5個大隊、3個大隊を指揮していた。
この時点でダヴィドウィッチ師団は遠征開始前とほぼ同位置にまで押し戻されており、マッセナ師団とオージュロー師団の圧迫によりさらなる後退を余儀なくされていた。
その前衛部隊はアラ付近にまで圧迫されており、左岸側の前衛部隊を指揮していたビカソヴィッチはヴァッラルサ、テッラニョーロの防衛任務を任された。
◎ダヴィドウィッチ師団の後退と反撃
しかしオージュロー師団とマッセナ師団が山岳地帯での補給難による食糧不足のため攻勢を中断した隙を突き、ダヴィドウィッチ師団の前衛部隊はフレダ谷の入り口付近(ヴォ(Vo)とボルゲット(Borghetto)の間)までオージュロー師団を押しやることに成功した。
フランス軍は補給難により攻撃の限界点を迎え、これ以上遠くに出撃することができなくなっていた。
右翼セボッテンドルフ師団と左翼メサロス師団の配置
右翼セボッテンドルフ師団はトレントの西側の地域に集結し、サルカ渓谷、ヴェーラ渓谷、バセルガ、ヴェッツァーノ、フラヴェッジオを占領していた。
セボッテンドルフ師団の前衛部隊であるバヤリックス旅団はドラソに野営した。
◎セボッテンドルフ師団の配置
左翼メサロス師団はレーヴィコ・テルメ(Levico Terme)とカルドナッツォ(Caldnazzo)を保持し、ホーエンツォレルンがバッサーノ(Bassano)に駐留することでスガーナ(Sugana)渓谷を通過するヴェネツィアからの商品の輸送が容易となっていた。
◎メサロス師団の配置
予備の小さな大砲は本部の2㎞後方にあり、大きな大砲はオルトヴィシオ(Ortvisio)に保管された。そして残りはドイツ軍に返還され、ミュンヘンの北に位置するノイマルクト(Neumarkt)に送られた。
ヴルムサーは最終的にカスダノウィッチ師団にトレント周辺を、セボッテンドルフ師団にトレントの西側を、ダヴィドウィッチ師団にロヴェレトの南と東側を、メサロス師団にトレントからバッサーノまでの渓谷を防衛させたのである。
ガルダ湖畔の戦いの終わり
ソーレ師団は本部をイドロ湖の北側に位置するストロまで押し進め、オージュロー師団はレッシーニ山脈を勢力下に置いた。
マッセナ師団においてはピジョン将軍が半旅団とともにパッツォーネに駐留してコロナから300人の兵士を加えた。
ヴィクトール旅団はコステルマーノに駐留し、モンターニャ(Montagna)に100人、トッリ(Tori)に50人の兵を配置していた。
ランポン旅団はプレアボッコとブレンティーノに駐留し、1個大隊をインカナーレに配置した。
その他、工兵大隊長アンドレオシーが再建を命じられたポール橋を防衛するために1個大隊をセーガに配置した。
以上がフランス軍の最終的な配置である。
◎両軍の最終的な配置
オーストリア軍はボケッタ・ディ・カンピオーネの部隊がカスダノウィッチ師団のいたリーヴァではなくダヴィドウィッチ師団のいたアディジェ川方面に撤退して行ったことなどから、さらなる援軍の到来前に攻勢に出る力が無いことを示していた。
リーヴァはバルド山方面、ガルダ湖東岸沿い、イドロ湖方面に部隊を派遣することができる地点に位置しており、リーヴァを強化するということは攻撃的な行動に出る可能性があることを意味している。
そしてアディジェ川方面ではマッセナ師団とオージュロー師団がダヴィドウィッチ師団を圧迫しており、こちらを強化するということはアディジェ川方面の防衛を重視する行動を意味しているからである。
ガルダ湖畔の戦い全体を通して、オーストリア軍は死傷者と捕虜を合計し16,770人を失った。対するフランス軍は死傷者約6,000人、捕虜約4,000人だったと言われている。
しかし、マントヴァ要塞駐屯軍を除いたとしてもオーストリア軍の兵力は50個歩兵大隊、34個騎兵大隊、51個騎兵中隊であり、騎兵6,987騎を含む計43,918人を擁していた。
オーストリア軍はこの時点では再侵攻が可能な態勢ではなかった。しかし、再編成を行い態勢を整えれば再侵攻が不可能ではない兵力を有していたのである。
マントヴァ要塞を巡る戦役はまだ始まったばかりであった。