ガルダ湖畔の戦い 09:ブレシアでの戦闘とフランス軍の状況 
Battle on the shores of Lake Garda 09

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:約3,000人

ブレシアでの戦闘

 ガルダ湖西岸側では、1796年7月30日夜明け頃、闇と霧の中クレナウ旅団がブレシアに駐留しているフランス軍の数が少ないと見て、市民、非戦闘員、病人、負傷者が逃げ惑い混沌としているブレシアを攻撃した。

 この時、ブレシアを防衛するフランス軍は600人~700人だったと言われている。

 クレナウは分遣隊をブレシアの西側と南側に派遣し、ピレ門の反対側にあるナナーロ門(Porta Nannaro)を占領させた。それと同時にブレシアの北に位置するピレ門を破壊した。

 ピレ門への攻撃に驚いたブレシア守備隊はフィエーラ(Fiera)広場に集結しようとしたが、騎兵隊の突撃により解散させられた。

 町の中に取り残され孤立した兵士たちは、建物の中に身を隠し、そこから銃撃を続けた。

 しかし、オーストリア軍の増援が到着し、降伏を余儀なくされた。

 その後、クレナウはベルガモ、クレマ、クレモナ方面の道に強力な守備隊を配置し、ポンテ・サン・マルコに架かっているキエーゼ橋に前哨基地を形成した。

 このブレシアでの戦闘により、フランス軍はランヌ、ミュラ、ケレルマンの3将軍、300~400人の歩兵、多数の非戦闘員、病院で治療中の6人の旅団長と1,200~1,500人の兵士が捕虜となり、100頭の馬、武器や装備、食糧や飼料を奪われた。

 オーストリア軍がブレシアを占領していた期間、ルシニャンはフランスの負傷者に対して戦時国際法で許可されていない行為を行ったと言われている。

 ブレシアを掌握すると、カスダノウィッチはロイス旅団とスポーク旅団の先頭に立ち、支隊を派遣して側面と後方の道を偵察した後、モンテキアーリに向けて出発した。

 7月30日の日中、オットはマルティネンゴ宮殿に立て籠もったギウの部隊の包囲をオクスカイに交代し、オットはサローを離れポンテ・サン・マルコを占領した。

 ルシニャン旅団はブレシアへ向かう途中、スポーク旅団から送られてきた歩兵大隊の支援を受けガルドネを占領した。



マッセナ師団の状況

 7月30日、オーストリア軍にリヴォリを奪われたこと、マッセナ師団がペスキエーラへ撤退したことの報告を受けたボナパルトは、カステルヌォーヴォに集結しているランポン旅団、セルヴォニ旅団とビラフランカにいるロベルト旅団、キルメイン騎兵隊を合流させロヴェルベッラへ向かわせた。

 この時点で、ボナパルトとオージュロー以外の将軍達はポー河まで退却することを決定しており、フランス軍全軍として退却戦を行おうとしていた。

 そしてマッセナには、ミンチョ川で1,500人~2,000人の兵力を分離しボルゲット橋を占領すること、ミンチョ川の右岸でペスキエーラに向かって部隊を配置するように命じた。

 この撤退戦は最高の秩序により実行されなければならなかった。

 ミンチョ川右岸に到着したマッセナは、ボナパルトの命令通りヴァレッテ旅団約1,500人~2,000人をボルゲット橋に派遣し、デセンツァーノからブレシアまでの道がオーストリア軍の勢力下に置かれていないかどうかを確認した。

 オーストリア軍はすでにポンテ・サン・マルコを勢力下に置いており、カスダノウィッチ師団本体がブレシアを離れモンテキアーリに向かっている途中だった。

 それを知ったマッセナはペスキエーラからカスティリオーネ、ゲーディ、オルツィヌオーヴィ(Orzinuovi)への道の状況を把握するために偵察部隊を送った。

 この時点でのマッセナ師団の目的は、ガルダ湖東側を通過したオーストリア軍がミンチョ川を渡河することを阻止し、ブレシアを占領したカスダノウィッチ師団を足止めすることであり、もしミンチョ川の渡河を許してしまった場合、退路を確保することだった。

 そしてマッセナはペスキエーラの防衛任務に当たっていたピジョン旅団を師団に取り込み、ピジョン麾下のギョーム(Guilaume)将軍と歩兵500人、砲兵150人をペスキエーラに残した。

 この時ボナパルトはペスキエーラに残った部隊に、「オリオ川を越えなければならない部隊がある限りペスキエーラを保持する」ことを命じ、もしペスキエーラが包囲された場合、15日以内に救援に駆け付けることを約束した。



オージュロー師団の状況

 7月29日の日中、オージュローはアディジェ川を放棄してレニャーゴを立ち、ヴェローナへ進軍中のオーストリア軍と戦うためにヴェローナにいるランポン旅団約6,000人と合流するよう命令を受けた。

 30日の朝、師団全体に正確な命令を出し、ヴェローナに向かって出発した。

 オージュローがレニャーゴを離れて1時間後、ボナパルトからの書簡がオージュローの元へ届けられた。

 その書簡には、オーストリア軍は3つの地点でフランス軍の防衛ラインを突破し、マッセナとジュベールがコロナ、リヴォリから撤退することを余儀なくされ、ソーレはサローを放棄してデセンツァーノに後退したこと、ブレシアとポンテ・サン・マルコが占領されミラノとヴェローナの間の連絡が遮断されたこと、ボナパルトもロヴェルベッラに向かうことが書かれており、ボナパルトはオージュローに、レニャーゴ橋を破壊し、砲車を所定の位置で燃やし、オージュロー師団の倉庫からできる限り物資を取り除き、ヴェローナではなくロヴェルベッラへ向かうよう命じた。

 オージュローは急いでレニャーゴに戻り使命を果たすと即座にレニャーゴから撤退し、ロヴェルベッラへ向かった。

◎オージュロー師団の動き

 オージュロー自身は歩兵800、騎兵400人、6門の軽砲を指揮してロヴェルベッラへ向かっていたが、3時間ほど行軍してオーストリア軍がオージュローの追跡を考えていないことを察した。そしてオージュローは指揮をベイランドに一任し、側近と前衛騎兵を率いてロヴェルベッラへ急行した。

 オージュローがロヴェルベッラに到着したとき、ロヴェルベッラの街道は逃げ惑う市民達で溢れ返り馬車が渋滞を起こし道を塞いでいた。

 オージュローは手持ちの部隊を動員し、やる気のありそうな地元の司令官を任命して街の秩序を取り戻した。