エジプト戦役 50:「正義のスルタン」の異名とエジプト戦役の終わり
End of the Egyptian Campaign
ムラード・ベイの策動
10月下旬、カイロの反乱がすでに鎮圧されたことを知ったムラード・ベイはすぐにファイユーム州に戻り、ドゼー将軍に対抗した。
ムラード・ベイは村人たちにフランスへの税金や寄付金の支払いを禁じるよう通達し、配下にマムルークとベドウィン約150騎を率させて反乱を扇動したのである。
ファイユーム州の村人たちは焚きつけられ、武器を手にして警戒する村も出てきていた。
正義のスルタン
※Vivant Denonによる版画「La clémence de Desaix(ドゼーの慈悲)」(1802)。
11月6日、ドゼー師団の現状を鑑みたボナパルトは、ギザのベリヤード将軍に1個大隊(500人~600人)を与えてドゼー師団の増援に向かわせた。
ベリヤード将軍は増援だけではなく、通過した村々の距離を測る任務も負っていた。
距離を知ることは時間と空間を把握することに繋がり、兵站にしても増援にしても正確に作戦をすすめるために重要なことだった。
同日、眼炎が治癒し視力が戻ったドゼー将軍はファイユーム州での税と馬の徴収と反乱の芽を摘むことを目的としてファイユームの町に2個中隊350人と病人150人を残して出発し、ファイユーム州を旅した。
そして芸術と政治組織の構築に専念した。
ドゼー将軍はモエリス湖(カールーン湖)の岸辺を辿り、時には馬やラクダの足が沈む砂丘の上を、時にはひび割れた地面を震えながら進んだ。
ニムロド(Nimrod)城の廃墟に立ち寄り、カローン(Charon)宮殿の柱廊式玄関の下で野営した。
※ニムロドは旧約聖書におけるノアの曽孫。エジプトではニムロドはホルスと同一視されている。ガラク北西に位置するメディネット・マディ(Medinet Made)神殿の遺跡では、ソベク (ワニの神)、レネヌテト (収穫の蛇の女神)、ホルス(天空神)の3つの神殿があり、入り口には柱廊式玄関があった。欧州人はエジプトの神殿跡を城跡だと考え、柱廊式玄関跡を宮殿跡だと考えていた節がある。そのためニムロド城とカローン宮殿とはメディネット・マディの神殿跡のことだろう。
カローンはギリシャ神話に登場する冥界の河ステュクス(地下を流れているとされる想像上の河)あるいはその支流アケローン川(嘆きの川)の渡し守。エジプト神話でのアケン(Aken)と比較されることがある。
※「ニムロド城の廃墟に立ち寄り、カローン宮殿の柱廊式玄関の下で野営した」という記述で1つの疑問点が浮かび上がる。もしこれがガラク北西に位置するメディネット・マディ(Medinet Made)神殿の遺跡ならば、ムラード・ベイの拠点であるガラクの湖の裏に近いため、ドゼー将軍はムラード・ベイの動向を知ることができたのではないか?ということだ。もしメディネット・マディ神殿の遺跡ではない場合、この記述自体が間違いか、古い地図を調べるとカールーン湖の北側にメディネット・ニムルド(Medinet Nimrud)という遺跡のようなものがあるため、そこなのではないかと考えられる。
※メディネット・マディとメディネット・ニムルド、ガラクの位置。
ファイユームの村人たちにとってベイの到着は常に新たな横暴の兆しだったため、村人たちははじめフランスの将軍の接近に大きな恐怖を感じていた。
首長たちは、各村の入り口でドゼーを出迎え、砂埃の中で額を下げて恩赦を懇願し、怒りを避けるための贈り物を差し出した。
特別な飾りを身に着けていなかったため外見的には周囲の兵と区別がつかなかったにもかかわらず、村人たちはドゼーが指揮官だと思っているようだった。
ドゼーの視線には慈悲がにじみ出ており、彼の手は足元に置かれた贈り物を押し返した。
その後、ファイユーム州に「正義のスルタン」の評判が徐々に広がっていった。
農民たちはフランス軍に届けた食料品の代金を受け取り、公的資金の管理権を保持していたコプト教の僧侶を通じて住民からは定額かつ公平な寄付だけが要求された。
しかし、いくつかの村はフランス軍に敵対的であり、ムラード・ベイに従い、税を収めることを拒否した。
11月9日、ドゼー将軍は懲罰と見せしめのためにマムルーク騎兵200騎に支援された敵対的な態度を示すリリネ(Liriné)村へ向かった。
ムラード・ベイ配下のマムルークはリリネ村でドゼー師団の前衛と軽い戦いをした後、荷物を積んだ6頭のラクダを捨てて逃走した。
ドゼーは従わなかったリリネ村を略奪し、焼き払った。
この戦いでのマムルーク側の損失は15人か16人だったと言われている。
※リリネ(Liriné)村の確かな場所は定かではない。口述筆記で書かれたと考えられる「ベルティエ元帥の回想録」に記載されている村名であるため、実際の音やスペルが違う可能性が高い。「ナポレオン1世書簡集」ではケラニエ(Kerânyeh)村となっている。どちらが正しいのかは不明だが、ドゼー将軍がファイユームでの戦いに気付かないくらい遠い位置にあることは分かる。もしかしたらドゼー将軍はムラード・ベイに州都ファイユームからより遠く離れるよう誘導された可能性も否定できない。
ファイユーム州での反抗勢力の拡大と集結
ムラード・ベイは約1,000騎のマムルークをファイユームの町に進軍させるために送り込み、配下をベドウィンや農民を煽るためにファイユーム州の北と南の地域に派遣した。
11月7日にはすでに膨大な数の群衆が武装して集まっていた。
しかし税の徴収のためにファイユーム州を旅しているドゼー将軍はこのことに気付いていなかった。
州都ファイユームへの襲撃
11月8日午前8時、多くの農民を引き連れた500人のベドウィンがファイユームの町の南西に現れ、運河の左岸側にある町に向かって進んだ。
その時ファイユームの町には眼炎患者の治療を担当する2つの中隊しかいなかった。
ロビン(Robin)将軍はファイユームにいたが眼炎を患っており、エップラー(Eppler)大隊長が2つの中隊を指揮していた。
しかし、最初の発砲で、病人たちは目を覆っていた目隠しをはぎ取り、ベッドの上にぶら下がっていた武器を手に取った。
反乱軍の動きを知ったロビン将軍は、四方八方に開かれた都市での退路が確保できている限り、病院のある邸宅から出て指揮を執った。
ロビン将軍にはわずか350人の兵士と150人の病人しかいなかった。
午前11時、反乱軍はベドウィン3,000人以上、マムルーク1,000騎、そして膨大な量の武装した農民たちが2列で前進した。
これらの一部はベイやカシェフによって率いられ、急いで郊外の囲いを登った。
反乱軍は同時に攻撃を開始したが、市内のすべての出口が埋まるわけではなかった。
ロビン将軍はこの利点を利用して主部隊を方向転換して強力な抵抗を示し、隘路を反乱軍の死者で覆った後、整然と撤退し、病院のある邸宅に集結した。
ロビン将軍はエップラー大隊長とともにこの邸宅で市街戦を回避して籠城戦に持ち込むつもりだった。
邸宅は瞬く間に包囲され、ベドウィンと農民達は屋根から屋根に飛び移りながら接近し、地上で包囲している者達は何の予防策も無く正面の出入り口から突進した。
エップラー大隊長はこの混乱を予見しており、病院の敷地内に2本の塹壕を掘り、そこに2個中隊を配置していた。
エップラー大隊長が右列を指揮し、サクロ(Sacro)大隊長が左列を指揮し、建物内の予備部隊をロビン将軍が指揮した。
秩序を失った反乱軍が射程内に入るやいなや、予備部隊は屋根や窓から強力な射撃を行い、同時に、2つの中隊が塹壕から姿を現して反乱軍の突撃を破り、銃剣で突撃し、通りから通りへと反乱軍を追撃して倒した。
反乱軍は家で嵐が過ぎ去るのを待っているファイユームの人々も襲い、多くは勝利が確実であると信じて略奪に耽った。
しかし、自分たちが追い立てられていると分かると逃亡し、降伏した。
反乱軍は大隊長のエップラーとサクロ、そしてファイユームの町の住民たちによって町から1リーグ(約4㎞)離れたところまで追跡された。
エップラーとサクロの2人の大隊長は大胆さと落ち着きをもって反乱軍を虐殺し、追撃したと言われている。
反乱軍は市内に200人の死体を残し、多数の負傷者を出した。
対するフランス軍は眼病患者がいたにもかかわらず、4人が死亡し、16人が負傷したと言われている。
※「ナポレオン1世書簡集」には、「これらのさまざまな戦闘で、死者は3人、負傷者は10人だけだった。」と書かれている。
エジプト戦役の終わり
ムラード・ベイによる州都ファイユームの襲撃、そしてカイロと下エジプトでの出来事は、フランスによるエジプト征服が新たな段階に進んだことの予兆であり、すべてのイスラム教徒の部族とイスラム教を国教とする国による大規模な反抗が差し迫っていることを予感させた。
それはエジプト戦役の終わりを意味し、新たな戦役が始まるだろうことを示していた。
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