エジプト戦役 22:エル・サルヘイヤの戦い
Battle of El Salheya

エル・サルヘイヤの戦い

【エジプト遠征】1798年8月11日、エル・サルヘイヤの戦い

※1798年8月11日、エル・サルヘイヤの戦い"

 1798年8月11日、イブラヒム・ベイは、軍と財宝、そして女性たちとともにエル・サルヘイヤから出たところだった。

 ボナパルトは少数の騎兵隊で追跡を命じると、一緒にいた150人のアラブ人の一行が、戦利品の分配を得るためにフランスの騎兵隊と突撃することを申し出た。

 午後4時、前衛であるルクレール将軍は約300騎の騎兵を率いてエル・サルヘイヤを視界に収めた。

 前衛の先頭が村に入ると、イブラヒム・ベイは驚いて、約1,000人で構成されるマムルーク騎兵の後衛で財宝や女性たちの避難を護衛しながら急いで逃走した。

 フランス歩兵隊はまだ1リーグ半(約6㎞)離れていた。

 フランス騎兵隊の馬は既に疲労で疲れ果てており、アラブ人の群れが平原を覆っていた。

 イブラヒム・ベイ軍は後衛だけでもフランス軍前衛の3倍の数だった。

 数的劣勢にも関わらず、ルクレール将軍は先頭に立ってイブラヒム・ベイを追撃した。

 第7軽騎兵連隊と第22猟兵連隊の勇敢な200騎と護衛の騎馬がイブラヒム・ベイ軍後衛に勢いよく突進し、隊列に通路を開いた。

 マムルーク族(支援を申し出たアラブ人の一行のこと)もルクレール将軍率いる騎兵隊の突撃を支援した。

 突撃の途中、ラサール(Lasalle)旅団長がサーベルを落とし、それを拾うために熟練した動きで地面に降り、再び馬にまたがった。

 その後、最も勇敢なマムルーク兵の1人を攻撃したという一幕もあったと言われている。

 しかし、この突撃の成功こそが危険を増大させ、彼らは自分たちよりも5倍も多い集団の真ん中にいることに気づいた。

 ルクレール騎兵隊は周囲を多数の敵に囲まれた絶望の中で戦うことを余儀なくされにもかかわらず、イブラヒム・ベイ軍後衛は常に押し戻され、退却するときと退路を守るためにのみ戦った。

 イブラヒム・ベイは逃げる途中、貧弱な大砲2門とラクダ50頭を放棄したが、妻やマムルークの家族、財宝、そしてキャラバンから奪った商品を持って退却することに成功した。

 この戦闘で騎兵中隊指揮官であるデトレス(Détrès)が致命傷を負い、ナポレオンの副官であるスルコウスキー(Sulkowsky)がサーベルで7、8回切られ、数発の銃撃を受けて負傷した。

 イブラヒム・ベイ軍の後衛は多くの損害を出し、後衛指揮官アリー・ベイは死亡し、イブラヒム・ベイは負傷したと言われている。

 フランス歩兵隊がエル・サルヘイヤに到着し、村を占領したとき、イブラヒム・ベイはすでに砂漠へと姿を消していた。

 その後、イブラヒム・ベイは後退を続けてシナイ半島に入った。

イブラヒム・ベイへの降伏勧告

 8月12日、ボナパルトはエル・サルヘイヤに本部を移してエル・サルヘイヤでの戦闘の戦後処理を行った。

 そしてピラミッドの戦いの数日後にムラード・ベイに送ったのと同様の内容の書簡をイブラヒム・ベイにも送った。

 イブラヒム・ベイへ宛てた書簡の内容は、イブラヒム・ベイとそのマムルーク人全員の村の財産と家の財産を保護し、フランス共和国の士官として受け入れ、ベイを将軍、カシェフを大佐の待遇で迎え入れるというものだった。

◎イブラヒム・ベイへの書簡

「イブラヒム・ベイ 宛 本部:サルヘイヤ 共和歴Ⅵ年 テルミドール(熱月)25日(1798年8月12日)

 私が指揮する軍の優位性については、もはや争う必要はないでしょう。

 エジプトの外に出てしまったっため、あなたはこれから砂漠を通らなければなりません。

 私の寛大さの中に、運命があなたから奪った幸運と幸福を見つけることができるでしょう。

 すぐにあなたの考えを教えてください。

 偉大なあなたの主人であるパシャ(セイド・アブー・バクル・パシャ)があなたとともにおられます。

 あなたの返答を持ってパシャを私のところに送ってください。

 私は喜んでパシャを仲介者として受け入れるでしょう。     ボナパルト」

 ボナパルトの視点では、イブラヒム・ベイ軍の正面はフランス軍、後方はオスマン帝国のスルタンであるセリム3世にダマスカス総督としてレバントの防衛を任されているジェザル・アフマド・パシャ(Djezzar Pacha)に挟まれており、尚且つ周囲は砂漠に囲まれているため食糧や水の調達も困難であると予想された。

 そのため財産と立場の保証を行なえばイブラヒム・ベイは降伏し、寝返るだろうと考えていた。

 そしてオスマン帝国のエジプト総督であるセイド・アブー・バクル・パシャをイブラヒム・ベイと引き離すことができればイブラヒム・ベイ軍はオスマン帝国との繋がりを失い、ボナパルトの提案に乗らざるを得なくなる。

 さらにセイド・アブー・バクル・パシャの取り込みに成功し、エジプト総督として歓迎すれば、オスマン帝国とも敵対せずに済むかもしれなくなるのである。

 ボナパルトの考え通り、イブラヒム・ベイは四方八方を敵に囲まれており、提案を受け入れて信頼できるカシェフ(マムルークの部隊指揮官)を派遣した。

 しかし、イブラヒム・ベイとセイド・アブー・バクル・パシャを引き離す計画は失敗に終わった。

 すでに使い物にならないかもしれないが、オスマン帝国との和解の最後の鍵が失われた瞬間だった。