【詳細解説】エジプト遠征前のナポレオン


本記事では第一次イタリア遠征後にパリに帰還した後からエジプト遠征開始前までの状況を時系列に沿って経過をまとめまています。

第一次イタリア遠征の勝利によって国内で絶大な人気を得たナポレオンは、政府が主催する式典やパーティに呼ばれて忙しくしていました。

しかしそれを快く思っていない人達もいました。

そのため「エジプト遠征」はナポレオンを葬るために決定されたという説などが存在しています。

ナポレオンはなぜ「エジプト遠征」を行なったのか?総裁達は本当にナポレオンを葬るつもりだったのか?ホレーショ・ネルソンはその時何をしていたのか?などがよく解る内容となっています。

ナポレオンの状況だけではなく、バラス側の状況、イギリス側の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでエジプト遠征前のナポレオンの状況について詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

エジプト遠征前のナポレオン 01 対イングランド戦略と代替案の提示

1798年1月、第一次イタリア遠征の勝利によって国内で絶大な人気を得たナポレオンは、政府が主催する式典やパーティに呼ばれて忙しくしていました。

ナポレオンの出席しない式典などは人気がなく出席者が少なくなるなどの影響が出たほどだと言われています。

しかし、フランス総裁であるバラス達はこのことを快く思っていませんでした。

ナポレオンをパリから遠ざけるため、そしてオーストリアに対して優位に外交を進めるためにラシュタット会議に出席するよう促しましたが、ナポレオンは理由を付けてパリから離れようとしませんでした。

そこでナポレオンに大西洋沿岸を視察したらどうかと促しました。

ナポレオンはイングランド方面軍総司令官の任務を放棄するわけにはいかず、式典などでスタール夫人から破廉恥な質問を投げかけられることに辟易していたことも相まって、2月8日、遂にパリを離れてダンケルクに向かいました。

ナポレオンはイングランド遠征を行なうための計画を立案し、ぼろぼろの大西洋側のフランス海軍を立て直すために奔走しました。

しかし、海軍を立て直して制海権のない海に隔てられたイングランドへの遠征を実現させるのは容易ではなく、多くの資金と時間が必要でした。

フランス政府に数多くの要求の書簡を送りましたが、資金と時間の捻出が不可能だった場合のことも考え、イギリスの影響力の強いドイツ方面のハノーファーとハンブルクへの侵攻か、もしくはレヴァント(トルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地中海東部沿岸地域の総称)への遠征を代替案として提案しました。

そしてこれらのことを直に説明し、自身の考え(エジプトへの遠征計画)を伝えるために再びパリに向かいました。

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エジプト遠征前のナポレオン 02 イングランド遠征の中止と東洋軍総司令官への任命

1798年2月24日、ナポレオンはパリに到着し、バラス達にイングランド遠征の現状と見通しを説明しました。

様々なことを考慮し、イングランド遠征が現状不可能であることを理解したバラスは方針を変更しイギリスを脅かすことが最善であると考えました。

イングランド遠征を行ないたかったルーベルもそれに同意し、ナポレオンも「イングランド方面軍にとって最も良いことは、私がその総司令官であることだ。」と言い、イングランド遠征は中止となりました。

2月下旬、ナポレオンは今後の方針についてバラス等と協議を重ね、エジプトへの遠征を提案しました。

バラス等総裁達は最初は難色を示しましたが、ナポレオンは一人ひとり説得し、エジプト遠征をねじ込みました。

総裁達には「絶大な人気を誇るボナパルト将軍を権力(パリ)から遠ざける」という一致した目的もあったと言われています。

1798年3月5日、フランス政府は遂にエジプトへの遠征を決定し、新設される軍は東洋軍と名付けられました。

東洋軍総司令官にはナポレオン・ボナパルト将軍が任命され、トゥーロンに30,000人の軍隊を編成し、遠征隊の輸送と安全のための艦隊を編成するためのすべての権限、武器、資金が与えられました。

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エジプト遠征前のナポレオン 03 エジプト遠征準備の開始とウィーンでの事件

1798年3月5日に東洋軍総司令官となったナポレオンは、すでに考案していた計画を実行に移すべく、各方面に命令を発しました。

ドゼー(Desaix)将軍はチヴィタヴェッキア、クレベール将軍はトゥーロン、バラグアイ・ディリエール将軍はジェノヴァ、ヴォーボワ将軍はコルシカ島アジャクシオ、レイニエ(Reynier)将軍はマルセイユに向かい指揮を執りました。

そしてこれら港に兵士と大砲を移動させ、倉庫にそれぞれ1ヶ月分の水と2ヶ月分の食糧を備蓄するよう命じました。

着々とエジプト遠征準備が進む中、フランス政府は4月12日に東洋軍設立についての法令を発布し、現在のイングランド方面軍総司令官ナポレオン・ボナパルト将軍が総司令官となることに署名しました。

東洋軍の目標は対外的に隠され、フランス内部でもごく一部の者しか知らされていませんでしたが、「エジプトの占領」、「イギリス所有の紅海にある交易施設の破壊」、「スエズ地峡の遮断」、「紅海の支配」と正式に定められました。

同時にシチリア島とアフリカの間に位置し、エジプトへ行く途中にあるマルタの占領も決定されました。

しかし、4月13日、駐ウィーン大使ベルナドット将軍がウィーンで事件を起こし、オーストリアとフランスの間で再び戦争が勃発するのではなかと思われ、周辺各国がその動静を注視する事態にまで発展しました。

フランス政府はこの事件を発端とする戦争を未然に防ぐために、もしオーストリアとの交渉が必要な場合、ボナパルト将軍にラシュタットへ向かうよう要請しました。

そのためナポレオンはトゥーロンへの出発を延期してパリに留まり、マルセイユ船団に出したトゥーロンへの出航を一時停止させました。

エジプト遠征におけるナポレオンの対イギリス戦略やベルナドット将軍のウィーンでの事件のあらましについては詳細記事に掲載しています。

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エジプト遠征前のナポレオン 04 ネルソン戦隊の出航とウィーンでの事件の影響

イギリスはトゥーロンや地中海沿岸におけるフランス軍の活動を把握していましたが、フランスに駐在する諜報員の努力にも関わらずフランス艦隊の目的地は不明でした。

エジプトへの侵攻の可能性も議論されましたが、その距離から否定されました。

フランス艦隊の目的は不明だったためイギリス政府はテージョ川の河口にあるリスボンに拠点を置くイギリス地中海艦隊に、フランス艦隊の動向の観察を命じました。

これを受けたジャービス提督は、5月2日、トゥーロンのフランス艦隊の動向を探る極秘命令をネルソン少将に下しました。

5月4日、ネルソンはジブラルタル港に到着し、5月7日までに旗艦「ヴァンガード」とジブラルタル艦隊の一部で小規模な戦隊を編成しました。

5月8日夜、ネルソンは小戦隊を率いてジブラルタル港を出港し、途中、スペイン軍から攻撃を受けましたが、そのままトゥーロンへ向かって旅立ちました。

一方、フランス軍側ではウィーンでの事件の影響を受けてナポレオンぱパリに足止めされ、5月2日にようやくパリを出発することができていました。

そして5月9日、遂にナポレオンがトゥーロンに到着しました。

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エジプト遠征前のナポレオン 05 エジプト出征前のナポレオンの演説とネルソン戦隊のトゥーロン沖への到着

1798年5月10日、ナポレオンはトゥーロン出航前に兵士達に演説を行いました。

第一次イタリア遠征前の演説では「食糧、富、名誉を得る」ことが目的とされましたが、エジプト遠征前の演説では「名誉とフランス革命思想の伝搬」が目的とされました。

5月11日、ナポレオンは補給に関するルールを定め、各師団に地域を割り当てて兵站に関する管理責任を明確にし、輸送がスムーズに行われるよう手配しました。

しかし5月17日、ネルソン戦隊がトゥーロン沖に到着しトゥーロン港の観察と情報収集を開始しました。

ナポレオンの具体的な演説内容やネルソンがトゥーロン沖で収集できた情報などについて知りたい方は詳細記事を参照してください。

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参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・その他