エジプト戦役 03:ナポレオンのカイロへの進軍計画と過酷な行軍の始まり
Planning for the march to Cairo and the beginning of the harsh march
ナポレオンのカイロへの進軍計画

※ナポレオンのカイロへの進軍計画。
ボナパルトはカイロを占領することを計画していた。
部隊を2つに分け、1つ目の本体は砂漠を横断してダマンフール(Damanhour)へ向かい、2つ目はロゼッタを占領してナイル川を遡上し、アル・ラフマニーヤ(AR Rahmaniyyah)へ向かう。
2つの部隊が合流した後、マムルーク軍を撃退しつつ水のあるナイル川を沿いを南下してカイロへ向かうのである。
第一次イタリア遠征の時のようにフランスのパルチザンやスパイが各地にいないため現地の情報は乏しく、欧州と全く違う環境での軍事作戦となることが予想されたが、ボナパルトには当時最先端の軍事技術と対騎兵戦術という勝算があった。
アレクサンドリアへの集結と過酷な行軍の始まり

※ダマンフールまでの道程。
1798年7月3日、ボナパルトはドゼー将軍に、まずアル・ベイダ(Al Bayda')に行き、アル・アクリシャ(Al Akrishah)、アル・カリュン(Al Karyun)、ビルケット・ガッタス(Birkat Ghattas)、アル・カラウィ(Al Qarawi)を経由しダマンフールへ向かうよう命じた。
ダマンフールまでの経由地の村はそれぞれ60人~80人ほどの住民がおり、近くに水があり、飼料の獲得も期待できると思われた。
そして騎兵と砲兵の到着はまだ先であることを伝え、さらに僅かな騎兵と軽砲の使用を禁じた。
騎兵と軽砲の使用を禁じた理由は、後に対決するであろう4,000騎~5,000騎のマムルーク騎兵との会戦に備えて大砲などのフランスの軍事技術を隠すためだった。
そしてマラブウ半島周辺で最後の上陸の指揮を執っていたレイニエ将軍に対し、すべてを持って陣地を離れ落伍者を出さないよう注意しつつアレクサンドリアへ向かうよう命じた。
もし落伍兵を残した場合、彼らはアラブの山賊(ベドウィンなど)に襲われアレクサンドリアに到達できない可能性が高いと考えられたのである。
ボン師団本体と師団長が負傷したメヌー師団及びクレベール師団はアレクサンドリアとその周辺に留まり、ボン将軍指揮下のマルモン旅団はドゼー師団の後を追い連絡線を確保した。
ボナパルトは東洋軍艦隊司令官ブリュイ提督に対して、アレクサンドリアの旧港(エウノストス港)かもしくはアブキール湾のどちらかで優勢な敵艦隊を撃退できる態勢を整えるよう命じ、もし敵戦力が非常に優れており撃退できないと判断した場合、コルフ島へ撤退するよう命じた。
アレクサンドリアを統治していたコライム・パシャとも和解し、懸念されていた深刻な伝染病などを発症した兵士もおらず、作戦は順調に進んでいた。
アレクサンドリアからの本格的な移動
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※「エジプトのナポレオン」。ジャン・バプティスト・エドゥアール・ディテール(Jean Baptiste Edouard Detaille)画。1868年
7月4日午後5時、ルクレール将軍は騎兵隊を率いてドゼー師団の後を追ってアル・ベイダ村へ向かい、その途中、ミルール(Mireur)将軍の騎兵隊と合流して騎兵旅団を形成した。
7月5日午前0時、7月4日中にアレクサンドリアに到着していたレイニエ師団はルクレール騎兵隊の後を追い、この時点でアル・ベイダ村にいるはずのドゼー将軍の元に向かうためにアレクサンドリアを出発した。
この時、ドゼー将軍はレイニエ師団を指揮下に加えて2個師団を率いること、そしてダマンフールを占領するか、もしくはその手前に師団本部を置くよう命じられていた。
重傷を負ったクレベール将軍に代わってドゥガ将軍がクレベール師団(ヴェルディエ旅団とランヌ旅団)の指揮を委ねられ、ミュラ騎兵旅団とともに午後5時にアブキール(Abu Qir)を経由するルートでロゼッタへ向かった。
アブキールでは半島の先端にあるアブキール城を占領して守備隊を残し、ロゼッタへ向かう手筈となっていた。
同時に海側ではフランスの船団がドゥガ師団のアブキール城攻略を支援するよう命じられていた。
そしてボナパルトはカッファレリ工兵将軍に命じマラブウ塔周辺とアレクサンドリアの要塞化を取り組ませた。
7月6日、アレクサンドリアに到着したヴィアル少将は負傷したメヌー将軍の代わりにメヌー師団を率いドゼー師団及びレイニエ師団と同じルートでダマンフールへ向かうよう命じられ、午後4時にアレクサンドリアを出発した。
ドゼー将軍はダマンフールを占領し、水場を確保した。
6日夜、負傷しているメヌー将軍は翌7日の日中にアレクサンドリアを出発して海路でロゼッタに向かい、ロゼッタ地区全体の指揮を執るよう命じられた。
そして負傷したクレベール将軍はアレクサンドリアの指揮を一任された。
ボン師団所属のベルトラン工兵大尉の行軍日記には「メシドール19日(7月7日)、夕方5時に我々はアレクサンドリアを出発し、カイロへの道を進んだ。」との記述があるため、ボン師団は7月7日にアレクサンドリアを出発し、ダマンフールへ向かったのだと考えられる。
※アンリ=ガティアン・ベルトランは数学、特に幾何学における優れた能力をナポレオンに見いだされてエジプト遠征に従軍した。後に宮殿大元帥(Grand maréchal du palais)となり、エルバ島やセントヘレナ島にも付き従うことになる人物である。
レイニエ将軍は1798年7月4日に5日午前0時にアレクサンドリアを出発してドゼー師団の後を追うよう命じられているため、時系列的には7月3日にドゼー師団が、4日にルクレール騎兵旅団が、5日午前0時にレイニエ師団が、6日にヴィアル旅団が、そして7日にボン師団がアレクサンドリアを出発してダマンフールへ旅立ち、7月5日にドゥガ師団がアレクサンドリアを出発してアブキール経由でロゼッタへ旅立ったことになる。
※この行軍順は主要な説ではドゼー師団、ボン師団、レイニエ師団、ヴィアル旅団の順だとされている。その根拠は恐らく、ボン師団前衛のマルモン旅団がドゼー師団の後にロゼッタへの道とダマンフールへの道の交差点に向かったからだろう。
マムルーク軍の動向
7月5日、カイロに異教徒がアレクサンドリアを占領したとの報がもたらされた。
オスマン帝国のエジプト総督セイド・アブー・バクル(Seid Abou Beker)とエジプトの実権を握るイブラヒム・ベイ及びムラード・ベイがカイロで軍議を行ないアレクサンドリアを占領したフランス軍を撃退することが決定された。
イブラヒム・ベイはまずはフランス軍との話し合いを行なうべきだと主張したが、ムラード・ベイは自身の能力とマムルーク軍を過信し、戦うことを主張した。
フランス軍の上陸兵は約30,000人であり、倍以上の兵力を有するマムルーク軍の敵ではないと考えられた。
しかしどちらにしても直ちに兵を召集すべき事態であり、セイド・アブー・バクルとイブラヒム・ベイはフランス軍を撃退することに同意した。
そして最終的にムラード・ベイはフランス軍を撃退するために兵を率いてアレクサンドリアへ進軍し、イブラヒム・ベイは首都防衛のためにカイロに残るという意見でまとまった。
イブラヒム・ベイとムラード・ベイはマムルーク朝内で対立しており、仲が悪かったと言われている。
同日夕方、イブラヒム・ベイはカイロから北に4㎞ほどの所に位置するブウラク(Boulaq)でできる限り多くの兵力を集結させるために奔走し、ムラード・ベイは急いで集結させたマムルーク騎兵3,000騎とフェラ(Fellah)民兵2,000人を率い翌6日に船を利用してナイル川を北上した。
その後、フェラ民兵とマムルーク騎兵が続々とブウラク港を出航しムラード・ベイの後を追う手筈となっていた。
※フェラ(複数形はフェラヒン)とは「耕作をする者」という意味であり、「真のエジプト人」と呼ばれるエジプト先住民のことである。
ペドウィンの偵察
7月2日のアレクサンドリアの戦いから始まったベドウィンの襲撃は2日間続いていた。
しかし7月5日、12人~15人ほどのベドウィンの代表団が部族の名においてフランスと同盟を結ぶためにアレクサンドリアを訪れた。
ボナパルトは彼らを丁重に歓迎し、贈り物などを与えた。
話し合いの結果、この日は一旦戻り、翌6日に再びアレクサンドリアに戻ることを約束してベドウィンの代表団は帰って行った。
しかし、その後ベドウィンの代表団が再びナポレオンの元を訪れることはなかった。
そのため、彼らはフランス軍の状況を知るために訪れたのだろうと考えられた。
シリア戦役の予兆
マルタ島滞在中にアルバニアとギリシアを統治するテペデレンリ・アリー・パシャの元に派遣されたラ・ヴァレッテは7月5日にコルフ港に入港してコルフ島を守るシャボー将軍に使者を送り「アリーはヨアニナにはおらず、パスワン・オグルー(Passwan-Oglou)率いる反乱軍と戦っており、ヴィディン(Vidin)包囲軍の指揮を執っていること」を知った。
※ヴィディンはドナウ川に面したブルガリア北西部にある港湾都市。
この時アリーは15,000人の部隊を編成し、オスマン帝国軍の最高指揮権を与えられていたのである。
ヨアニナにはフランス政府が派遣したローズ将軍がアリーの2人の息子から歓待を受けており、ボナパルト将軍の戦勝を伝え、フランス政府からの書簡を2人の息子に渡し、冬の間、コルフ島に駐屯するシャボー師団に食糧の提供を行なってくれたことに対する謝意を伝えていた。
ラ・ヴァレッテはアリー不在のため会うことができないと考え、ボナパルトの元へ帰還した。
もしラ・ヴァレッテがボナパルトからの書簡を届けていたら、シリア戦役が発生しないという未来があったかもしれない。
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