エジプト戦役 47:カイロの反乱
Revolt of Cairo

カイロの反乱のトリガー

 フランス軍の財政は逼迫しており、このままでは10月21日に支払う予定である兵士達の給料の支払いも滞ることになるのは目に見えていた。

 10月9日には、ボナパルトも財務を担当するプシエルグ(Poussielgue)に対して「市民よ、ヴァンデミエール30日(10月21日)に支払う給料を賄うためには、できるだけ早くお金を稼ぐことが不可欠です。寄付金集めを急いでください。」という書簡を送っている。

 真偽は定かではないが、デュマ将軍は与えられた邸宅に財宝が隠されているのを発見したにもかかわらず、私腹を肥やそうとせず、発見した財宝をフランス軍のために提供したという。

 この行動がきっかけとなりデュマ将軍とボナパルトとの関係は修復されていったと言われている。

 しかし、それらも一時的なつなぎにしかならず、資金は枯渇していた。

 そのためボナパルトは支払いに対して約束手形を発行する実質的な後払い制度を実施した。

 ナイルの海戦で本国からの供給が断たれたこの資源の乏しいエジプトで軍の財政を管理し、税制を改革することによって財政的に軍を維持してきたエステーブ(Martin-Roch-Xavier Estève)将軍をもってしても後払いに頼らざるを得なくなるほどフランス軍の懐事情は悲惨なものだったのである。

 この制度は、その多くがカイロに住んでいるトルコやアラブの利権者たちに損害を与えるものであり、兵士の給料の支払い日である10月21日までの間の寄付金の取り立ても酷いものだったため、水面下で反乱を実行に移す決定的な動機となった。

※一般的にカイロの反乱は宗教の違いや被征服民の征服民に対する嫌悪感だと考えられることが多いが、実際は軍資金が枯渇したフランス軍による酷い搾取である。

カイロでの反乱の呼びかけ

カイロでのムアッジンによる祈りの呼びかけ

※「ムアッジン(Le Muezzin)」。ジャン・レオン・ジェローム(Jean Leon Gerome)画。1865年。
カイロでムアッジンが祈りの呼びかけを行っている様子。カイロでの反乱はムアッジンの祈りの呼びかけを利用して行なわれた。
ムアッジン(Muezzin)とは、アザーン(礼拝時間の呼びかけ)を行う職のことである。

 エジプトのイスラム教ではアザーン(礼拝時間の呼びかけ)を1日に3回行なうのが習慣となっており、利権者たちはこのアザーンの文言を反乱の呼びかけに変えて民衆を扇動しようとした。

※アザーンを1日3回行うのはシーア派。

 フランス軍もカイロを占領した当初はアザーンの監視を行っていたのだが、慣れのためか監視を怠るようになっていた。

 そしてフランス人は現地の言語を知らなかったため、このすり替えに気付かなかったのである。

 利権者たちは遂に反乱計画の実行日を定め、アザーンで呼び掛けた。

カイロの反乱の始まり

カイロのアラビアン・ナイト

※「カイロのアラビアン・ナイト(An Arabian Night, Cairo)」。(Albert Goodwin)画。1876年。

 カイロの街はどこも静まり返っていた。

 ボナパルトを含め多くの著名人がローダ島に集まり、フランスの科学委員モンジュとベルトレの提案に従って、裁判所の最終的な組織、税の設立と配分に関する民法と刑法、警察組織およびさまざまな行政対象について冷静に審議していた。

 突然、暴動の兆候が表れ始めた。

 1798年10月21日(ヴァンデミエール30日)夜明け、カイロ市内のさまざまな地区、特に大モスクで騒々しい集会が形成された。

 集会の長にサーダ(Sadah)長老が選ばれた。

 彼は演説で「オスマン帝国宮廷がフランスに宣戦布告した」、「ジェザル・パシャ司令官が軍を率いてベルベイスに到着した」、「フランス軍は逃亡の準備をしていたが、出発の瞬間に市内を略奪するために城壁を破壊した」と民衆たちに告げた。

 そして、ムアッジンはカイロの400本のミナレットの頂上から一晩中、アッラーの敵、異教徒、偶像崇拝者たちに対する非難を街中に響かせた。

 朝7時、多くの人々が法執行者であるイブラヒム・エクテム・エフェンディ(Ibrahim Ekhtem Effendi)の邸宅の玄関に集まった。

 イブラヒム・エクテム・エフェンディはその人格と徳において尊敬される人物だった。

 20人のカイロの名士の代表がイブラヒム・エクテム・エフェンディを邸宅から連れ出し、その後、全員でフランスの総司令官の元に嘆願書を提出するために彼を馬に乗せた。

 しかしイブラヒム・エクテム・エフェンディは嘆願書を提出するだけにも関わらず人数が多すぎることに驚き、馬から降りて邸宅に戻った。

 イブラヒム・エクテム・エフェンディの行動に不満を抱いた暴徒は石や棒で彼とその家族や従者達に襲い掛かり、彼の邸宅を略奪した。

 その間にも群衆の波は刻一刻と大きくなっていき、自分たちはフランス軍よりも十分強いと考えるようになった。

 そして彼らが悪名高き抑圧者とみなした少数の人々をカイロ市から排除した。

 カイロの守備隊の数が少なかったこともあり、集会はすぐに暴動にとなって群衆はあらゆる拠点や通りを占領し、そして反乱となって敵対する者すべてを見境なく虐殺した。

 工兵将軍カファレッリ=デュファルガ(Caffarelli-Dufalga)が住んでいた邸宅も占拠され、略奪された。

 カファレッリ=デュファルガ自身はボナパルトと参謀本部のほぼ全員とともに早朝にローダ(Rodah)島へと出発していたため無事だったが、カファレッリ将軍の数人の部下と2人の橋と道路技師、テヴノー(Thévenot)とデュヴァル(Duval)がカファレッリ将軍の邸宅にいた。

 彼らは勇敢にも自分たちよりも圧倒的に数の多い侵入者たちに立ち向かったが、ドアはすぐに粉砕され、部屋から追い出され、バラバラに引き裂かれた。

 同時に別の反乱グループがローダ島のセレモニー会場を取り囲んだ。

 ボナパルトはフランス軍幹部、その部下たちとともに邸宅に立て籠もり、この反乱グループに抵抗した。

 通常であれば研究に専念するはずの科学委員会のために集まった科学者や芸術家たちも武器を取り、バリケードを築き、勇敢な姿勢を示した。

 科学者や芸術家たちは、注意深く観察し、頑強に自分たちを守ったため、反乱グループの攻撃はすべて撃退された。

カイロの警備担当であるデュプイ将軍の状況

デュプイ将軍

※「デュプイ将軍(General Dominique Martin Dupuy)のイラスト」。Василий Фёдорович Новицкий 編「Военная энциклопедия 第9巻」(1912)より抜粋。

 カイロ司令官デュプイ将軍は、民衆が集会を開くことについて早くから報告を受けていた。

 デュプイは集会に対して必要以上に警戒していなかったため、初めは扇動者に対していくつかの巡回警備を開始するだけに留めていた。

 しかし、各方面から寄せられた報告から、集会が解散せず、集会が反乱に変化しつつあるることを知り、邸宅を出て、第32半旅団の元に向かった。

 第32半旅団は周辺地域に兵舎を設け、竜騎兵に簡単なピケットを持たせてカイロの街への進軍の準備をするよう命じられた。

 そして竜騎兵たちを付き従わせながら、最大規模の群衆の1つがあると言われている大きなモスクに向かった。

 途中、膨大な群衆が通りの大部分を封鎖し、多くの住民がフランスの将軍とその護衛に向かって家の屋上から発砲したり、石を投げつけたりした。

 デュプイとその護衛の竜騎兵たちは、目の前に現れたすべてのものを追いかけ、サーベルで屠りながら、フランス人地区に到着した。

 そしてデュプイ一行がヴェニティアン通りに入ろうとしたとき、ますます密集した反乱軍に足を止められた。

 反乱軍はデュプイ一行の通行を妨害しているようだった。

 この時のデュプイ将軍は自身の勇敢さによって目の前の反乱軍の数を軽視し過ぎており、越えられない壁があると反乱軍に認識させる必要があると考えたのだろうと推測できる。

 そのため竜騎兵たちに自分に従うように命じ、歩兵の到着を待たずに反乱軍に突撃した。

 反乱軍は最初の衝撃で撤退したが、すぐに前進し、突出していたデュプイ将軍に致命傷を負わせて取り囲んだ。

 デュプイ将軍は左脇の下を槍で突かれて倒れていた。

 竜騎兵たちはなんとか反乱軍を遠ざけ、倒れているデュプイを救出し、それほど遠くないジュノー大佐の邸宅まで運んだ。

 しかし、この不運な将軍は動脈を損傷しており、8分後に息を引き取った。

※2時間後という説もあるが、「ナポレオン1世書簡集」には「8分間しか生きられなかった。」と書かれている。

ボン師団による反乱軍への攻撃

エル・アズハル・モスクの中庭

※「カイロのエル・アズハル・モスクの中庭(Courtyard of the Al-Azhar Mosque, Cairo)」。ジョゼフ・フィリベール・ジロー・ド・プランジェ(Joseph-Philibert Girault de Prangey)画。1843年。

 デュプイ将軍の死のニュースは、瞬く間に市内のさまざまな地区に広まり、群衆を興奮させ反乱と化した。

 そして暴徒は金持ちの家を略奪し始めた。

 大砲が周囲に危険を知らせる警報として鳴り響くと、カイロ周辺のフランス軍は移動縦隊を形成して集結し、ボン将軍が指揮した。

 この時点で午前8時過ぎであり、副官のデルモンクール(Dermoncourt)大尉は脾臓の病気で寝ているデュマ将軍の部屋に駆けこみながら叫んだ。

「将軍!市は完全な反乱状態にあります。デュプイ将軍が殺害されました!馬に乗って!馬に乗って!」

 デュマ将軍は寝起きであるにもかかわらず、この危機的状況を洞察すると、ほぼ裸で鞍のない馬に飛び乗り、サーベルを手に取り、周りにいた何人かの警備兵の先頭に立ってカイロの街路に飛び出した。

 どうも反乱軍は一斉に財務局長エステーブ将軍のもとへ向かったようだった。

 デュマ将軍はなんとか60人の部下を集結させるとエステーブ将軍の元に急いだ。

 財務局に到着するとデュマ将軍は周囲を一掃し、トルコ人とアラブ人に斬りかかり、エステーブの命を救った。

 間もなく、ボン将軍麾下のいくつかの大砲を持った強力な歩兵の分遣隊が大通りに派遣され、殺気立って騒いでいる反乱軍に発砲した。

 しかし、砲撃と射撃のみで反乱軍と戦ったわけではなかった。

 反乱軍の内の15,000人は射撃と銃剣によって追い立てられ、大モスクと呼ばれるエル・アズハル・モスク(Al Azhar Mosque )に避難していった。

 エル・アズハル・モスクでは、反乱に加わって逃げてきた群衆が立てこもり、死ぬまでそこを守り抜くことを誓っていたが、モスクの外では群衆が次々と追い立てられ、時間が経つごとにエル・アズバル・モスクへの避難者の数は増えていった。

 これによりボン将軍はエズベキエ広場周辺地域を制圧したのだと考えられる。

ベドウィンの接近とローダ島への救援部隊の派遣

 ボン将軍による攻撃にもかかわらず、ムッラー(イスラム教シーア派の律法学者)たちは、まだ行動を起こしていないカイロの住民に対して連帯感を促し、復讐を呼びかけ続けていた。

 一方、砂漠のアラブ人(ベドウィン)は間違いなく反乱を通知されており、すでに首都カイロの城壁にまで進軍していた。

 そして反乱軍に加わり、混乱に乗じて略奪を行うためにカイロに入ろうと試みていた。

 その間、救援部隊がローダ島に急行していた。

ナポレオンとボン将軍の合流

1798年当時のカイロの街のおおよその位置関係

※1798年当時のカイロの街のおおよその位置関係。恐らく、ハリージ運河の西側がフランス人地区。

 21日夕方、ローダ島に救援部隊が到着し、ボナパルト一行は包囲から解放され、カイロの反乱について報告を受けた。

 その後、ボナパルトは少数の護衛とともに急いでカイロの街に向かった。

 ボナパルトはカイロに入ることを考えており、街の門の内の2つに立ち寄った。

 しかし、この2つの門は反乱軍によって占領されており、早急にボン将軍の元に行って指揮を執らなければならないにもかかわらず、街の中に入ることはできなかった。

 そして3つ目のブウラク側の門に到着した時、ようやくカイロの壁を越えて街の中に入ることができ、ボン将軍との合流に成功した。

カイロの地図:エジプト誌(1809年出版)より

※「エジプト誌:近代国家、図版 第1巻(Description de l'Égypte, Etat Moderne,Planches Tome Premier)」(1809)より抜粋。

1809年出版時点でカイロの街を取り囲む門は、1. ナスル門(Bab El Nasr)、2. フトゥー門(Bab El Foutouh)、3. アディド門(Bab El Hadyd)、4. ルーク門(Bab El Louq)、5. スーク・エル・ブルヴァ門(Bab Souq El Burvr)、6. シーク・リヤーン門(Bab El Cheykh Ryhan)、7. ゲイエ・エル・レメー門(Bab Gheyt El Remmeh)8. ナシーリヤ門(Bab El Nasryeh)、9. ゲイエ・エル・バシャ門(Bab Gheyt El Bacha)、10. セイド門(Bab El Sayd)、11. バグリアレー門(Bab El Baglialeh)、12. カラブ・アイユーブ・ベイ門(Bab Kharabt Ayoub Bey)、13. トゥーローン門(Bab Touloun)、14. マドバー門(Bab El Madbah)、15. ガッバセ門(Bab El Gabbaseh)、16. サヴダ門(Bab El Savdeh)、17. ダーブ・エル・マウルーク門(Bab Derb El Mahrouq)、18. ゴーエイブ門(Bab El Ghorayb)が存在した。そして、その内側に南からズウェイラ門(Bab Zuwayla)、サーダ門(Bab El Saada)、カンタラ門(Bab El Kantara)、シャーリーヤ門(Bab El Shaariya)などの門があった。

【エジプト遠征】1798年10月21日、カイロの反乱の際、ナポレオンがカイロの街に入ろうとしたルートの推測。

※1798年10月21日、カイロの反乱の際、ナポレオンがカイロの街に入ろうとしたルートの推測。

※Alexandre Dumas著「Mes mémoires, 第 1 巻」(1865)には、ローダ島を出たナポレオンが向かった1つ目の門は「旧カイロの門」、2つ目は「研究所の門」、3つ目は「ブウラクの門」と書かれている。研究所は「エジプト研究所」のことであり、エジプト研究所のそばには「ゲイエ・エル・レメー門(Bab Gheyt El Remmeh)」と「ナシーリヤ門(Bab El Nasryeh)」があった。恐らく1つ目の「旧カイロの門」とは「Bab Gheyt El Bacha」「Bab El Sayd」「Bab El Baglialeh」「Bab Kharabt Ayoub Bey」「Bab Touloun」のどれかであると考えられ、そして「ブウラクの門」はブウラク方面にある「ルーク門(Bab El Louq)」だろうと推測できる。

1798年、エジプト研究所の近くにあったナシーリヤ門の風景。

※参考:「ナシーリヤ門の風景」。「エジプト誌:近代国家、図版 第1巻(Description de l'Égypte, Etat Moderne,Planches Tome Premier)」(1809)より抜粋。

ファーティマ朝時代(10世紀~12世紀)のカイロの都市計画図

※参考:ファーティマ朝時代(10世紀~12世紀)のカイロの都市計画図。これらの門の中で1798年まで残っているのは「Bab El Barkiya」、「Bab El Mahruk」、「Bab Zuwayla」、「Bab El Kantara」、そして「Bab El Farag」の上にある「名も無き門」である。「Bab El Barkiya」は「ゴーエイブ門(Bab El Ghorayb)」と名を変えている。1794年時点でハリージ運河沿いには、「シャーリーヤ門(Bab El Shaariya)」、「カンタラ門(Bab El Kantara)」「サーダ門(Bab El Saada)」があり、恐らく「名も無き門」の位置には「サーダ門(Bab El Saada)」があったと考えられる。

ナポレオンによる指揮の開始

 ボナパルトは取り急ぎ重要地点を守るためにボン将軍に対し、師団の一部を城塞広場(現サラディン広場)に、もう一つを旧カイロ市街とブウラクの間に位置するエズベキエ広場(現在のアズバケヤ庭園(Azbakeya Garden)一帯)に野営させるよう命じ、病院と倉庫を保護するために多数の部隊を巡回させるよう命じた。

※エズベキエ広場には18世紀に建設されたマムルーク朝のエルフィー・ベイの宮殿があり、ナポレオンはその宮殿をカイロでの住まいとしている。

 そして正確な報告をするよう指示した。

 その後、情報を収集して状況を把握すると地区間の連絡が遮断されていることに気付いたボナパルトはすぐに連絡線の再確立を命じ、広場(恐らくエズベキエ広場)のメインストリートの出入り口に数門の大砲を砲台に設置するよう命じた。

 さらにエル・コッベ(El Qobbah)にいる第22半旅団の指揮官にも書簡を送り、カイロとエル・コッベの間の高地を占領し、軍を結集させるよう命じた。

 しかし、これらの指揮系統の回復と軍の態勢の立て直しには長い時間がかかり、ようやく日が暮れてから完了した。

 21日の夜の内に、ルマイラ広場(サラディン城塞前にある広場)、エジプト研究所、エズベキエ広場との間の連絡線を再確立するため部隊を派遣し、その周辺の門や軍事施設を占領し、司令部をエズベキエ広場からサラディン城塞に移したと考えられる。

※エズベキエ広場から反乱の拠点であるエル・アズハル・モスクは見通し難い。しかし、サラディン城塞からならエル・アズハル・モスク周辺は見通し易い。

 21日夜、フランス軍は武装したままで夜を過ごしたが、エル・アズハル・モスク(大モスク)の東に広がる死者の町(北墓地)を拠点としている反乱軍の大多数は、日没後には何もしないという習慣のために自宅に帰り、大モスクを占拠している者でさえも砲撃を中断した。

 大通りをバリケードで封鎖した反乱軍の評議会が開かれていた大モスクの周囲を除いて、カイロの街全体がほとんど静まり返っていた。

真夜中の攻防

 10月22日0時頃、ドマルタン将軍はサラディン城塞とエル・コッベの間の高台に4門の大砲を持って直行した。

 ドマルタン将軍の向かった高台は150トワーズ(150 toises = 約300m)もある大モスクを支配する重要地点だった。

※サラディン城塞とエル・コッベの間の高台とは、エル・アズハル・モスクの東の城壁外にある現在のアル・アズハル公園(Al-Azhar Park)のことだろうと考えられる。アル・アズハル公園からは市街の景色を一望できる。

 アラブ人(ベドウィン)と農民(フェラヒン)は反乱軍を助けるために行進した。

 22日未明、ボナパルトは(恐らくエズベキエ広場にいる)ランヌ将軍に2日分のパンと榴弾砲や三挺砲を持って出発し、夜明けにカイロの街の外にある司令部の裏の高地(恐らくサラディン城塞の南東にあるモカタム山の裾)に行くよう命じた。

 その際、残りの大砲はカイロ旧市街とローダ島にあるイブラヒム・ベイの邸宅を守る分遣隊に残すよう命じ、200人~300人の巡回部隊をブウラクに派遣し、新たな情報が何もないことを確認した後、合流するよう指示した。

 同時にギザに派遣したランヌ旅団麾下の3つの中隊の内の1つにナイル川を渡ってボン師団と合流させ、ローダ島北端と取水口にあるメキヤス(Meqyàs)砲台に砲手と軍需物資を供給するよう命じた。

◎1898年以前のカイロ周辺地図

1898年以前のカイロ周辺地図

※取水口とは、ローダ島南端にあるナイロメーターのことだと考えられる。地図ではミキヤス・ナイロメーター(Mikyas Nilomatre)と書かれている。

 ランヌ将軍は4,000人~5,000人の農民をヴォー(Veaux)将軍に攻撃させたが、農民たちは自分たちが望んでいたよりも早く逃走して行った。

 この時、多くの人が洪水で溺れた(恐らくナイルの氾濫で増水した川や運河などに落ちた)と言われている。

総攻撃のための準備

 22日朝、ベドウィンや農民たちは(恐らく北側と東側の門から)カイロの町に入り始めた。

 朝8時、ボナパルトはデュマ将軍を騎兵とともに平原を破るために派遣した。

 彼はアラブ人をエル・コッベの向こうまで追いやった。

 午後2時、城壁の外(恐らくファーティマ朝時代からある城壁の外)は静まり返っていた。

 大モスクやカイロの町に反乱軍が再び集結し始めたことを察知したボナパルトは、ボン将軍とドマルタン将軍に緊急で大モスクへの砲撃をさせつつ夜に一斉砲撃を行なうための準備を命じた。

 榴弾砲を最も有利な場所に配置させ、夜と明日の夜明けの間に支援砲撃下でカイロ市内に部隊を派遣して死者の町やカイロの町の反乱軍を虐殺し、反乱軍の最大の拠点であるエル・アズハル・モスクを制圧するのである。

 そしてカイロ市内の制圧を容易にするために夜でも家に明かりを灯すよう通達を出した。

作戦の開始

エジプト、カイロにある死者の街、またはカイロ墓地

※「エジプト、カイロにある死者の街、またはカイロ墓地(The City of the Dead, or Cairo Necropolis, Cairo, Egypt.)」。アルフォンス=エティエンヌ・ディネ(Alphonse-Etienne Dinet)、イスラム教に改宗後の名前:ナスラドディーン・ディネ(Nasreddine Dinet)画。1919年。
北墓地か南墓地かは不明。

 22日夕暮れ時、反乱軍は再び集結し、カイロのいくつかの出入り口を占領した者たちは外部との連絡を容易にした。

 その後カイロにはベドウィンと農民が群がった。

 ある者は棒やパイク、ある者はサーベルや短剣で武装し、ライフルを持っている者さえいた。

 夜の間、ボナパルトは反乱軍の新たな攻撃を撃退するための態勢を整えた。

 反乱軍が再び死者の町(北墓地)を本拠地として選んだと報告を受けたボナパルトは、そこに歩兵縦隊を送り、逃げることができなかった、あるいは抵抗することを選んだ人々をすべて切り裂いた。

 死者の町だけではなく、カイロの町のあらゆる大通りも同様に血なまぐさい虐殺の現場となった。

 これらの通りのそれぞれの出入り口には、歩兵中隊と、大砲または榴弾砲の砲列が配置されていた。

 反乱軍はメインストリートに進入することは自ら死にに行くようなものであることを十分に理解しており、ひと気のない路地を抜け、庭園や中庭を抜け、角にある家々に入り、そこでフランス軍の歩兵部隊に発砲し始めた。

 しかしフランス軍は、銃弾の雨を降らせていた各家に走り、斧でドアを破壊して家を制圧し、立て籠もっていた男全員を通りに出し、武器を放棄させた。

 一部の強い反乱支持者はカイロの町で抵抗したが、その他の者達は戦いを放棄して逃亡した。

 騎兵隊を率いるデュマ将軍とランヌ将軍はカイロの周囲の田園地帯で急いでカイロから逃亡しようとしているベドウィンや農民の集団を追撃し、カイロに入ろうとする人々を阻んだ。

休戦交渉の決裂

 しかし、反乱軍は依然としてエル・アズハル・モスク(Al Azhar Mosque )を占拠しており、この場所で最後の最後まで持ち堪えることを考えているようだった。

 建物の出口はすべてバリケードで囲まれ、厳重に警備されており、力づくで攻撃した場合、多くの兵を失う危険すらあった。

 ボナパルトはドマルタン砲兵将軍にモカタム(Moqatam)の麓にあるデュプイ砦に陣取るよう命じた。

 モカタムはサラディン城塞の南東にあるカイロを一望できる高台であり、将来、反乱が起きた時の備えとしてその麓に砦が建設されていた。

 そしてエル・アズハル・モスクへの一斉砲撃の準備を命じ、その準備の間、忠実であり続けた主要な住民の中から休戦交渉使節を選んで派遣したが彼らは銃撃で迎えられた。

 ボナパルトはその後も諦めずに休戦交渉使節を派遣した。

 ボナパルトとしては、この大都市を制圧するには物事を極端に進めてエジプト国民とフランス軍との和解を不可能にする可能性のあるものをすべて回避する必要があった。

 そのため反乱軍の首謀者たちのトルコ語とアラビア語でなされた宣言は虚報や誤解が根本にあることを一つ一つ紐解こうとした。

「ジェザル・パシャが砂漠を通過したことは真実ではないこと」、「城壁の破壊は適切な警察の規則に則って行われ、都市側の城塞の武装は軍政の執行に過ぎなかったこと」、「反乱軍が武器を放棄することに同意するなら寛大な恩赦を与える」ことなどを伝えた。

 民衆たちはピラミッドの戦いやスルタン・ケビールが民衆に対して行った行為を思い出したようだった。

 そしてボナパルトは寛大さを示すために、最終的にサーダ長老の判断に任せることを提案した。

 しかしこの提案は悪影響を及ぼした。

 反乱軍の指導者たちはこの言葉を利用して、「フランス人は恐れており、それがフランス人を横柄にしている」と民衆を説得した。

 休戦交渉使節は「反乱軍には何も期待することができず、砂漠のベドウィンが進軍しており、最も近い部族が今日の内に到着するようであるため、遅滞なく武力行使が必要である」とのメッセージをボナパルトに送った。

 ボナパルトの寛大さは反乱軍にとっては弱腰にしか見えず、反乱軍は自分たちの数的優位を過信して、ボナパルトのすべての提案を拒否したのである。

 和平の道は閉ざされ、ボナパルトに残された選択肢は強硬手段しかなかった。

スルコウスキー暫定騎兵隊長の死

 休戦交渉決裂の1時間後、700人~800 人からなるビリス(Billis)族とテラビン(Térabin)族が敵対行為を行い、ブウラクとの連絡線に侵入していることを知った。

 ボナパルトは、7月に副官から暫定的に騎兵隊長に昇進させたスルコウスキー(Joseph Sulkowski)にベドウィンたちを追い払うよう命じた。

 スルコウスキーは騎兵200騎を率いて出発し、小さな橋で運河を渡り、ベドウィンに突撃して何人かを殺害し、数リーグにわたって彼らを追跡した。

 スルコウスキーは街の周囲をすべて掃討したが、帰還する際に郊外の民衆に襲われて負傷した。

 馬が殺された後、転倒して意識を失い10本の槍で突き刺された。

 スルコウスキーはポーランド人の優秀な将校で、エジプト研究所のメンバーだった。

 スルコウスキーはマイソール王国のティプー・スルタンの軍の訓練を行った経験があり、将来、インドへ派兵するときに重要な役割を果たすだろうと考えられていた。

 その後、遺体は適切に埋葬されずに放置され、腐敗して動物に食べられた。

 スルコウスキーの死を聞いたボナパルトは後悔を示し、なぜ生前にもっと尊敬しなかったのかと聞かれると、「初めて会ったとき(1796年5月17日)、私は彼に最高司令官を見た」と答えたと言われている。

 将来を期待されていたスルコウスキーの死はボナパルトに痛切な喪失感を与えた。

 その後、ボナパルトは戦死したスルコウスキーに代わってデュマ将軍に騎兵200騎を率いて、午後にエル・コッベ(El Qobbah)まで巡回するよう命じた。

エル・アズハル・モスクへの砲撃の開始

 ボナパルトは遅滞なくエル・アズハル・モスクへの砲撃を命じた。

 23日午後1時、砲撃がエル・アズハル・モスク周辺一帯に降り注いだ。

 午後3時、モスク内からヴィクトワール門(Porte des Victoires)を通り、カイロの東にあるデュプイ砦へ突撃し、砲台を撤去した。

※反乱軍がエル・アズハル・モスクから東にあるデュプイ砦に突撃していることから、ヴィクトワール門とはゴーエイブ門(Bab El Ghorayb)のことだと考えられる。ただヴィクトワール門とは「勝利の門」という意味であり、「勝利の門」をアラビア語にするとナスル門(Bab El Nasr)となる。

 反乱軍のライフルを装備した銃兵は7〜8千人で、その中には馬に乗った700人〜800人が含まれていた。

 反乱軍はハッサン・モスクのミナレットとドーム全体がサラディン城塞の砲撃兵を沈黙させるために小銃兵で覆ったが、効果は無かった。

※ハッサン・モスクとは1363年に建てられたサラディン城塞の北西にあるスルタン・ハサンのモスク・マドラサ(Mosque-Madrasa of Sultan Hasan)のことだと考えられる。このことからハッサン・モスクも反乱軍の拠点となっていたことがわかる。

 ドマルタン将軍はデュプイ砦の砲台を守るための3個大隊と騎兵300騎を持っていた。

 彼はライフルの先に銃剣を装着して突撃させた。

 反乱軍は押し戻され、騎兵隊は400人の捕虜を捕らえた。

 午後4時、ボナパルトは「彼(アッラー)は遅すぎる。お前たちが始めたが、私が終わらせる!」と叫んだ。

 そして即座に準備されていた4つの歩兵縦隊に合図を出した。

 歩兵縦隊はそれぞれ2個大隊で構成され、合計8個大隊であり、フランス軍に忠実であり続けたコプト教徒、シリア人、イェニチェリによって率いられていた。

 歩兵縦隊が誰も逃げられないように建物を取り囲むためにエル・アズハル・モスクに続く通りを進んだ。

 4つの歩兵縦隊がエル・アズハル・モスクに到着したのは、ちょうどデュプイ砦からの恐怖に怯えた逃亡者たちが入ってきたときだった。

 その後、ドマルタン将軍がデュプイ砦で再配置した砲台の覆いを外し、サラディン城塞の司令官も砲台の照準を定め、間もなく榴弾や砲弾の雨がエル・アズハル・モスクと周囲の家々に降り注いだ。

 火災が始まった瞬間、晴れていた空が雲で覆われ、雷鳴とフランス軍の大砲の音が混ぜ合わさった。

 この奇妙な偶然は、迷信深いエジプト人を恐れさせ、市の他の地域に静けさを取り戻すのに大きく貢献した。

エル・アズハル・モスクの制圧

1798年10月21日、カイロの反乱

※「1798年10月21日、カイロの反乱( Révolte du Caire, 21 octobre 1798)」。アンヌ=ルイ・ジロデ・ド・ルシー=トリオゾン(Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson)画。1810年。
アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)は、絵の中のサーベルを振り上げた金髪の軽騎兵は姿は違えども父デュマ将軍がモデルであると主張している。

 砲撃は大モスクの周辺に大きな混乱をもたらし、瓦礫の下に埋もれる危険を感じた反乱軍は戦う意思を失った。

 砲撃から20分も経たないうちにバリケードは解除され、近隣住民は命を守るために急いで避難した。

 反乱軍はボナパルトの寛大な提案を拒否したにもかかわらず、フランスへの服従を約束するために使者を派遣した。

 しかし、反乱軍の提案は遅すぎた。

 ボナパルトは使者に対し、「私が許しを与えたとき、あなたたちは拒否した。」と言った。

 そして続けて、「今、復讐の時が来た。あなたたちが始めた戦いであり、それをいつ終えるのかは私次第だ。」と答えた。

 ボナパルトのこの厳しい返答が反乱軍に伝わったとき、大モスクを占拠した人々は、絶望の中で救われるための最後のチャンスを掴む決意した。

 反乱軍は武器を手に持って突破口を作ろうと包囲軍に向かって突撃した。

 しかし、フランス歩兵の銃剣によって迎撃され、突撃した者たちに残された選択肢は死だけだった。

 その光景を見た指導者たちは、自分たちの呼びかけが道を誤ったと群衆に訴え、武器を持たずに兵士たちに向かって進み、助命を懇願した。

 夜が更け、すでに多量の血が流れていた。

1798年10月23日、カイロで反乱軍を赦免するナポレオン・ボナパルト

※「1798年10月23日、カイロで反乱軍を赦免するナポレオン・ボナパルト」。ピエール=ナルシス・ゲラン(Pierre-Narcisse Guérin )画。1808年。
ナポレオンが一部の反乱者たちを赦す絵。しかし、11人の扇動者たちは公開処刑され、武器を手に捕らえられた者たちはナイル川のほとりで斬首されている。

 ボナパルトは反乱軍が最後の隠れ家で敗北を認めたことに満足し、嘆願者たちに助命を命じ、攻撃を止め、まだモスクに残っている武器を放棄した反乱軍全員の助命に応じた。

 午後7時、ようやく街は静寂に包まれた。

 この反乱で反乱軍側の損害は5,000人~6000人であり、フランス軍の損害は300人~400人であると言われているが、「ナポレオン1世書簡集」では「反乱軍の損失は2,000人から2,500人と推定されている。私たちの犠牲者は、戦闘中に死亡した16人、軍から(カイロに)戻ってくる途中で路上で切り裂かれた21人の病人の一隊、そしてさまざまな軍団やさまざまな州から(カイロに)来た20人。」とある。

 セントヘレナのナポレオン曰く、「エル・アズハル・モスク周辺への砲撃による火災で焼かれた家はわずか3軒であり、約20軒が被害を受けた。エル・アズハル・モスクはほとんど被害を受けなかった」とのことである。

アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)による父デュマ将軍のエル・アズハル・モスクへの突撃の記述

アレクサンドル・デュマ将軍

※「アレクサンドル・デュマ将軍(Général Alexandre Dumas)」。オリヴィエ・ピシャ(Olivier Pichat )画。日付不明。

 父(トマ=アレクサンドル・デュマ将軍)はそこで彼ら(エル・アズハル・モスクに立て籠もる人々)を攻撃し、反乱の中心部を攻撃するよう命令を受けた。

 大砲の砲撃で門が破壊され、父が馬を駆って先にモスクに入った。

 偶然、門の反対側、つまり父の馬が通っていた道に、高さ約3ピエ(1ピエ=約32.48㎝、3ピエ=約97.44㎝)の墓があった。

 この障害物に遭遇すると、馬は立ち止まって立ち上がり、両前足を墓の上に落とし、目を血まみれにして鼻孔から煙を吐きながら、しばらく動かなかった。

「天使!天使だ!」アラブ人たちは叫んだ。

 彼らの抵抗は、少数の人にとっては絶望との闘いにすぎなかったが、ほとんどの人にとっては運命論への諦めだった。

 父はモスク占領についてボナパルトに報告に行った。

 彼はすでに詳細を知っていた。

 彼は財宝が送られて父との関係は修復され始め、今回の件で父を完璧に受け入れてくれた。

 ボナパルトはデュマに「ボンジュール、ヘラクレス!あなたはヒュドラを倒した!」と言い、手を差し出した。

※「ナポレオン1世書簡集」での記述によるとエル・アズハル・モスクに砲撃の雨を降らせた20分後に反乱軍は戦意を喪失しバリケードを解除している。その際、エル・アズハル・モスクには突撃していない。しかし、大デュマによると父であるトマ=アレクサンドル・デュマ将軍が馬を駆ってモスクに突入している。門を破壊したらすぐに馬を駆って突入するというのは現実的ではなく、エル・アズハル・モスクの占領は投降後に行われている。そして、そもそもデュマ将軍はエル・コッベ方面で騎兵隊を指揮しているため、大デュマの主張は創作である可能性が高い。

カイロ周辺地域の治安回復とカイロへの罰

 10月23日、ボナパルトはモスク内に強力な部隊を置いて付近の巡回をさせ、カイロ市内とその周辺にも巡回部隊を派遣し、大砲の音で周辺の村々にまだ反乱が続いていると思わせないために、異常な数でない限りなるべく大砲を使わないように配慮してカイロとその周辺地域の秩序を完全に回復させようとした。

 反乱の扇動者は14人が捕らえられ、その中には国会議員さえ含まれていた。

 そのためボナパルトは議会の解散を宣言し、カイロの包囲を宣言し、住民に莫大な寄付金を課した。

 その後(11月3日)、これら14人に死刑を課し、エズベキエ(Ezbekyeh)広場で射殺させ、動産と不動産のすべての財産を没収した。

※死刑宣告された者の氏名:1、Cheik Ismail el-Berapuy, 2、Cheik Jusuf el-Mousalhy, 3、Cheik Abd-el-Ouahab el-Chebraouy, 4、Cheik Soliman el-Giousaky, 5、Cheik Ahmed el-Cherqaouy, 6、Cheik El-Seid Abd-el-Kerym, 7、Cheik El-Bedr el-Kodsy, 8、Abd-ul-Salam el-Merakieri, 9、Abd-ul-Kerim el-Khayat, 10、El-Seid Idris ibn-Thessandan, 11、El-Gianny, 12、Ben-Said, 13、Mohammed Zagzoug, 14、Chenaouan.

 そして夜、反乱に加担し武器を手に捕らえられた者たちは、ブウラクとカイロの旧市街の間のナイル川のほとりに連行され、首を落とされた。

 首を失った死体はそのままナイル川に投げ込まれた。

カイロの反乱の終息宣言

 ボナパルトは暴動が終息し、首謀者たちが処刑されたことを宣言し、扇動の言葉に耳を傾けないよう語り掛けた。

 そしてカイロの法律関係者も、フランス人は常にイスラムの友人であること、フランスはオスマン帝国の友人であり呪われた民族であるロシア人の絶滅を助けるだろうこと、イブラヒムやムラードに希望を抱くのをやめることなどをエジプトの人々に伝えるために宣言文を出した。

 そして最後にこう付け加えた、「預言者の中で最も信心深い人はこう言った・・・騒乱は眠っている。騒乱を目覚めさせる者は呪われるだろう!」

 これら2つの宣言はおそらくボナパルト自身が書き、カイロの主要な法律家と主要な首長によって署名されたものであり、フランス軍が持ち込んだ印刷機と文字を使用してアラビア語で印刷され、首都の街頭で掲示されただけでなく、膨大な数のコピーがエジプト全土に広まった。

参考資料

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第5巻

・Napoleon I著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires Pour Servir A L'Histoire De Napoleon Dictes Par Lui-Meme A Sainte-Helene, Et Publies Par Le General Bertrand, 第1巻」

・M.J.J.Marcel著「Égypte, depuis la conquéte des arabes jusquþa la domination française」(1848)

・Alexandre Dumas著「Mes mémoires, 第1巻」(1865)

・Félix Martha-Beker (comte de Mons)著「Le général Desaix: étude historique」(1852)