エジプト戦役 19:アル・ハンカの戦い
Battle of Al Khankah

イブラヒム・ベイの状況

1798年8月初め頃、イブラヒム・ベイの置かれている状況

 イブラヒム・ベイの状況は、このままだと今いるベルベイスも手放さざるを得ず、その後も逃亡を余儀なくされるのではないかと考えられるほど不利なものだった。

 イブラヒム・ベイは上エジプトへ逃亡したムラード・ベイと共同戦線を構築しようとしていたが、イブラヒム・ベイ軍とムラード・ベイ軍の間にはフランス軍がおり、連絡線は遮断されていた。

 そのため、シナイ半島方面への退路を確保しつつメッカから帰還するキャラバン隊と合流するためにベルベイスでフランス軍の足止めをしようとしていた。

 商人達はともかくキャラバンを護衛するマムルークの部隊で兵力を増強し、物資を奪おうとしたのである。

 この時、メッカからのキャラバン隊はエジプト国境付近まで近づいていた。

 イブラヒム・ベイは、フランス軍がベルベイスから約30㎞の距離に位置するアル・ハンカを占領し、ヴィアル旅団がダミエッタまで約50㎞のところに位置するマンスーラに到達しようとしていることを察知していた。

 イブラヒム・ベイにとってヴィアル旅団の機動は包囲の危険を孕んでいた。

 しかし、砂漠のシナイ半島を通りシリア方面へ撤退したとしてもレバントはオスマン帝国のジェザル・アフマド・パシャが支配しており、オスマン帝国のエジプト総督であるセイド・アブー・バクル・パシャとともにいるとはいえ、マムルークであるイブラヒム・ベイと協力するかどうかは不透明であり、捕らえられる可能性すらあった。

ジェザル・アフマド・パシャ

※ジェザル・アフマド・パシャのジェザルとは、アラビア語で「ラクダの肉屋」を意味し、サウジアラビアのマッカ州ジェッダ(Jeddah)で反乱が起きた当時、仕えていたアブドラ・ベイをベドウィンに殺され、その報復として70人のベドウィンを殺したことから「ジェザル(Jazzar)」の異名が付けられたと言われている。しかし、自身の権威を強化するために自ら名乗ったという説もある。

※イスラム教ではジェッダにはイブの墓があるとされている。ジェッダはアラビア語で"祖母"の意味である。民間信仰ではイブは"人類の祖母"とされているためその名前がついたと考えられる。

 そのため、イブラヒム・ベイはフランス軍に一矢報い、ベルベイス周辺で勢力を維持することを目的として、翌5日夜にフランス軍前衛への攻撃を行なうための準備を開始した。

アル・ハンカの戦い

【エジプト遠征】1798年8月5日~6日、アル・ハンカの戦い

 1798年8月5日、ボナパルトはカッファレリ将軍にカイロ周辺の要塞化を命令し、エル・コッベのレイニエ将軍に師団を率いてアル・ハンカ(Al Khankah)へ向かうよう命じた。

 この日、遂にイブラヒム・ベイ軍と本格的に対峙する準備が整ったのである。

 しかしイブラヒム・ベイの方が迅速だった。

 8月5日夜、イブラヒム・ベイはベルベイスを出発し、ルクレール将軍率いるアル・ハンカの前衛を瞬く間に包囲した。

 ルクレール将軍は銃撃とブドウ弾での砲撃で牽制してイブラヒム・ベイ軍を寄せ付けなかったが、後方連絡線の遮断を懸念して、整然と後退を開始した。

 ミュラ将軍とレイニエ将軍は大砲の音を聞きつけると、時間を無駄にすることなく前衛のいるアル・ハンカへ進軍した。

 8月6日、ミュラ旅団とレイニエ師団は退却中の前衛を回収するのに間に合うように到着してイブラヒム・ベイ軍を押し戻した。

 イブラヒム・ベイはフランス軍の装備と統率を前に何の成果もあげることができずベルベイスに帰還し、8月7日午後、セイド・アブー・バクル・パシャとともにビルケト・エル・ハギー(Birket el-Hâggy)に撤退した。

※ビルケト・エル・ハギー(Birket el-Hâggy)とはイズバト・アブー・ハジン(Izbat Abu Hazin)もしくはカフル・アル・アザジ(Kafr Al Azzazi)のことだと考えられる。