エジプト戦役 06:エジプト遠征最初の会戦「シュブラ・キットの戦い」 
Battle of Shubra Khit

フランス軍のシュブラ・キット前への到着と両軍の戦力

フランス軍とマムルーク軍のシュブラ・キットでの対峙

※フランス軍とマムルーク軍のシュブラ・キットでの対峙

 1798年7月13日夜明け前、フランス軍はシュブラ・キットの前に到着した。

 シュブラ・キットではムラード・ベイ率いるマムルーク軍が待ち構えており、大砲を備えた強固な塹壕が掘られ、村は要塞化されていた。

 マムルーク軍は金と銀で覆われた壮麗な4,000騎の騎兵隊を擁し、マムルーク騎兵はイギリス製の最高のライフルとピストル、東洋での最高のサーベル(ヤタガン)で武装し、おそらく大陸で最高の馬に乗っていた。

 対するフランス軍は行軍で疲れ果てた馬に乗った騎兵200騎しか同行させていなかった。

 恐らく騎兵の一部(馬が足りない騎兵も含む)をアル・ラフマニーヤとメニィエト・サラマー、そして予備軍などに残したのだと考えられる。

 ナイル川での艦隊戦力については、マムルーク軍側はナイル艦隊をニコルという名のギリシア人が率い、ギリシア人水兵が乗船した砲艦7隻を有していたのに対し、フランス軍側はペレー大佐率いる砲艦3隻、旗艦であるジーベック(帆走手漕ぎの武装船)、ガレー船しか有していなかった。

※当時ギリシアの地域の多くはオスマン帝国領だった。

 しかし歩兵に関してはオスマン帝国歩兵の主装備はこん棒なのに対し、フランス歩兵の主装備はマスケット銃だった。

 そこには装備における大きな差があり、尚且つ兵力もフランス軍約22,000人(後方の予備軍含む)、マムルーク軍約15,000人~18,000人であり、フランス軍の方が圧倒的に優勢だった。

フランス軍の布陣

1798年7月13日、「シュブラ・キットの戦い」におけるフランス軍の方陣

※「シュブラ・キットの戦い」におけるフランス軍の方陣

 フランス軍は戦闘に備えて1,800トワーズ(約3.6 km)の空間に広がった。

※1トワーズ(1 toise)≒ 2 m

 左翼はナイル川近くの小さな村に寄りかかり、右翼は砂漠近くの大きな村に寄りかかった。

 ドゼー将軍は右翼を率い、砂漠近くの大きな村にバリケードを築き、1個大隊と大砲3門を残し、師団を正面が150トワーズ(約300 m)、側面が25トワーズ(約50 m)の単一の方陣を形成した。

 ヴィアル将軍は左翼を率い、ナイル川近くの小さな村の100トワーズ(約200 m)後方でドゼー師団と同様の手配を行なった。

 他の3つの師団はその合間に陣取り、お互いに300トワーズ(約600 m)の間隔を空けて側面を補い合い、中央を(恐らくドゼー師団)の少し後ろに配置した。

 そしてフランス軍は全体として斜行陣を形成した。

 右からドゼー師団(第1師団)、レイニエ師団(第3師団)、ドゥガ師団(第5師団)、ボン師団(第2師団)、ヴィアル旅団(第4師団)という順に並んでいた。

※この時ヴィアル将軍は少将(旅団長)であり、旅団長が率いる部隊は旅団と呼ばれる。しかしヴィアル将軍は元メヌー師団を率いていたため師団としてカウントされているのだと考えられる。

 騎兵隊は5つの小隊に分かれ、各方陣の広場の中央に配置された。

 そして予備軍を戦線から1,000トワーズ(約2 km)離れた2つの村に配置し、お互いに800~900トワーズ(約1.6 km ~ 1.8 km)離れており、各村はバリケードで囲み、大砲を半分残した。

 戦闘配置についた36門の大砲の内、18門が同じ地点を攻撃できるよう設置されていた。

マムルーク軍の布陣

 マムルーク軍は要塞化されたシュブラ・キット村周辺にいた。

 シュブラ・キットの西側に布陣した左翼はマムルーク騎兵約2,000騎であり、1騎につき3~4人の従者(歩兵)が付き従っていた。

 右翼もマムルーク騎兵約2,000騎であり、同じく従者が付き従い、シュブラ・キット村の前で右側面がナイル川に接するよう布陣していた。

 そしてシュブラ・キットには2,000人の守備隊が配置されていた。

ベドウィンによる後方連絡線の遮断

 ベドウィンたちはあらゆる所でフランス軍の周囲を徘徊し、落伍兵や孤立した兵士を襲っていた。

 フランス軍本体とアル・ラフマニーヤとの後方連絡線を遮断し、背後と側面をうろつき、アレクサンドリア、ダマンフール、ロゼッタ周辺にも出没していた。

 そのためフランス軍は小隊を形成して連絡を保持することを余儀なくされていた。

マムルーク軍による方陣の観察

 ムラード・ベイ率いるマムルーク軍が日の出とともに砂漠の地平線に現れ、近づいてくるのが見えた。

 午前8時、陣形を整えたムラード・ベイはフランス軍の陣形を見て当惑した。

 各師団が整然と長方形の方陣を形成し、歩兵に囲まれた中央の空間に騎兵と荷物が配置され、方陣と方陣の間隔は約600mも空いていたのである。

 ムラード・ベイは全員がマスケット銃を装備したフランス軍の歩兵陣形を見て、偵察を命じた。

 約3時間の間、マムルークの小集団は平原に広がってフランス軍の周囲を観察し、近づいて方陣の弱点を探ろうとした。

 マムルーク騎兵は人馬一体となりその戦闘技術と勇気を示した。

 手首にサーベルをぶら下げたまま、騎銃、ブランダーバス、4丁のピストルを抜き、6つの銃器を発射した後、驚くべき器用さで小銃兵の小隊の向きを変え、マムルーク軍とフランス軍の前線の間を駆け抜けた。

※簡単に説明すると騎銃とは歩兵用小銃(マスケット銃)よりも銃身が短い騎兵用小銃のことで、ブランダーバスとは砲口が広がった形状の歩兵用小銃(マスケット銃)よりも銃身が短い散弾銃のこと。

 フランス軍は目の前を駆け回る幾つものマムルーク騎兵の小集団に対し方陣の側面と正面からの射撃で対抗した。

ナイル川での戦いの始まり

 強い北風が定期的に吹き続けたことによりペレー艦隊は陸軍を追い越し、陸軍とペレー艦隊が相互に支援し合うという計画は早くも崩れ去った。

 ペレー艦隊がシュブラ・キットを通過した時、ナイル艦隊は左岸の堤防から攻撃されない流れの曲がり角の位置を即座に陣取った。

 午前9時、ペレー艦隊はナイル艦隊と交戦を開始した。

 ペレー艦隊は砲艦3隻、ジーベック1隻、ガレー船1隻の合計5隻、対するナイル艦隊は砲艦7隻であり、ナイル川両岸には歩兵がラクダに小さな砲を搭載させてナイル川方向に向かって並んでいた。

 ペレー艦隊は正面と両側面からの砲火にさらされ、午前11時頃には弾薬が尽きかけ、ペレー大佐はこのままフランス軍左翼の支援が無ければ状況を覆すことはできないと考えていた。

 ガレー船はすでに乗り込まれて拿捕されており、目の前で乗組員を虐殺し、虐殺された人々の首をブーリエンヌ等に見せた。

 ペレーは危険を冒して艦隊の絶望的な状況を総司令官に知らせるために数人を派遣した。

 ペレー艦隊に同行していたモンジュとベルトレ、秘書のブーリエンヌはこの危機に冷静さを失わず、危機を受け入れたと言われている。

シュブラ・キットの戦い

1798年7月13日、シュブラ・キットの戦い

※1798年7月13日、シュブラ・キットの戦い

 マムルーク軍側の合図が鳴り響き、マムルーク騎兵は指揮官ごとに7つの列を形成して小さな丘の上に集結した。

 ムラード・ベイは指揮官を集めて軍議を開き、フランス軍を打ち破るための作戦を決定した。

 その作戦とは、方陣と方陣の間の広い隙間を突破して後方に出て、フランス軍の背後から襲い掛かるというものだった。

 次の瞬間、各指揮官を先頭に7つのマムルーク騎兵の一団がレイニエ師団の方陣と総司令官がいるドゥガ師団の方陣の間を突破しようとした。

 マムルーク軍はまずは正面から、次に側面から、そして最後に後方からのブドウ弾とマスケット銃の射撃を受けて多くの損害を出した。

 後方へ突破できた勇敢な兵士の中には銃剣によって命を落とした者もいた。

 有効射程内までよく引き付けたフランス兵の射撃の命中精度は高く、弾幕も厚かった。

 前方と同じくらい後方の火力が強いことを知ったムラード・ベイはすぐにその場を離れ、予備軍が置かれている塹壕が掘られている2つの村に入った。

 そして分散した部隊を集結させて態勢を立て直し、60騎のマムルーク騎兵を残し2㎞離れた右翼の方へ向かった。

ナイル川での戦い

 ペレー大佐は諦めることなく巧みな指揮によって難局を凌いでいた。

 ボナパルトはこの時マムルーク軍をナイル川に追い込んで包囲することを考えており、各師団を動かさず、マムルーク軍による2度目の突撃を待っていた。

 しかしペレー艦隊が危険にさらされていることに気づくとすぐに各師団に前進を命じた。

※自分で気付いたか、ペレー大佐が派遣した士官の1人がボナパルトの元にたどり着くことができたかは不明であるが、後者である可能性が高いのではないかと考えられる。

 フランスの5つの師団は、雑然としたマムルーク軍とは対照的にチェスの駒のように整然と前進しつつ広がり、左翼のヴィアル旅団がシュブラ・キット村に接近した。

 シュブラ・キットの大砲は放棄され、2,000人の守備隊は撤退支援を行ない多少の抵抗の後に逃走した。

 マムルーク軍は怯え、大砲の射程から遠ざかり、戦線が進むにつれて後退した。

 シュブラ・キットはフランス軍が占領し、ナイル川の堤防に沿って散兵が配置され、12門の大砲と8門の榴弾砲が設置され、優勢に戦局を進めるナイル艦隊に攻撃を開始した。

 するとすぐに艦隊戦の戦局に変化が訪れた。

 ナイル艦隊司令官ニコルは即座に自分たちの位置の危険性を理解し、方向を変え、風を利用して遠ざかり、川の流れを遡った。

 川の住民は避難して行き、ペレー艦隊は少し前には避けられないと思われた艦隊の壊滅を免れることができた。

 ナイル艦隊はペレー艦隊にかなりの損害を与えたが、ペレー艦隊は1,500発もの砲弾を発射したにも関わらずナイル艦隊に損害はほとんど無かった。

 ナイル川の戦いで乗組員20人が死亡し、数人が負傷したと言われている。

マムルーク軍の敗走とフランス軍による追撃

 ボナパルトは5個師団を進軍速度の遅い方陣から進軍速度の速い縦隊に変え、平野を横切って5つの方向に向かいマムルーク軍を追跡するよう命じた。

 ムラード・ベイは兵士の恐怖と士気の低下を見ると軍から離れ、次の防衛線を構築するために急いでカイロへ向かった。

 フランス軍は日光の降り注ぐ中、歩き難いひび割れた土の上を行軍した。

 午後4時~5時頃、ナイル川を遡るために必要な北風が止んだ。

 尚且つシャブール(Shabour)に至るまでに川は大きく曲がりくねり、船は減速を余儀なくされるため、フランス軍はナイル艦隊の残りを捕捉することに成功した。

 ギリシア人乗組員は自分たちが孤立しているのを見て、船に火を放った後、デルタ地帯(対岸方向)に避難した。

 船のいくつかはフランス軍によって消火され、接収された。

 午後6時、フランス軍はシュブラ・キットから約30㎞ほどの位置にあるシャブールのプラタナスの森の木陰で野営し、夜、ペレー艦隊はシャブールの近くに停泊した。

 一方、ザヨンチェク(Zayonchek)将軍とアンドレオシー将軍は旅団とともにデルタ地帯に上陸し、右岸側からマムルーク兵を追跡しつつ軍と平行にナイル川を遡った。

 デルタ地帯は食糧が豊富にあり、右岸での追撃中も食糧を確保し左岸の本体に食糧を供給した。

 セントヘレナのナポレオンによると、この日のフランス軍の損失は死傷者300人~400人(4分の3は水兵)であり、対するマムルーク軍はマムルーク騎兵300騎と400人~500人の歩兵またはナイル艦隊の乗組員を戦死、負傷、あるいは捕虜として失い、シュブラ・キットで放棄された質の悪い鉄で作られた大砲9門、そしてナイル艦隊のすべてを失った。

 フランス軍は20,000人と大砲42門でマムルーク軍を打ち破ったが、マムルーク軍は約8,000人(マムルーク騎兵約2,000騎、フェラ民兵約6,000人)の左翼しか戦っておらず、敗北はしたが余力を残していた。

 フランス軍にとって「シュブラ・キットの戦い」がマムルーク騎兵との初めての戦いだった。

 戦いの後、マムルークの死体は豪華な衣服、美しい武器を身に着けており、裸にすると5、6千フランの金が発見された。

 思わぬ戦利品は兵士たちの貪欲さを呼び起こし、一時の間陽気さを取り戻したと言われている。

セントヘレナのナポレオンが認識しているペレー艦隊とナイル艦隊の戦い

「午前、ナイル川側では、川を遡るためには北風が必要だがその北風が吹かなかったためペレー艦隊は前進できず、アル・ラフマニーヤから出発できないでいた。

 午後1時、遂にナイル川を遡っているペレー艦隊のマストが見えた。

 その15分後、ナイル川で激しい砲撃の応酬が開始された。

 ペレー大佐は先頭に立って戦列を形成し、シュブラ・キット村を通過した。

 しかし数に圧倒されて中央突破を許し、ガレー船に乗り込まれ、ペレー大佐の旗艦も危険にさらされた。

 ペレー艦隊の危機に気付いたナポレオンは全軍を前進させ、左翼をシュブラ・キットに向かわせた。

 左翼はシュブラ・キットを占領してナイル川の堤防に歩兵と大砲を並べた。

 最も熟練した水兵のいる艦は自分たちが危険な位置にいることに気付いて反転してナイル川を遡った。

 しかし気付くのが遅れた艦は反転できずに攻撃に晒された。

 この時の攻撃でナイル艦隊の砲艦に対して放った砲弾が命中し沈没した。」

 ナポレオンの回想録とブーリエンヌの回想録とではシュブラ・キットの戦いについての記述が違うことがわかる。

 ナポレオンは陸での戦いの当事者であり、ブーリエンヌはナイル川での戦いの当事者であるため、陸戦はナポレオンの回想録の方が真実に近く、ナイル川の戦いではブーリエンヌの回想録の方が真実に近いのではないかと考えられる。

 そのため本ブログでは陸戦はナポレオンの回想録を、ナイル川の戦いはブーリエンヌの回想録を軸に記述している。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III, 第4巻

・Niello Sargy著「Memorie istoriche sopra la spedizione in Egitto di N. Bonaparte, Volumes 1-3」(1834)

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne著「Mémoires de M. de Bourrienne, ministre d'état: sur Napoléon, 第2巻」(1829)

・その他