【詳細解説】マルタ戦役【エジプト遠征最初の戦役】


本記事ではエジプト遠征最初の戦役である「マルタ戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。

1798年5月19日、ナポレオンは第一級戦列艦「オリエント(l'Orient)」を旗艦として乗り込み、トゥーロンを出航しようとしていました。

ナポレオン率いる東洋軍の最初の目標はシチリア海峡の先に位置する聖ヨハネ騎士団領マルタでした。

エジプト・シリア戦役(エジプト遠征)においてマルタ戦役は「ナポレオンはマルタを占領し」の一言で終わらせられることが多いため、マルタ戦役はそれほど重要な戦役ではないと思われがちですが、エジプトへの連絡線の後方基地、水の供給、傷病兵の収容などの役割があるマルタはナポレオンがエジプト遠征を成功させるための重要地点でした。

しかも、首都ヴァレッタ(Valetta)は現在、世界遺産にもなっている要塞群に守られており、周辺各国からは難攻不落の要塞都市として認識されていました。

そのようなマルタをナポレオンはどのように陥落させたのでしょうか?

ナポレオンの状況だけでなく、ネルソンなどイギリス側の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたので「マルタ戦役」について詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

マルタ戦役 01 マルタ戦役の始まり

1798年5月19日夜、ナポレオンは118門の砲を搭載したコマース・ド・マルセイユ級第一級戦列艦「オリエント」を旗艦として乗り込み、トゥーロンを出航しました。

歩兵約32,000人、騎兵約3,200人、砲兵約3,200人、工兵約1,200人、馬1,230頭、大砲171門を武装艦55隻(病院船含む)、輸送船などの非武装船280隻に乗せて出航したと言われています。

ナポレオン・ボナパルト将軍率いる東洋軍の最初の目標は聖ヨハネ騎士団領マルタでした。

フランス艦隊は5月21日にジェノヴァ船団と合流し、26日にコルシカ島南部の港(ボニファーチョ、ポルト・ベッキオ)で食糧を調達して翌27日にヴォーボワ将軍のアジャクシオ船団と合流し、そして5月28日午後8時、ドゼー将軍のチヴィタヴェッキア船団との合流に成功しました。

一方、フランス艦隊がトゥーロンから出航した5月19日夜、ネルソンはフランス艦隊はトゥーロンを出航して西に舵を取るだろうと予想し、フランス艦隊の動向を観察するためにシシエ岬沖で待ち構えていましたが、強風のためフランス艦隊の出航を見逃していました。

そして5月21日、ネルソン戦隊は嵐に見舞われて散り散りになり、ネルソンの旗艦「ヴァンガード」も自力での航行ができないほどの損害を受けてしまいます。

しかし部下たちとともにそれらの苦難を乗り越え、5月31日までにネルソン戦隊がトゥーロン沖に到着した時、フランス艦隊はすでに出発していることを知りました。

嵐に見舞われた後のネルソンはサルディーニャ島西部を北上してトゥーロンに向かいましたが途中フランス艦隊の船影すら発見できず、トゥーロンより西を観察させていた別動隊やジャービス提督からもフランス艦隊発見の連絡はありませんでした。

そのためフランス艦隊はイタリア方面に針路を取ったと推測し、ネルソンもイタリア方面へ向かいました。

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マルタ戦役 02 ナポレオンのマルタ島到着と上陸準備 

1798年6月6日、フランス艦隊の先遣隊18隻がゴゾ島沖に現れ、マルタ島の首都ヴァレッタにあるグランドハーバーに向かって進みました。

その後、2隻のフリゲート艦によって護衛され、兵士を満載した70隻の輸送船で構成されたフランス艦隊が島の前に現れました。

そして数隻の船舶が港と水域に入る許可を求め、その内の2隻が輸送の目的で許可されました。

この時、マルタは緩い警備状態に置かれており、フランス艦のグランドハーバーへの訪問は騎士と人々の間に最大の不安を引き起こしました。

しかしフランス艦隊の出現により急遽戦闘準備が同時に行われることとなりました。

6月9日までの間に、旗艦「オリエント」含むフランス艦隊主力の各船団が続々と合流し、明らかに敵対的な態度でヴァレッタの港を封鎖しました。

ナポレオンは聖ヨハネ騎士団総長ホンペシュに対し「水の補給のためにヴァレッタの港であるグランドハーバーへの全艦隊の自由な入港と、軍の上陸許可」を求めました。

ホンペシュは要求のごく一部のみの許可を認めましたが、ナポレオンはそれに納得せず、6月10日に宣戦布告を行ないました。

これらの間、ナポレオンは各師団に対し上陸作戦を行なうための配置に着かせ、上陸準備を進めました。

一方6月7日にコルシカ島北西沖にいたネルソンはイタリア半島西岸沿いを進む航路でナポリへ向かっていました。

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マルタ戦役 03 マルタの防御と兵力

マルタはマルタ島、ゴゾ島、コミノ島、コミノット、フィルフラ島とこれらの島々の周辺の小島で構成されており、その中でも主要な島はマルタ島、ゴゾ島、コミノ島です。

それぞれの島の周囲は塔で監視され、重要地点は要塞で防御されていました。

そして塔や要塞の周辺には砲台や小砦、塹壕が設置されていました。

特にマルタ島はグランドハーバーとマルサムシェット港の周囲に大規模な要塞群が築かれ、塔、砲台、堡塁、掘り、塹壕からなる沿岸防衛体制を構築していました。

切り立った地形が多いマルタ島南岸や内陸にも塔があり、南岸で敵を発見すると煙や大砲、火を使って内陸の塔を経由して近くの要塞やヴァレッタに情報がもたらされる情報伝達システムも構築されていました。

総勢332人の聖ヨハネ騎士団員は主に指揮官の役割を果たし、約7,000人のマルタ軍を統率していました。

ホンペシュはこれら兵力を250人ずつの24個中隊に分割し、島中のさまざまな砦で防衛態勢をとらせました。

マルタ軍の詳細を知りたい方は詳細記事を参照してください。

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マルタ戦役 04 ナポレオンのマルタ島上陸計画とマルタの内情

1798年6月9日、ナポレオンはマルタ島とゴゾ島の重要地点を勢力下に置きつつマルタ島東の港町マルサシュロックと北岸側から上陸して難攻不落であるヴァレッタ周辺の要塞群を包囲し、同時にマルタ島とゴゾ島全土を占領する計画を立案し、各師団長に命じました。

ドゼー将軍はマルタ島東側のセント・トーマス湾からマルサシュロック南の断崖までの間から上陸し、ヴォーボワ師団と連絡線を繋ぎつつヴァレッタ要塞群の東側を包囲する。

クレベール将軍はヴァレッタのグランドハーバーとマルサムシェット港側から上陸を試みる。

ヴォーボワ将軍はヴァレッタの西にあるサン・ジュリアン岬からマダレーナ湾の間から上陸し、ドゼー師団及びバラグアイ・ディリエール師団と連絡線を繋ぎつつヴァレッタ要塞群の西側と南側を包囲する。

バラグアイ・ディリエール将軍はマルタ島北岸の西部に位置するサリーナ湾(Salina Bay)、セント・ポールズ・ベイ(Saint Pawl's Bay)、メリーハ湾(Mellecha Bay)のいずれかから上陸し、ヴォーボワ師団と連絡線を繋ぎつつマルタ島西部一帯を勢力下に置き、イムディーナを占領する。

ゴゾ島担当のレイニエ将軍はラムラ湾からアイン・リアーナ湾の間で上陸し、シャンブレー要塞とチッタデッラに部隊を分けて派遣し、これらを占領する。

対するマルタ軍の戦略は、第一段階として沿岸の塔や要塞、小砦、砲台の周囲に塹壕を掘って沿岸部で強く抵抗し、第二段階として沿岸部の防衛施設を放棄してヴァレッタでフランス軍と対抗するというものでした。

首都ヴァレッタには当時としては最先端の上下水道が完備されており食糧や物資を持ってヴァレッタに立て籠もれば数ヵ月は持ち堪えることができると考えられましたが、聖ヨハネ騎士団と地元民兵の間には軋轢があり、フランス人騎士が多い(332人中200人がフランス人)騎士団内部ではフランスに降伏すべきだという声が多く、裏切りや命令拒否が多発していました。

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マルタ戦役 05 ナポレオンによる聖ヨハネ騎士団領マルタ上陸作戦の開始

1798年6月10日日曜日午前4時、フランス軍の上陸作戦が開始されました。

フランス軍は総司令官の命令に従って歩兵と砲兵の合計約15,000人が11の地点から上陸作戦を決行しました。

沿岸ではフランス人騎士の裏切りにより多くの地点でほとんど抵抗することなくフランス軍の上陸を許してしまいました。

一度も発砲することなく上陸を許した地点すらありました。

そのためマルタ軍は沿岸部での防御を諦めることを余儀なくされ、フランス軍の手から逃れることができた兵たちはヴァレッタに集結しました。

フランス軍は瞬く間にヴァレッタ以外の地域を占領してヴァレッタ要塞群を包囲下に置き、幾度もの攻撃を行ないましたが、その防御は固く攻撃はすべて撃退されました。

より詳しい内容やエピソードが知りたい方は詳細記事を参照してください。

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マルタ戦役 06 聖ヨハネ騎士団領マルタの降伏 

1798年6月10日の戦いの最中、数人の聖ヨハネ騎士の裏切りによってフランス軍に上陸を許してしまったことを知ったマルタ人達は聖ヨハネ騎士団に不信感を抱き、疑わしい騎士の吊るし上げを行って数人の騎士を殺害しました。

聖ヨハネ騎士団はマルタ人の吊るし上げに怯え、マルタ人は聖ヨハネ騎士団の裏切りを警戒し、マルタ軍内部は相互不信の状況となっていました。

聖ヨハネ騎士団総長ホンペシュは戦うことを決意していましたが、マルタ人は有識者を集めてフランスへの降伏を決議し、ホンペシュへ圧力を加えました。

6月11日、内部での多くの議論とやり取りの中、マルタ人の圧力に屈したホンペシュは軍に砲撃を停止するよう命じ、フランス軍への降伏を決定しました。

首都ヴァレッタは静寂に包まれ、遠くマルサシュロックのローハン要塞での砲撃音のみが鳴り響いていました。

6月12日、ナポレオンがヴァレッタに上陸し、巨大な要塞の中に入って強固な防衛線が続く光景を目の当たりにしたとき、思わず「私たちの中に門を開けてくれる友人がいてくれてよかった。」とつぶやいたと言われています。

もし聖ヨハネ騎士団とマルタ人が一丸となってフランス軍に対抗していたら、上陸はスムーズには進まず、ヴァレッタ要塞の包囲中にフランス艦隊がネルソン戦隊に襲われ、エジプトに到達する前にエジプト遠征は失敗に終わっていたかもしれません。

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マルタ戦役 07 聖ヨハネ騎士団のマルタ追放とナポレオンのエジプトへの旅立ち 

ナポレオンはマルタ軍を無力にし、フランス軍を強化するために戦列艦2隻、フリゲート艦1隻、ガレー船4隻、大砲1,200門、火薬150万ポンド、マスケット銃4万挺を接収し、マルタの共和国化に乗り出しました。

公衆衛生、財政、教育の向上に積極的であり、これらに関する多くの法を発布し、公立学校の建設を命じました。

そしてマルタで奉仕していた奴隷の解放を行いました。

このようにしてナポレオンはマルタの共和国化の基礎を築こうとしました。

6月16日、聖ヨハネ騎士団員たちはナポレオンから最長3日以内の退去を求められ、6月18日までに彼らが去った後、修道院などから剝ぎ取られ、略奪されたすべての金銀板、宝石、その他の貴重品は、 「オリエント」と「センシブル」に積み込まれました。

ナポレオンも旗艦「オリエント」に乗船し、翌19日、ヴォーボワ師団3,053人、5個砲兵中隊、医療部隊1個をマルタに残し、エジプトへ向けて出航しました。

一方その頃、ネルソンは18日にナポリを出発し、20日にシチリア島東端のトッレ・ファロからマルタへ出航していました。

この時ナポレオンとネルソンの距離はおよそ数日の距離にあり、ネルソンに捕捉されようとしていました。

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参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・Whitworth Porter著「A History of the Fortress of Malta」(1858)

・Whitworth Porter著「History of the Knights of Malta or the Order of the Hospital of St. John of Jerusalem,第2巻」(1858)

・Vincenzo Busuttil著「A Summary of the History of Malta : Containing an Abridged History of the order of ST.John of Jerusalem from it's foundation to it's establishment in Malta」(1894)

・その他