エジプト戦役 17:ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)の終結とナポレオンの評価
End of the Battle of the Nile

ネルソン戦隊勝利確定後の神への祈りとティモレオンの覚悟

1798年8月2日午後2時、ヴァンガードの甲板上でのカミン牧師の祈り

※1798年8月2日午後2時、ヴァンガードの甲板上でのカミン牧師の祈り

 1798年8月2日午前、ネルソンは戦隊の各艦長に次の文書を発行していた。

「全能の神が陛下の腕に勝利を祝福してくださったので、提督はこの日の午後2時に同様の一般感謝祭を行う予定です。そして彼は、すべての艦にできるだけ早く同じことを行うよう勧めています。」

 そして午後2時になりヴァンガードのクォーターデッキでカミン牧師による祈りが行われ、ネルソンは戦隊の艦長、士官、海兵、海兵隊員に感謝と祝福を表明した。

 他の艦艇も順次ヴァンガードに倣って祈りを捧げた。

 神へのこの厳粛な感謝の行為は、士官や兵士を含む何人かの捕虜に非常に深い印象を与えたようで、捕虜の何人かは次のように言った。

「これほど偉大な勝利の後で、あれほど混乱しているように見える瞬間に兵士たちの心にこれほどの感情を植え付けることができたのであれば、これほどの秩序と規律を維持できたのも不思議ではない。」

 同日、次の書簡が全艦艇に発行され、戦隊のさまざまな士官の崇高な努力に対する提督の気持ちが表現された。

「提督は後半戦の出来事に際し、指揮する栄誉に浴した戦隊の艦長、士官、海員、海兵隊員に心からの祝福を表明する。そして提督は、この輝かしい戦いにおける彼らの非常に勇敢な行動に対して、心からの感謝を受け入れることを望んでいる。提督は規律と秩序が保たれているときの彼らの行為が、すべての英国船員を強制的に攻撃しなければならない無法なフランス人の暴動よりもどれほど優れているかを知っている。戦隊は、提督が派遣部隊を通じて、真に功績のある行為(ナイルの海戦での勝利)を最高司令官(ジャービス提督)に対して最も強い言葉で報告できることを確信できるだろう。」

 フランス戦列艦トゥノンとティモレオンはマストがすべて破壊されて航行不能になりながらも未だ三色旗をはためかせていたが、ネルソンはトゥノンとティモレオンを放置してその他のフランス艦の確保、人命救助を優先した。

 修復不可能なまでに損傷したゲリエ、ウールー、メルキュールは後に焼き払われ、コンケラ、スパルシアーテ、アキロン、ペープル・スーヴェラン、フランクリンは占領され、曳航された。

 アブキール湾の岸辺に並んで戦いを見守っていたアラブとマムルークの人々は、イギリス軍が勝利したことを目撃した。

 アラブとマムルークの人々の歓喜はイギリス軍の歓喜とほぼ同じくらい大きかった。

 その後の三晩、見渡す限りの海岸と国全体がナイルの海戦の勝利を祝って松明でライトアップされたと言われている。

 8月2日夜、座礁したティモレオン艦長トゥルレは最後まで抵抗することを決意していた。

 そして最後の計画を実行するために乗組員の大半を艦から降ろし、上陸させた。

 ティモレオンには戦闘ができるだけの最低限の人員だけが残された。

カローデンの座礁からの脱出

 一方、アブキール島から伸びた浅瀬に座礁していたカローデンは2日の午前中に座礁から抜け出すことができていたが、船尾下部にかなりの損傷を負っていたため水漏れが激しく、舵も使い物にならなくなっていた。

 トロウブリッジ艦長はポンプで海水を排出しても沈みつつあったカローデンの船尾下部の損傷をなんとか修復し、未だ水漏れはあるものの使用には耐えられる状態にまで回復させた。

 そしてその4日後にはカローデンの甲板上で新しい舵を製作して取り付け、ようやく航行可能となった。

ナイルの海戦の終結

 8月3日朝、アブキール湾に残されたトゥノンとティモレオンは未だ戦艦旗を降ろして(敗北を示して)いなかった。

 ネルソンは降伏するよう呼びかけたが、トゥノンはマストがすべて使用できない状態だったにもかかわらず服従を拒否し、ティモレオンも同様に服従を拒否した。

 ネルソンはこの2隻の船を攻撃するよう命じた。

 テセウスがトゥノンに向かい、それをスウィフトシャーが支援して攻撃を仕掛けた。

 2隻のフランス艦がイギリス艦隊の射程圏内に入った時トゥノンはもはや防御が不可能な状態だったため抵抗することはなかったが、ティモレオンは攻撃を開始した。

 ティモレオンの座礁している位置はどの船も近づけないほど陸に近くイギリスの戦列艦は遠くから砲撃を行わざるを得なかったため、ティモレオンは降伏せず昨夜の時点で戦う決意をしていたのである。

 マストがすべて砕け散っていたトゥノンはテセウスのミラー艦長が派遣したボートによって占領された。

 午前10時12分、イギリス艦と勇敢に戦っていたティモレオンだったが圧倒的に不利な戦いを余儀なくされ、遂に最後の計画を実行に移す時が来た。

 ティモレオン艦長トゥルレは拿捕されるのを阻止するために艦に火を放ち、少なくなった乗組員とともに海岸へ逃亡した。

 午前11時47分、炎が火薬庫にまで燃え広がったティモレオンが遂に爆発した。

 これによりナイルの海戦は終結し、アブキール湾にイギリスの国旗がはためいた。

両軍の損害

1798年8月3日、ナイルの海戦直後のネルソン戦隊の被害状況とフランス艦船の状況

※1798年8月3日、ナイルの海戦直後のネルソン戦隊の被害状況とフランス艦船の状況。Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」より抜粋

 8月3日、ネルソンは自軍の被害状況を集計しフランス艦船の状況を報告させた。

 イギリス側の損害は、損傷の程度に大きな差はあるものの戦列艦14隻とコルベット艦ミューティンのすべての艦が沈没することなく修復すれば航行可能であり、全艦の乗組員8,068人中218人が死亡し677人が負傷した。

※死亡・・・士官16人、乗組員156人、海兵隊員46人、合計218人。負傷・・・士官37人、乗組員562人、海兵隊員78人、合計677人。死傷者合計895人。

 フランス側はオリエント、ティモレオン、アルテミーズ、エルクールの4隻が焼失し、フランクリン、トゥノン、ゲリエ、コンケラ、スパルシアーテ、アキロン、ペープル・スーヴェラン、ウールー、メルキュールの9隻が占領され、シリウーズが沈没し、ギョーム・テル、ジェネルー、ジュスティス、ディアーヌの4隻が逃亡した。

 ナイル川の戦いで焼かれ、拿捕され、沈没したフランス船の乗組員の人数(逃亡した艦の人数は含まれていない)は各艦の委員および士官からの報告書によると8,930人であり、フランスのフリゲート艦アルセステ艦長バレ(Barré)の報告書による海岸へ逃亡した者や負傷者3,105人とティモレオンやエルクールからの逃亡者、そして士官、非戦闘員である大工、コーキング工、艦隊に乗船した囚人を差し引くと捕虜、溺死、焼死、行方不明になったフランス兵は5,225人と見積もられた。

 逃亡した4隻・・・ギョーム・テル、ジェネルー、ディアーヌ、ジュスティスの損害も合計すれば5,225人より多くの兵を失ったことは明らかである。

 このナイルの海戦においてフランス側はイギリス側と比較して6倍以上もの兵を失ったことになる。

マルタの財宝の消失

 オリエントが爆散したことで、船内に保管されていたマルタの財宝のほとんどが火災に遭いアブキール湾に飛び散って海中に沈んだ。

 21世紀になりフランスの海洋考古学者フランク・ゴディオ(Franck Goddio)とそのダイビングチームが水深約40フィート(約12.2 m)のところに沈んでいる、オリエントの中央部分を構成する船体を発見した。

 中には大砲の破片、調理器具、銀食器、衣服の破片、人骨、印刷機のものと思われる数千にもおよぶ鉛の活字の山があった。

 近くには、オリエントの35フィート(約10.7 m)の舵があり、そこにはオリエントの最初の船名である「ドーファン ロワイヤル(Dauphin Royal)」 という文字が刻まれていた。

※オリエントはトゥーロンで起工され、1791年7月20日に「ドーファン・ロワイヤル」の名で進水した。1792年9月に当時人気の革命家サンキュロットに敬意を表して「サンキュロット(Sans-culotte)」と改名された。そして1795年5月、ナポレオンがエジプト遠征のためにトゥーロンを出港する朝、サンキュロットは「オリエント(l'Orient)」と改名された。

 大量のフランスの金貨、銀貨、銅貨、そしてマルタ、オスマン帝国、ヴェネツィア、スペイン、ポルトガルの金貨もその近辺で発見されている。

 これら他国の金貨は、ナポレオンがエジプトに向かう途中で占領したマルタの財宝の一部だろうと推測されている。

 フランスの金貨、銀貨、銅貨については、その一部はルイ14 世の時代、一部はルイ15 世の時代、ほとんどはルイ16 世の時代のものであることが判明している。

 このようにマルタの財宝の発見についての報はあるが、2024年までで引き上げられたのは一部のみであり、そのほとんどは未だ引き上げられていない。

 余談だが、アブキール湾にはカノープス、ヘラクレイオン、メノウティスなどの都市が水没しており、ナポレオンが失ったマルタの財宝以外にも考古学的調査が盛んに行なわれている。

ナイルの海戦での敗北の影響

 ナイルの海戦での敗北はナポレオン・ボナパルト将軍率いる東洋軍(Armée d'Orient)にとって致命的なものだった。

 東洋軍は物資調達に必要な軍資金を失っただけでなく、フランス本国との連絡線及び退却路を完全に失いエジプトに孤立した。

 この時点でボナパルトはアブキール湾の東洋軍艦隊が失われたことはまだ知らなかった。

 この後、フランス艦隊敗北の報は「ボナパルトが勝利し、敗北したネルソンは自ら命を絶った。」という誤報を交えながらイギリスとフランスはもちろんヨーロッパ各国とその周辺国に広がっていくこととなる。

ナイルの海戦の後

 8月4日朝、ネルソンは戦死者を海に埋葬し、戦後処理を行った。

 その際、マジェスティックのウェストコット艦長を含む戦死した士官達も同時に海に埋葬された。

 祈りの言葉の一部:「我々は彼らの体を深みに委ねます・・・。海が死者を流すとき、その体が復活するという確かな希望をもって・・・。」

 ヴィルヌーヴ(Pierre Charles Jean-Baptiste Villeneuve)少将率いる逃亡したフランス艦隊の4隻はコルフ島に向かった。

 その後、これらの艦はフランスへ向かおうとするが最終的にヴォーボワ将軍の守るマルタ島ヴァレッタに追い詰められることとなる。

 そしてヴィルヌーヴ少将からの命を受けたサラミーヌはアブキール湾での敗戦をカイロにいるであろうボナパルトに伝えるためにナイル川をロゼッタ支流から遡上した。

 アブキール湾周辺に住んでいるエジプトの人々は人種や出自を問わず、イギリス軍が勝利したにも関わらずまるで自軍が勝利したかのように喜んでいた。

ナイルの海戦に関するナポレオンの評価

 イギリス軍の勝利はゲリエとコンケラの艦長たちの無能と怠慢、オリエントの事故、そしてヴィルヌーヴ提督の悪行のおかげであった。

 両戦隊の水兵の意見は一致している。

 ヴィルヌーヴはいつでもフランス軍に有利な勝利を決定することができた。

 それは夜の8時にもできたしオリエントが敗北した後の真夜中にもできた、そしてまた夜明けにも勝利を決定することができた。

 この提督(ヴィルヌーヴ)は、自分を正当化するために、(ブリュイ)提督の信号を待っていると言った。

 しかし(信号は)煙の渦の中で信号は見えなかった。

 仲間を救出するために戦いに参加するには信号が必要なのだろうか?

 さらに、オリエントは夜の10時に爆発し、戦闘は翌日の正午に終了したため、ヴィルヌーヴは14時間もの間戦隊を指揮していた。

 この将校(ヴィルヌーヴ)には海洋経験が欠けていたわけではなく、決意と活力が欠けていた。

 彼には港の船長としての資質はあったが、軍人としての資質はなかった。

 ブリュイ提督は最大の勇気を示した。

 ブリュイ提督は何度か負傷したが、救護室に行くことを拒否した。

 オリエントが爆発する直前、彼は監視台で息を引き取り、その最後の言葉は戦闘命令だった。

 ナポレオンは「この悲惨な出来事で彼(ブリュイ提督)が何らかの過失を犯したとしても、彼は輝かしい最期を遂げてそれを償った。」と言った。

ナポレオンの評価に対する著者の見解

 ゲリエとコンケラについては右舷側では攻撃していたが乗組員不足のため左舷側では抵抗できなかったのであり、その一因はナポレオン自身にある。

 ナポレオンはヴィルヌーヴ率いる右翼が①アレクサンダーとスウィフトシャーが戦場に到着した頃(8月1日午後8時頃)、②オリエント爆散後(8月1日午後10時10分以降)、③ネルソンが夜明けにフランス艦隊左翼と中央を沈黙させ右翼に戦力を集中させようとした頃(8月2日午前5時前後)に戦闘に介入して勝利を決定することができたと言っているが、①と②の時点では北西(ヴィルヌーヴ少将から見て風上)からの風が吹いていたため介入できたかどうかは不透明であり、③の時点では戦力差により時既に遅しだっただろう。

 ただ、①の時点に戦闘に介入できていれば戦局はフランス有利に傾いた可能性は否定できない。

 ②の時点ではフランス艦隊左翼と中央はほぼ崩壊しており、右翼のウールーとメルキュールもすでに座礁していたためフランス側が勝利できたかどうかは微妙なところだろう。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・James Stanier Clarke and John M'Arthur著「The Life of Admiral Lord Nelson from His Manuscripts: Volume 2」(1809)

・Cooper Willyams著「A Voyage Up the Mediterranean in His Majesty's Ship the Swiftsure」(1802)

・「Histoire des Combats D'Aboukir, De Rrafalgar, De Lissa, Du Cap Finistere, et de plusieurs autres batailles navales, Depuis 1798 Jusqu'en 1813」(1829)

・John Marshall著「Royal Naval Biography,Vol 1. Part 2.」(1823)

・Edward Pelham Brenton 著「The Naval History of Great Britain: From the Year MDCCLXXXIII to MDCCCXXII,Vol II.」(1823)