エジプト戦役 31:ムラード・ベイのアル・バーナサへの撤退とハッサン・トゥバールの態度の軟化
Murad Bey retreated to Al Bahnasa

ドゼー師団によるムラード・ベイ軍の探索

【エジプト遠征】1798年9月、ベニ・スエフ撤退後のムラード・ベイのアル・バーナサへの集結計画

※1798年9月、ベニ・スエフ撤退後のムラード・ベイのアル・バーナサへの集結計画

 9月1日、ドゼー師団は州都ベニ・スエフに本部を置き、見失ったムラード・ベイ軍の探索を行った。

 この時、ムラード・ベイは12隻のジェルメ(小帆船)で構成されるナイル川の艦隊を分離して後退速度を上げ、ファイユーム州へ流れ込むジョセフ運河が通るアル・バーナサ(Al Bahnasa)へ向かって撤退していた。

アル・バーナサの位置は、かつて古代ではオクシリンコス(Oxyrhynchus)と呼ばれた都市があった場所であり、地下には遺跡が眠っている。

 この時、ナイル川の氾濫によってナイル川周辺は何本もの水路に水が入り泥の湖が出現しているため、ドゼー師団を誘導する目的もありベニ・スエフから直接アル・バーナサに向かったのではなく、ムラード・ベイ軍は一旦アブー・ジルジ(Abu Jirj)に行き、そこからアル・バーナサへ向かったのだろうと推測される。

 その後、分離されたナイル川のムラード・ベイの艦隊はダイルート(Dayrout)へ向かい、そこからジョセフ運河に入りアル・バーナサでの合流を目指した。

 そして、ケナ州へ船で援軍を送るよう命じた。

ハッサン・トゥバールの態度の軟化

 エル・サルヘイヤを占領したフランス軍にとってダミエッタとエル・サルヘイヤの間の連絡線の確立とマンザラ湖周辺の安定的な利用は重要事項の1つだった。

 ダミエッタとエル・サルヘイヤの間の地域であるダカリーヤ州を支配するハッサン・トゥバールはこれまで「フランス人とは会わない」と厳しい態度を取っていたが、ダマス(Damas)将軍に使者を送り、「我々の自由にできるなら通常の税金の支払いを拒否しない」と態度を軟化させた。

 しかしトゥバールの本心はフランスに対抗することであり、裏ではイブラヒム・ベイがガザに撤退して行った後も連絡を取り合っていた。

 この態度の軟化は、交渉を長引かせ、戦争の準備を着々と進めることが目的だった。

マルタの反乱の始まり

 一方、マルタではヴォーボワ師団がローマカトリック教会を含む聖ヨハネ騎士団の組織を急速に解体していた。

 ヴォーボワ師団は教会の財産を略奪し、エジプト遠征のための軍資金として押収し、教会の財産を競売に出した。

 この行為は信仰心の厚いマルタの住民の怒りを買った。

 9月2日の教会財産の競売中、この怒りは民衆の蜂起として爆発し、数日中に数千人のマルタの住民が非正規軍を組織し、フランス駐屯軍を襲撃して要塞都市ヴァレッタに追いやった。

 ヴァレッタは、エマ​​ヌエーレ・ヴィターレ(Emmanuele Vitale)とフランチェスコ・サヴェリオ・カルアナ(Francesco Saverio Caruana)司祭率いる約10,000人の非正規軍によって包囲された。

 マルタ軍は23門の大砲と沿岸砲艦の小艦隊で武装していたが、ヴァレッタ要塞群は強固であり、攻城のための大砲が不足していたため本格的な攻城はできなかった。

 そのため断続的な小競り合いが続けられた。

騎兵隊の再構築と海岸の防衛強化

 9月3日、ボナパルトはマンスーラのドゥガ将軍、カリューブのミュラ将軍に馬をすべてブウラクへ送るよう命じた。

 この時、すべての騎兵をブウラクへ集めているところだった。

 恐らく、騎兵が分散しているよりも、ボナパルトが騎兵が必要と思った地点にすぐに派遣できるようにするためだろうと考えられる。

 翌4日、クレベール将軍に海岸をさらに大砲で強化し、赤玉焼夷弾の訓練を行うよう命じた。

 もしイギリス艦隊が攻撃して来た時に備え、熱した砲弾を発砲することにより艦への引火を誘発し、少しでもイギリス艦に損害を与えるために備えたのだろう。

 ナイルの海戦で旗艦「オリエント」に引火して爆散したことへの報復の可能性もある。

ムラード・ベイのアル・バーナサへの撤退とその後の計画

【エジプト遠征】1798年9月4日、アル・バーナサ撤退後にムラード・ベイが取り得る選択肢

※アル・バーナサ撤退後にムラード・ベイが取り得る選択肢。

 9月4日、州都ベニ・スエフを放棄したムラード・ベイ軍はアル・バーナサにまで追い詰められていた。

 ドゼー師団の進軍速度は速く、戦っても勝算を見出すことができないでいた。

 しかし、ムラード・ベイはただドゼー師団に追い詰められているわけでは無かった。

 ナイル川からアル・バーナサの間にはナイル川の氾濫によって干からびていた水路に水が通り、泥の湖が出現していたため、フランス軍は容易に近づくことができないと考えられた。

 尚且つ、ナイル川を離れることによって選択肢が4つに増加することも計算に入っていた。

 1、アル・バーナサに留まって防衛戦を行う。

 2、ジョセフ運河を遡りナイル川の分岐点であるダイルート(Dayrout)へ向かう。

 3、西に撤退して砂漠に入りバハレイヤ・オアシス(Bahariya Oasis)やファイユーム州方面へ向かう。

 4、艦隊と合流して船でジョセフ運河を下り、ファイユーム州方面へ向かう。

 以上の4つである。

【エジプト遠征】1798年9月にムラード・ベイ軍がアル・バーナサへ撤退せず、アシュート方面に撤退した場合のムラード・ベイが取り得る計画。

※ムラード・ベイ軍がアル・バーナサへ撤退せず、アシュート方面に撤退した場合のムラード・ベイが取り得る計画。/small>

 もし、ムラード・ベイがアル・バーナサへ撤退せず、ナイル川沿いのミニヤー州州都ミニヤー(Minya)などへ撤退した場合、後方やフランス軍の動向にもよるが、その後の選択肢は「1、アシュート州マンファルート(Manfalut)やアシュート、もしくはソハグ(Sohag)やルクソール州アド・ディムクラット(Ad Dimuqrat)などから砂漠に入りハルガ・オアシス(Kharga Oasis)やダクラ・オアシス(Dakhla Oasis)へ向かう」、「2、そのままナイル川沿いを撤退してスーダン方面に逃れる」、「3、ケナ(Qena)やキフト(Qift)、エドフ(Edfo)、アスワン(Aswan)などから紅海方面へ向かう」の3つに絞られることとなり、これらの選択肢は時間と空間、そして物資を考えるとフランス軍に対抗する術が限られてしまうこととなる。

 そのため、ムラード・ベイはファイユーム州への撤退を強く視野に入れ、その後もフランス軍の拠点があるアレクサンドリア州やギザ州、そしてドゼー師団との連絡線に圧力を与え続けることを可能とするためにアル・バーナサへ撤退したのである。

 この時、ムラード・ベイはすでにナイルの海戦でフランス東洋軍艦隊がネルソン戦隊に敗北したことを知っており、これ以上フランス軍が増加することは無いだろうと考え、地中海のイギリス海軍と連絡を取る方法を模索していた。

 フランス軍が増加することが無いということは、エジプトのフランス兵を一人ひとり排除していけば、最終的にムラード・ベイ軍が勝利するだろうことを意味している。

 最終的な勝利のためにはフランスと敵対するイギリスと連絡を取り合い、可能な限りフランス軍を分散させ脅威となる位置にいることが最善であると考えられた。