エジプト戦役 25:ベルナドットの幸福とナポレオンの不幸
Bernadotte's Happiness and Napoleon's Unhappiness

ベルナドットとデジレの結婚

左:ベルナドット将軍、右:デジレ・クラリー

※左:ベルナドット、右:デジレ・クラリー。

 1798年8月17日、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットとナポレオンの元婚約者デジレ・クラリーの結婚式がロシェ通り(Rue du Rocher)にあるベルナドットの邸宅で祝われた。

 4月のウィーンでの外交の失敗に嫌気が差したベルナドットはパリの南西南約10㎞のところに位置するソー(Sceaux)で静養しており、第一次イタリア遠征中、ナポレオンに学が無いことで恥をかかされたため読書に耽っていた。

 そんな中、7月に第一次イタリア遠征時に出会ったナポレオンの兄ジョセフに会うためにパリにあるジョセフの邸宅を訪問したとき、ジョゼフの妻ジュリーの妹であるデジレと出会い、恋に落ちたのである。

 デジレは婚約を反故にされたことを根にもっており、ナポレオンとベルナドットが不仲であることも結婚を承諾した理由の1つだったと言われている。

 しかし一方、この結婚の仲人であるジョセフはボナパルト家の利益のために弟ナポレオンと不仲なベルナドットを味方に取り込むことを考えていた。

 マルセイユの大商人クラリー家の次女であるデジレとの結婚はベルナドットにとって政治的にも金銭的にも大きな利益をもたらした。

 その後、結婚生活が落ち着いた10月にベルナドットは軍に復帰し、ライン川東岸で師団の指揮を執ることとなる。

ナポレオンのアラブへの同化作戦

ターバンを被ったナポレオンと二角帽を被ったナポレオン。

※1810年頃に描かれた風刺画。

 ベルナドットとデジレの幸福とは反対に、ボナパルトにはナイルの海戦での敗北という不幸が舞い降りていた。

 ボナパルトはアラブ人と同化しようとしていると見せかけようと、アラブ人と同様の衣装を身にまとい、イスラム教をより尊重し始めた。

 この時期はボナパルトにとって不安定要素が多く、少しでもエジプトで何らかの事件が起こらないよう気を配ったのだろう。

 しかし、この行為は逆にカイロの人々を勇気付け、裏で冷笑される結果となった。

ワファ・エル・ナイル(ナイル川の氾濫祭り)への参加

ワファ・エル・ナイル(Wafaa El-Nil)の様子

※Frederic Louis Norden著「Voyage d'Egypte et de Nubie: Tome premier」(1755)より抜粋。イラストの下には、フランス語で「ナイル川を偉大なカイロに引き込む、運河の開通のための毎年行われる儀式」と書かれている。

 8月17日、約1ヵ月前の7月13日付けのコルフ島を指揮するシャボー将軍からの書簡がボナパルトの元に届けられた。

 これに希望を見出したボナパルトはこれからもどんどん書簡を送るよう要求し、トルコの情勢・・・特にトルコ宮廷(オスマン・ポルテ)と対立しているブルガリアのヴィディン(Vidin)のパシャであるパスワン・オグルー(Passwan-Oglou)についての情報を求める書簡を送った。

 オスマン帝国と敵対しないようにするための材料を探すため、そしてオスマン帝国がフランスと敵対するかもしれない未来を考慮してオスマン帝国と敵対している勢力の情報を得ることを考えたのだろう。

 8月18日、ナポレオンはナイル運河の開通祭に参加した。

※恐らく、ナイル運河とは8世紀に埋め立てられたファラオの運河(Canal of the Pharaohs)の中で生活に必要な一部だけ残されたハリジ(Khalij)運河のことだろう。そしてナポレオンの言う開通祭とはワファ・エル・ナイル(Wafaa El-Nil)のことだろうと考えられ、ワファ・エル・ナイルとは8月15日から2週間にわたって行われるナイル川の氾濫の日を祝う祭りのことである。

 この時までにナイル川は増水を続けていた。

 ボナパルトは軍隊を整列させた後、カイロの通りや公共広場に水が流れ込む運河の入口に建てられたテントの下に自らと参謀を配置した。

 そして合図すると大砲が轟音を発した。

 幾度もの轟音によって堤防が崩れ、ナイル川に繋がっている運河や水路に水が流れ込んでいった。

 ナイルの聖母、花嫁像、一握りの金貨と銀貨が水底に投げ込まれ、ベール(ヒジャブ)に包まれた女性も思いのままに髪で結わえられた腕輪を放り投げた。

 ナイル川はすべての水路を水で満たしており、ボートが内陸部に侵入できるのに十分な高さに達していた。

 これによりドゼー師団への穀物の供給が確実なものとなり、さらに上エジプト遠征における移動が容易となった。

 ドゼー将軍は遠征準備を加速させた。