エジプト戦役 29:イブラヒム・ベイのガザ到着とドゼー師団の侵攻準備の完了
Desaix's Division completes preparations for the invasion of Upper Egypt

イブラヒム・ベイ軍のガザでの歓待

 1798年8月26日、イブラヒム・ベイ軍はシナイ半島の砂漠を越え、ガザ(Gaza)付近に到着していた。

 しかし、過酷な砂漠での行軍で財宝を守り抜きながらも戦力を半減させていた。

 イブラヒム・ベイはジェザル・アフマド・パシャと連絡を取り、ガザに入る許可を得ることに成功していた。

 ジェザル・アフマド・パシャはマムルーク朝に亡命と保護を与えて歓待し、フランスへの敵対の意思を見せ、エジプトの国境を脅かした。

 そのため、イブラヒム・ベイはボナパルトの予想に反してジェザル・アフマド・パシャに逮捕されることなくガザで歓迎を受けた。

※1798年8月28日付のナポレオンの書簡には、「イブラヒム=ベイのマムルーク族の半数が砂漠で死亡した。彼は現在ガザを通過し、ダマスカスに向かっているところだ。」と書かれている。この情報はシリアに放ったスパイからの情報だろうと考えられる。

ドゼー師団のギザ州とベニ・スエフ州の州境への到着

【エジプト遠征】1798年8月27日、ドゼー師団による上エジプト侵攻前の両軍の状況

※1798年8月27日、ドゼー師団による上エジプト侵攻前の両軍の状況

 8月27日、前日にナイル川左岸側で進軍を開始したドゼー師団は、ギザ州とベニ・スエフ州の州境にまで移動していた。

 ムラード・ベイとの取り決めではベニ・スエフ州からはムラード・ベイの支配領域であるとされていたため、ナイル川左岸側でのギザ州の最南端にまで師団を進めたのである。

 これでナイル川左岸側のドゼー師団と右岸側のアトフィにいるランポン旅団が同じ高さとなり、ベニ・スエフ州への進軍準備が整った。

 南下開始時、ドゼー師団は第21軽半旅団、第61半旅団、第88戦列半旅団の計3個半旅団および砲兵隊、約3,500人で構成されており、州都ベニ・スエフにいるムラード・ベイ軍の3倍以上の兵力を擁しており、ナイル川を遡るドゼー師団の船団はジーベック(小型高速帆船)、アーヴィソ(小型帆船)、および武装した半ガレー船2隻によって護衛されていた。

ベルベイスの要塞化

 8月28日、ボナパルトはナイルの海戦の生き残りでありアレクサンドリアにいるガントーム少将に陸路でロゼッタまで行き、そこでコルベット艦やブリッグ船を指揮してカイロに来るよう伝えた。

 8月29日、エル・サルヘイヤの大規模要塞化が不可能であると知ったボナパルトは、エジプト東の玄関口の1つであるエル・サルヘイヤには大規模ではないが要塞を建設し、その後方の戦略的要衝であるベルベイスを要塞化することを決断した。

 後日、命令を受け取ったレイニエ将軍は、エル・サルヘイヤの指揮をラグランジュ将軍に一任し、ベルベイスに向かった。

 地中海とオスマン帝国の情勢を感じ取ったボナパルトは、エジプトの要塞化を着々と進め、特に地中海側とシリア方面の強化を急がせた。

 エジプトの要塞化において運河の発達したデルタ地帯は水と食糧の供給、船での交通などで重要な役割を果たした。

カイロ近郊でのフランス兵襲撃事件への対応と紅海方面への偵察

 8月30日午前5時、ジュノー将軍はカイロのエズベキエ(Ezbekyeh)広場で全部隊を再点検し、全員が武器を良好な状態に保ち、必要な弾薬の数を確保していることを確認し、午後4時、騎兵160騎でカイロのすぐ南にあるトーラ(Torah)で起きたフランス兵襲撃事件の捜査と紅海への道の偵察へ向かった。

 トーラでのフランス兵の襲撃は、戦いでは勝利できないと悟ったムラード・ベイが民衆を扇動した可能性も否定できない。

 そしてこの時、ボナパルトは遂に紅海方面に乗り出す準備を開始した。

※一般的にムラード・ベイは上エジプトに逃れた後、ゲリラ戦を仕掛けたとあるが、この時点でデルタ地帯やダカリーヤ州で民衆を扇動してゲリラ戦を仕掛けていたのはエジプトで最も資産を持っていると言われていたエル・マンザラの首長ハッサン・トゥバールである。ハッサン・トゥバールに関してはあらゆる資料に書かれているためハッサン・トゥバールがゲリラ戦を仕掛けていたのは確実である。ムラード・ベイが扇動した可能性があるのは、アレクサンドリア、ダマンフール、上エジプトでの反乱や襲撃だが、アレクサンドリアの反乱でムハンマド・コライム・パシャと連絡を取り合ってた以外の証拠は見つかっていない。