エジプト戦役 49:デュマ将軍のホームシックとイブラヒム・ベイの策動
Ibrahim Bey maneuvers

イギリスによる地中海の支配

 1798年10月14日、ネルソンは旗艦ヴァンガードに乗船し、戦列艦ミノタウロスを伴ってナポリ港を出発していた。

 そして10日間の航海を経て24日にマルタ沖に到着し、ボール戦隊及びニサ侯爵率いるポルトガル艦隊と合流した。

 10月28日、ボール艦長はゴゾ島のフランス守備隊と交渉を行って降伏させ、ゴゾ島を解放することに成功した。

 これによりマルタ軍の勢力下に無い地域は要塞都市ヴァレッタとその要塞群のみとなったが、マルタ軍や民衆は食糧難にあえいでいた。

 10月29日までにアレクサンドリア沖のイギリス軍船が大幅に増加しており、マルモン将軍がアレクサンドリアの守備隊とは別に1,500人~1,600人の兵士を率いて警戒していた。

 未だ穴はあるもののエジプト北岸はフッド戦隊によって封鎖され、マルタ島に至ってはネルソン戦隊とニサ侯爵率いるポルトガル艦隊によって完全に包囲されており、地中海はほぼイギリスの支配下にあった。

 イギリスの工作員はガザに上陸してイブラヒム・ベイ、ジェザル・アフマド・パシャ、スエズ砂漠のアラブ人と連絡を取り、他のイギリス工作員はアレクサンドリアから西に約45㎞ほどのところに位置するブルジュ・アル・アラブ(Burj Al Arab)の近くに上陸し、バハレイヤ(Bahariya)の部族、砂漠や大小のオアシスの部族を扇動し、ムラード・ベイと連絡を取り合い、アラブ人に資金、弾薬、武器を提供した。

※ブルジュ・アル・アラブ(Burj Al Arab)は和約すると「アラブの塔」、もしくは「アラブ人の塔」である。ドバイに同名のホテルがあるが、それとは異なる。

デュマ将軍のホームシック

トマ=アレクサンドル・デュマ将軍

※元気な頃のデュマ将軍。
デュマ将軍は1799年3月7日にエジプトを脱出して以降、軍に復帰することができず、1806年2月26日にヴィレ=コトレ(Villers-Cotterêts)にあるエペの邸宅(Hôtel de l'Épée)で死亡した。潰瘍だったと言われている。デュマ将軍が死亡した当時、将来、文豪となる息子アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)は3歳だった。

 カイロの暴動が沈静化してから8日後(10月末~11月初め頃)、デュマ将軍は再びボナパルトと不仲になり、これまで以上にフランスへの帰国を要望した。

 恐らく、エジプトの環境に慣れることができずにホームシックとなり、病気も相まってフランスへの帰国を望むようになったのだろう。

 デュマは友人たちの忠告にもかかわらず、ボナパルトに休暇を与えるよう頑なに主張した。

 ボナパルトは、デュマとの最後の面会でエジプトに留まるよう説得する最後の努力をした。

「いつか私もフランスに帰り、その時はあなたも連れて行くことを約束する」とまで言った。

 しかし、病気になり、このエジプトから去りたいというデュマの強い欲求を和らげるものは何もなかった。

 ボナパルトは遂にデュマの出国を認めた。

 その後、デュマはベル・マルテーズ(Belle Maltaise)号と呼ばれる小さな船をチャーターしたが、出国することはできなかった。

 地中海はイギリスが支配しており、とても出国できる状況ではなかったのである。

 イギリス船にすべての書簡が傍受されていたため情報が入って来ず、エジプトのフランス軍はヨーロッパで何が起こているのか知ることができない状況だった。

 その後、デュマ将軍がエジプトを出国できたのは翌年1799年3月7日となる。

※このエピソードには違和感を感じる。違和感の元は、ナポレオンが「いつか私もフランスに帰り、その時はあなたも連れて行くことを約束する」と言った点だ。この時、ナポレオンはナイルの海戦での敗北があったにもかかわらずエジプト遠征を成功させることを諦めていなかった。しかしこのナポレオンの言葉は、まるで将来、"エジプトで劣勢となり一部の側近とともにフランスに帰る"ことがわかっているかのような予言めいた言葉である。

イブラヒム・ベイの策動

 11月初旬、ジェザル・アフマド・パシャ、イブラヒム・ベイ、シリアのパシャ、そしてオスマン帝国軍がエジプトに向かって進軍しているという情報が発表された。

 これらはエジプトとの国境付近にいるイブラヒム・ベイが作成したアラビア語で書かれた書簡を元に工作員が広めたものであり、工作員は商人に扮して噂を流布した。

 エジプトでフランス軍に抵抗している人々を勇気づけ、エジプトを混乱に陥れることが目的だった。

 しかし、エジプトでフランス軍に抵抗していた人々にはもうすでに力は無く、フランス軍はエジプト全土の征服に乗り出していた。

 11月4日、噂の流布について知ったボナパルトは、オスマン帝国宮廷は書簡をトルコ語で書くことを知っており、これらの書簡が偽りであることを見破っていた。

 しかしエジプトの民衆がオスマン帝国の進軍の情報に希望を持ち更なる反乱を起こす可能性を封じるため、ボナパルトはその対応として各州の司令官や村の長老たちにこれらの工作員を捕らえて州都に送るよう強く求めた。