エジプト戦役 24:ナポレオンのカイロへの帰還
Napoleon returns to Cairo

ナポレオンのカイロへの帰還

カイロのナポレオン

※「カイロのナポレオン」。ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome)画。1863年頃。

 8月15日、カイロに到着したボナパルトはすぐにガントーム少将へいくつかの書簡を送った。

◎ガントーム少将宛ての書簡の内の1通

「ガントーム将軍 宛 本部:カイロ 共和歴Ⅵ年 テルミドール(熱月) 28日(1798年8月15日)

 市民将軍、あなたが置かれた状況はひどいものです。

 この状況であなたが死ななかったのは、あなたがいつか我が国の海軍と友人たちに復讐することを運命づけられていたからです。

 私からのお祝いを受け取ってください。

 一昨日(8月13日)、カイロから30リーグ(約120㎞の道程)離れた最前線でクレベール将軍の副官が持ってきたあなたの報告書を受け取ったとき以来、私はとても楽しいことを経験しました。

 私はあなたに挨拶してキスをします。    ボナパルト」

 この時、ナポレオンは13日にエル・サルヘイヤを去り、約2日かけてカイロに到着している。

 1日当たり約60㎞移動した計算である。

 距離から逆算すると、おそらく14日にはベルベイス周辺に到着し、15日にカイロに到着したのだろうと考えられる。

 かなりの移動速度であり、この行動から、ナポレオンは表面上は陽気にしながらも、内心では危機を感じていたことがわかる。

 そして同日、ガントーム少将に対してエジプトに残存しているフランス海軍の全指揮権を与え、士官、船員、船の状況をボナパルトに知らせるよう命じた。

 加えて、直ちにマルタ島とコルフ島に通知を送り、まだロゼッタにあるだろう2週間前にボナパルト自身がカイロから送った荷物をコルフ島経由でアンコーナに運び、海軍大臣に事件の発生状況に関する報告書を送るよう命じた。

 この時、アレクサンドリアとロゼッタは3等戦列艦ジーラス艦長サミュエル・フッド卿が指揮する部隊によって海上封鎖されていた。

 そのためボナパルトはネルソン戦隊の影響力の及んでいないダミエッタを利用し、すぐにフランス本国との連絡線を再確立させようとした。

 この日、アレクサンドリアで反乱を起こして捕らえられたコライム・パシャがカイロに到着し、収監された。

 そして、デュプイ将軍にコライム・パシャの尋問を命じ、誰と連絡を取り合っていたのかなどの反乱の背景情報を聞き出そうとした。

ガムレインでの戦闘

 ボナパルトがカイロに到着した頃、フジェール少将は第18半旅団とともにガルビーヤ州の州都エル=マハッラ・エル=コブラに向かっており、その途上にあるミヌフィーヤ州メヌーフ(Menouf)に到着していた。

 フジェール将軍はさらに進んだが、メヌーフから約4㎞離れたガムレイン(Ghamrin)村の住民はフランス軍に対抗しようとした。

 1時間の戦闘の後、フジェール将軍は反乱を起こした民衆を村に押し戻し、部隊を投入して村を占領した。

 民衆側の損害は死者およそ200人であり、フランス軍側の損害は死者3人、負傷者数名人だったと言われている。

ドゼー師団へのムラード・ベイ軍討伐準備命令

 8月16日、ボナパルトはベルティエを通じてドゼー将軍にギザ州の南に位置するベニ・スエフ州とさらにその南のミニヤー州を征服する準備を開始するよう命じた。

 そして、以前、住民に裏切られてナイル川右岸側にあるギザ州のアトフィ(Atfih)からの撤退を余儀なくされたランポン将軍に対して再びアトフィを占領し、対岸からドゼー師団を支援するよう命じた。

 協定を結んではいたが、ボナパルトは様々な情報からムラード・ベイを討伐することを決断したのである。

※時期的に見て、コライム・パシャがムラード・ベイと繋がりをもっており、尋問によってムラード・ベイがアレクサンドリアの反乱に何らかの形で関与したことが露見した可能性がある。