エジプト戦役 45:失明の恐怖と州都ファイユームへの到着
The Desaix Division, suffering from eye disease, arrives in the provincial capital of Fayoum

エル・ラフンでの休息と失明の恐怖

 ドゼー将軍はセドマンの高地の頂上から兵士達にファイユーム州の光景を見せた。

 そこはまるでこれまでの労苦から解放され、休息を約束する土地のように見えた。

 ドゼー将軍は師団をジョセフ運河のほとりに連れ戻し、負傷兵とその小隊を、ジョセフ運河から分岐する運河が干上がってしまう前に州都ベニ・スエフのナイル川まで急いで送り返した。

 そして10月8日、数隻のボートだけを連れて、ファイユームのモエリス湖からベニ・スエフ州に続く渓谷の入り口にあるエル・ラフン(El Lahun)に立ち寄った。

 ジョセフ運河はこの地点で2方向に分岐し、一方はナイル川と平行に流れ、もう一方は人手の入った隘路を通ってファイユームの湖に流れ込んでいた。

 エル・ラフンではバルブが備え付けられた3つのアーチを持つ橋が堰の役割を果たし、水量調節が行われていた。

 そしてそこにはムラード・ベイ軍のボートが停泊しており、それを鹵獲した。

 エル・ラフンの端はナツメヤシの木立によって日陰となっていた。

 師団は疲労と暑さで疲弊していたため、配下の将軍達はドゼー将軍にナツメヤシの木立の日陰で休息することを希望した。

 ドゼー将軍は配下の将軍達の希望に屈し、ナツメヤシの木立の近くにテントを張ることを許可し、灼熱の太陽の下で行われた多くの困難な行進の後、師団の誰もが運河で水浴びをした。

 しかし衛生状態は悪く、この眼炎を起こしやすい気候では水浴びは危険な行為であり、眼炎が発症するまでにそれほど時間はかからなかった。

 数日後、ドゼー将軍と師団の約半数が眼炎に罹患して片目ないし両目を失明した。

※Anne-Jean-Marie-René Savary著「Mémoires du duc de Rovigo」には、「視覚障害者の数は健常者の数を上回った」と書かれている。

ファイユームへの到着と療養

メディネット・エル・ファイユームの眺め

※「メディネット・エル・ファイユームの眺め(Vue du Medinet El Fayoum)」。ジャン・レオン・ジェローム(Jean Leon Gerome)画。1868~1870年頃。

 失明の恐怖に怯えたフランス兵達は運河のほとりに沿ってファイユームの町に向かって移動し、そこで治癒手段を見つけることを希望した。

 両目が見えなくなったドゼー将軍は数人の兵士とともにボートに乗せられた。

 両目ともはっきりと見える兵士、または片目だけが見える兵士はそれぞれ、武器と荷物を持ちながら盲目の仲間数人を導いた。

 この時のドゼー師団は、戦士の軍というより病院からの避難者のように見えたと言われている。

 ドゼー師団はこの悲惨な状態で師団の一部をエル・ラフンに残して出発し、センウセレト2世のピラミッドとハワーラのピラミッドの前、そしてハワーラのピラミッドの近くにある迷宮(Labyrinth)のある高原の前を通過し、ファイユーム盆地に到着した。

 師団がファイユーム盆地に入った時、何千もの木立の中に咲いたバラの香りが漂っていたと言われている。

 ドゼー師団は行軍を続け、遂に州都ファイユームに到着した。

 そして武器や戦闘の騒音に決して乱されることのない、清らかで甘い空気に満ち、周囲を砂漠で囲まれたファイユーム州の奥深くで、病人たちは徐々に視力を取り戻していった。