シリア戦役 01:新たな戦役の足音
The footsteps of a new campaign

 1798年8月始めに行なわれたアブキール湾の海戦での敗北以降、エジプトのフランス軍にとって苦難が続いていた。

 地中海はイギリスに支配され、情報・補給物資・資金の供給は途絶え、カイロをはじめとしてエジプト各地で反乱が勃発していた。

 しかし、ナポレオンはこれらの逆境にも負けず、イブラヒム・ベイをシリアへと追い出し、下エジプトでの反乱や抵抗勢力をほぼ制圧し、上エジプトではドゼー師団にムラード・ベイを追跡させ、エジプトの内政を再構築し、危機に対応できるよう態勢を整えつつあった。

 エジプト戦役は終わり、エジプトの未制圧地域を制圧して平和を取り戻す時が来たかのように思われた。

ナイルデルタ制圧のための増援

1798年11月7日、ナイルデルタの制圧のための増援部隊のカイロからの出発。

※1798年11月7日、ナイルデルタの制圧のための増援部隊のカイロからの出発。

 1798年11月7日、ヴォー旅団がカイロを出発し、未だフランスの服従を拒否しているソンバットやタンタ(Tanta)などナイルデルタの制圧の任務を負っているラヌッセ少将の指揮下に入るためにメヌーフに向かった。

 10月21日に勃発し鎮圧されたカイロの反乱以降ナイルデルタ周辺の村々では反フランスの気運が高まっており、ラヌッセ旅団の任務の進捗状況も後退していたのである。

 夏は兵士達がカイロからの移動を嫌がるためなるべく兵士を動かさないよう気を使っていたが、10月下旬以降、夏の暑さも和らぎ過ごしやすい気候となってきたため重要都市の征服を本格的に開始したという事情もあった。

 ヴォー将軍は9日にカフル・アル・ファラーウニーヤ(Kafr Al Faraauniyyah)の対岸からナイル川ダミエッタ支流を渡る予定でいた。

 タンタなどの都市を制圧後、ボナパルトはさらにロゼッタの北東に広がるブルラス湖の測量を命じ、湖周辺地域の制圧に乗り出すこととなる。

アレクサンドリア及びアブキール周辺地域のさらなる強化

 11月8日、ボナパルトはメヌー将軍に3個半旅団の全分遣隊をアレクサンドリアに、1個半旅団をロゼッタに、1個大隊をアル・ラフマニーヤに集結させるよう命じ、アル・ラフマニーヤのミュラ旅団をロゼッタに移動するよう命じた。

 そしてマルモン旅団もアレクサンドリアに集結させ、いつでも出発できるよう命じた。

 クレベール将軍がカイロに移動になったため、マルモン将軍がアレクサンドリア、メヌー将軍がロゼッタやアル・ラフマニーヤ周辺地域一帯の警備を任せられることとなったのである。

 アブキール要塞には赤玉焼夷弾用のグリルが配備され、100人が立て籠もって数日耐えられるよう水と食糧が手配された。

※赤玉焼夷弾とは、赤くなるまで熱せられ、周囲の可燃物に引火させることを目的とした砲弾のこと。ナポレオンは赤玉焼夷弾をマントヴァ要塞包囲戦でも使用していた。

 先月のイギリス戦隊からの4日にわたる襲撃は撃退したが、地中海はイギリスが支配しており、今後さらにイギリス戦隊が増強されていくことが予想された。

オスマン帝国への書簡

 11月9日、ボナパルトはオスマン帝国大宰相宛に書簡を送った。

 その内容は「私たちをエジプトに導いたのはフランスの貿易に対して絶えず侮辱を加えてきたマムルーク族を罰する必要性があるからです。異なる時期に、フランスがアルジェやチュニスを罰するために同じことをしなければならなかったのと同じです。フランス共和国は、スルタンの敵の敵であるため、意図する方向や利益に関してもスルタンの友人です。フランスは二人の皇帝(神聖ローマ皇帝フランツ2世とロシア皇帝パーヴェル1世)が崇高なポルテ(オスマン帝国宮廷の呼び名)に対抗するために結んだ連合への参加を積極的に拒否しました。これまでポーランドを二分してきた大国は、トルコに対しても同じ計画を立てています。現在の状況では、崇高なポルテはフランス軍を、フランス軍に献身し、敵に対して行動する準備ができている友人として見なければならないでしょう。」というものだった。

 オスマン帝国と敵対したくないボナパルトの意思が見て取れる文面である。

 この書簡が大宰相の元に届くかどうかはわからなかったがあらゆる手を尽くして大宰相の元に届くよう手配した。

 そしてトルコのフリゲート艦がアレクサンドリアに入港しようとしたら追い払わずに受け入れるようメヌー将軍に命じた。

ローダ島及びサラディン城塞の兵站拠点化

カイロの街の位置関係(1798年)

※1798年時点のカイロの街の位置関係。

 11月15日、ローダ島の物流拠点が完成したことを受け、ボナパルトは各師団の補給所を指定した。

 ランヌ将軍率いる師団の半旅団の補給所は、ローダ島の南端にあるメキヤス近くの家屋の1つに設置される。

 レイニエ将軍率いる師団の半旅団の補給所は、サラディン城塞に設置される。

 ドゼー将軍率いる師団の半旅団の補給所は、ローダ島のモスクに設置される。

 ボン将軍率いる師団の半旅団の補給所は、サラディン城塞に設置される。

 カッファレリ工兵将軍は6日後(11月21日)までにさまざまな施設の準備が整うように措置を講じるよう命じられ、各師団将軍は11月30日までに準備が完了し補給所の稼働ができるよう命じられた。

※ランヌ将軍は少将(旅団長)だが旧メヌー師団の指揮官となっていたため"師団"となっているようである。メヌー師団の指揮権は、アレクサンドリア占領まではメヌー中将、アレクサンドリア占領後~カイロ占領まではヴィアル少将、カイロ占領後~はランヌ少将に付与されている。

ナイル川ダミエッタ支流流域における支配の回復

 11月16日、ボナパルトはカリューブのルクレール将軍にマンスーラ周辺の村々からの寄付金の徴収を命じた。

 ルクレール将軍を派遣する目的は住民達の武装を解除させ、マンスーラ周辺地域を完全に支配することだった。

 そのため住民の態度が悪い場合、長老の首をはねるよう命じた。

 ルクレール将軍はその後、ミット・ガマル周辺の村々に向かい同様のことをする計画となっていた。

 その際、常に兵力を集結して事に当たるよう注意した。

スエズ征服の必要性

1798年11月中旬時点でのフランス軍によるエジプト征服状況とムラード・ベイ軍及びイブラヒム・ベイ軍の状況

※1798年11月中旬時点でのフランス軍によるエジプト征服状況とムラード・ベイ軍及びイブラヒム・ベイ軍の状況

 この時点でエジプトの征服はかなりの進捗を見せていた。

 エジプトの主要地域で制圧が完了していない地域は、アシュート以南の上エジプト、ナイルデルタ周辺地域、スエズ及び紅海周辺地域のみとなっていた。

 ムラード・ベイはドゼー師団が抑えており、ナイルデルタ周辺地域の征服も目途が立っていた。

 しかし、スエズにはカイロの反乱軍約4,000人が逃げ込んでおり、イブラヒム・ベイとムラード・ベイとの連絡役を果たしていた。

 そのためフランス軍としてはジェザル・アフマド・パシャがエジプトへ攻勢をかけてくる可能性も考慮してイブラヒム・ベイ軍とムラード・ベイ軍の連携を断ち切る必要があった。

 そもそもスエズはエジプト遠征開始当初から占領する計画であり、いつかは占領しなければならない場所だった。

 この日、ボナパルトは遂にスエズへ目を向けた。

レヴァントの支配者ジェザル・アフマド・パシャへの書簡

サン・ジャン・ダクルの支配者ジェザル・アフマド・パシャの肖像

※サン・ジャン・ダクルの支配者ジェザル・アフマド・パシャの肖像。サン・ジャン・ダクルとはアッコのこと。

 11月19日、イブラヒム・ベイ軍をエジプトの国境に配置していることを懸念したボナパルトは、レヴァントの支配者であるジェザル・アフマド・パシャに再度書簡を送った。

「あなたが私の敵でないなら、私はあなたと戦争をしたくありません。しかし、あなたが自分自身について説明する時が来ました。もしあなたがエジプト国境でイブラヒム・ベイに避難所を与え続けるなら、私はこれを敵意の表れとみなし、アッコに行くつもりです。私と共に平和を望むなら、イブラヒム・ベイをエジプトの国境から40リーグ(約160㎞)離し、ダミエッタとシリアの間の貿易を自由にしておくでしょう。したがって私は、諸外国を尊重し、陸路でも海路でも、エジプトとシリア間の貿易に完全な自由を残すことを約束します。」

※ナポレオンの言うエジプトの国境とは現在のポートサイド県の東端のことである。そこからおよそ160㎞の地点にはラファ(Rafah)がある。ラファはパレスチナのガザ地区南西端に位置する街である。

 ボナパルトはイブラヒム・ベイのエジプトへの策動や威圧をこれ以上放置することはできないと考えており、同時にエジプトの平和を望んでいた。

 この時、ハッサン・トゥバールやアブー・シェイク、カイロの反乱などエジプトでの抵抗をほぼ無力化し、ムラード・ベイを上エジプトに追いやり、フランス軍に反抗的な主要勢力をほぼ一掃することに成功していた。

 加えてペルシウムに進出するなどシリア方面の防御の状況は順調に進んでいたため、イブラヒム・ベイを匿って先兵としてエジプト国境付近に配置するジェザル・アフマド・パシャに対し「平和を望まないなら拠点であるアッコに侵攻するぞ」とようやく多少の圧力を加えることが可能となったのである。

英国とロシアの協力関係の成立

左:英国首相ウィリアム・ピット(小ピット)、右:ロシア皇帝パーヴェル1世

※左:英国首相ウィリアム・ピット(小ピット)、右:ロシア皇帝パーヴェル1世。

 1798年11月、英国首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、第二次対仏大同盟となる計画の概要を記した提案書を持って、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに向けて出発した。

 この提案書の中で、ピットはロシア皇帝パーヴェル1世に対し、周辺の国々にフランスに対抗するための同盟への参加と組織化を呼びかける招待状を出すよう提案していた。

 イギリスは、フランスの姉妹共和国となったオランダ(バタヴィア共和国)が独立を回復することに加えてフランスが革命前の国境に戻る必要性を強調し、その達成のためには、起こり得るフランスの侵略に抵抗するためにフランスへの圧力を強化する必要があると強調した。

 ピットの提案は、オーストリアはイタリアの領土を得て、オランダとベルギー北部の州とを統合することでオランダを強化しフランスと対抗させるというものであり、スイスの独立とフランスがスイスから併合した土地の回復に加え、サルデーニャとピエモンテの王国の回復と、フランスからイタリアへの道の途上にあるサヴォイアをサルディーニャ王国領とすることも含まれていた。

 その後、パーヴェル1世はこの提案を受け入れて協力関係を築き、両国はオーストリア、オスマン帝国、プロイセン、ナポリ王国との同盟のために本格的に動き出した。

 イギリスはポルトガルと1373年から現在まで続く世界最古の軍事同盟である「英葡永久同盟」を締結しており、ナポリ王国は5月にオーストリアの同盟国となっていた。

 イギリスとロシアの正式な同盟の締結は1798年12月26日となる。

新たな戦役の足音

 フランスとその姉妹国家の周囲はほぼ敵ばかりであり、その敵たちが徒党を組みつつあった。

 エジプト周辺地域においても、カイロから逃亡した反乱軍がスエズに拠点を置いてエジプトにおけるフランスによる平穏を乱そうと動いており、シリアにいたイブラヒム・ベイとテーバイド(アビドスからアスワンまでの行政区分)にいたムラード・ベイとの連絡の仲介役を務めた。

 彼らは使者を派遣し砂漠のすべての部族を決起させようとしていた。

 フランスによるスイスへの侵攻、そしてボナパルトのエジプト征服をきっかけとしてヨーロッパの国々やジェザル・アフマド・パシャとの関係も観察から対立に変化しようとしていた。

 ヨーロッパにおいてもエジプト周辺地域においても新たな戦役の足音が遠くから鳴り響き始めていた。