エジプト戦役 21:カイロのドゼーとベルベイスの占領
Occupied Bilbeis

ドゼー将軍によるギザ及びカイロの指揮

 1798年8月7日、ボナパルトはドゼー将軍にカイロの指揮を一任した。

 ドゼー師団には、1、ギザ州を確保すること、2、カイロの予備軍を形成すること、の2つの目標が与えられることとなった。

 ドゼー将軍は、総司令官がイブラヒム・ベイ討伐に向かったため、カイロでのボナパルトの業務と政策を引き継ぎ、自ら実行に移した。

カイロのドゼー

18世紀のバイラム、またはイスラム教徒の復活祭の様子

※この版画はLynn Hunt, Margaret Jacob, and Wijnand Mijnhardt編「Bernard Picart and First Global Vision of Religion」に掲載されている「Le Bairam ou la Pâque des Mahometans(バイラム、またはイスラム教徒の復活祭)」である。注記によると、Jacob Folkema(Dutch,1692-1767)によって掘られた版画であり、J.F.Bernard著「Ceremonies et coutumes religieuses de tous les peuples du monde ,vol. 7」(1737)p.256に掲載されていたものを転載したものであるとのこと。

 ドゼーは部隊を主要な防衛の中心地で団結させ、いつでも行動できる準備を整え、厳しい規律とエジプトの習慣の尊重を規定し、イスラム教の祝日であるバイラム(Baïram)のためのカイロ市の警備体制を整え、大隊にバイラムの開始を告げる栄光を与えた。

 この時期、エジプトはラマダン(ムハンマドが定めた断食月)の終わりであり、イスラム教徒たちは、この長い太陰月の最後の時間を数え、太陽の円盤が太陽の下に沈むとすぐに食事と楽しみを取り戻すイスラム教の祝日であるバイラム(Baïram)の準備をしていた。

 そして、大隊が大砲を放ち、最後の大砲の光の尾が消滅する直前、静まり返った都市に狂乱の享楽が舞い降りた。

 その後、3晩にわたってモスクはライトアップされた。

 浴場、カフェ、公共広場は、ごちそうや感動を求める群衆で混雑し、ゲームやアルメの踊りが、偉大なイスカンダル(アレクサンドロス)やチンギス・ハーンの偉業を称賛する老人たちの物語と混ざり合った。

 これらの光景はフランスの科学者たちにとって喜ぶべき観察の対象だった。

 人々の目には奇妙に映るが、熱烈な好奇心に突き動かされて、科学者たちは放棄された囲いに入り、それぞれの碑文の前、それぞれの瓦礫の前で立ち止まった。

 ドゼー将軍は科学者たちを自分の周りに集め、学校のように学び、議論した。

 そして、科学者たちが、訪れたことのある有名な国々の歴史について語り、制度や推論を聞くことを喜んだ。

 ドゼーは自分がメンフィスで見た悲しい現実を語り、無駄な探索や失望を語った。

 しかし、さらなる調査を行うべきであり、クフ王のピラミッドを登るか、もしくはメンフィスの平原が覆う広大な墓地の底へ下る道もあると語った。

 アブキール湾での出来事を未だ知らないドゼー将軍はエジプトの環境に不満を持ちつつもエジプトの歴史に思いを馳せていた。

 そして、ボナパルトの戦略と運命を信頼しており、上エジプトを制圧した後、ベレニス(Bérénice)の遺跡近くで紅海を渡り、アラビアの南海岸を迂回し、インド亜大陸の奥地でイギリスを攻撃することを期待していた。

※ベレニス(Bérénice)とは、現在のベレニス・トログロディティカ(Berenice Troglodytica)のこと。ベレニス・トログロディティカは紅海の西の海岸にあり、ラス・バナス(Ras Banas)半島に守られた穏やかなベレニス湾(ファウル湾)があるため、古代から船の安全な停泊地だった。
しかし、ナポレオンとタレーランの計画ではベレニスではなくスエズからインドへ向かうことになっている。

 この日、アレクサンドリアのクレベール将軍は、ナイルの海戦について書かれたガントーム少将の報告書を持たせ、副官をカイロに派遣した。

ベルベイスの占領とエル・サルヘイヤへの進軍

【エジプト遠征】1798年8月8日~9日、ベルベイスの占領とエル・サルヘイヤへの進軍

※1798年8月8日~9日、ベルベイスの占領とエル・サルヘイヤへの進軍

 8月8日、フランス軍の先頭は数千人の住民が住む大きな町であるベルベイスに到着した。

 しかし、イブラヒム・ベイは12時間前にベルベイスを発っており、エル・サルヘイヤ(El Salheya)へ向かって後退していた。

 エル・サルヘイヤはエジプトの端に位置し、良い水があって人が住んでいる最後の場所であり、そこからシリアとエジプトを隔てる砂漠が始まる場所でもあった。

※ここで示されているシリアとは、オスマン帝国のシリア行政区のことであり、現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナを含む地域であり、砂漠とはシナイ半島とその周辺の砂漠地帯のことである。

 ボナパルトはレイニエ将軍に午前4時ちょうどに出発し、日暮れまで可能な限りベルベイスへの道を進むよう命じた。

 ベルベイスに到着する前、ボナパルトはキャラバンの一部と遭遇し、護衛を付けてカイロまで送り届けた。

 8月9日、フランス軍の先頭はコライム(Koraym)のヤシの森で野営し、ここでメッカからのキャラバンが数日前にエジプト国境に到達したことを知った。

※コライム(Koraym)とはエル・クレイン(El Qurein)のことだと考えられる。

 この時、イブラヒム・ベイ軍はエル・サルヘイヤからの後退を開始しており、その先頭は砂漠に侵入して約8㎞(2リーグ)進んでいた。

 ボナパルトは8月10日にはコライムに本部を移し、レイニエ師団はコライムからさらに前進してエル・サルヘイヤへ向かった。

 コライムでは、キャラバンの残りを発見した。

 しかし、そのすべてがイブラヒム・ベイによって捕えられ、その後解放され、アラブ人によって略奪された商人で構成されていた。

 ボナパルトは略奪されたキャラバンの商人達に夕食を与え、カイロへの旅に必要なラクダを提供した。

 フランス軍はその後も速度を落とさずイブラヒム・ベイ軍を追跡し、エル・サルヘイヤへの道を進軍した。

 バイラムが終わった数日後、カイロにクレベール将軍からの急使が訪れナイルの海戦の敗報が届けられた。

 ドゼー将軍は急使をそのまま船でエル・サルヘイヤへ進軍中の総司令官の元に急がせ、自らはギザ州の警戒のためにカイロを離れてナイル川を南下し、アト・タルファヤ(At Tarfayah)へ向かった。