エジプト戦役 08:ピラミッドの戦い(エンバベの戦い) 
Battle of The Pyramids

1798年7月21日、「ピラミッドの戦い」

※1798年7月21日「ピラミッドの戦い」。ルイ=フランソワ・レジューヌ(Louis-François Lejeune)作。1806年

ピラミッドの戦いにおけるマムルーク軍の布陣

1798年7月21日、ピラミッドの戦いにおけるマムルーク軍の布陣と両軍の兵力

※1798年7月21日、ピラミッドの戦いにおけるマムルーク軍の布陣と両軍の兵力

 ムラード・ベイはイブラヒム・ベイから受け取った兵力とシュブラ・キットの敗残兵、そしてベドウィン軍、合計約78,000人を集結させ、ブウラクの対岸にあるエンバベとピラミッドの間に布陣し、ナイル川をニコルが指揮する小艦隊で守らせた。

 マムルーク軍右翼は20,000人のイェニチェリ(オスマン帝国歩兵)、アラブ人、カイロの民兵で構成され、エンバベ村の前からビクティル(Biktil)村にかけて掘られた塹壕地帯に大砲40門とともに布陣した。

 中央と左翼はマムルーク、アガ、シャイフ(部族長)、その他エジプト貴族12,000人からなる騎兵軍で構成され、全員が馬に乗り、それぞれが3人か4人の従者(歩兵)を従えておよそ50,000人の軍を形成した。

 さらにその左には騎乗したベドウィンが8,000騎の騎兵軍を形成しており、ピラミッドの支援を受けていた。

 マムルーク軍中央及び左翼とその左のベドウィン軍は全体として3リーグ(約12㎞)の長い列を形成していた。

 エンバベからブウラク、そして旧カイロ(ギザの対岸)に至るナイル川には、300枚の帆が森のように見える船団が収容されていた。

 イブラヒム・ベイは約1,200人の兵力でナイル川右岸にあるブウラク(Boulaq)で防衛態勢を整えていた。

※もしイブラヒム・ベイ率いる1,200人がマムルーク騎兵なら3~4人の従者も同伴するため3,600人~4,800人の歩兵もいたことになるが、そこまで詳しく書かれている資料は発見できなかった。

 右岸では、敗北すれば異教徒の奴隷となると思われる自分達の命運を掛けた戦いを見に駆けつけた男性、農民、子供たちを含むカイロの人々で埋め尽くされていた。

ナポレオンの鼓舞

「ピラミッドの戦いで部隊に演説するボナパルト」。イポリット・ベランジェ(Hippolyte Bellangé)画。1823年。

※「ピラミッドの戦いで部隊に演説するボナパルト」。イポリット・ベランジェ(Hippolyte Bellangé)画。1823年。ピラミッドとナポレオンの位置は約15㎞ほど離れている。
本作では朝日が昇っているが、実際の戦いは午後3時半頃に開始された。よく見ると各師団(方陣)の位置が不正確であり、ナポレオンは右から3番目のドゥガ師団とともにいたにもかかわらず、後方で演説をしていることになっている。

 セントヘレナのナポレオンによると、戦いの時、軍にピラミッドを見せながらこう言ったと言われている。

「兵士諸君、40世紀(の歴史)が諸君を見下ろしている。(Soldats, quarante siècles vous regardent. )」

フランス軍の始動とマムルーク軍陣地の観察

 7月21日午後3時頃、ナイル川と平行して布陣し戦闘序列を整えたフランス軍は遅れているペレー艦隊の到着を待たず、縦隊を形成して動き出した。

 参謀達はエンバベの塹壕を認識した。

 マムルーク軍の塹壕は塹壕というよりも粗末な空掘であり、騎兵に対してはある程度の効果があるだろうが、歩兵に対しては役に立たないだろうと思われた。

 僅か2日前から草案さえ無く作られ始めたためか、計画性も不十分だった。

 エンバベに約40門ある大砲の内ナイル川方向に向けられた鉄製の大砲は固定砲台だったため陸戦への転用はできないと考えられ、さらに歩兵はこん棒を装備し、秩序立っておらず、平地では戦うことができないようであり、恐らく塹壕の背後で戦うことを想定しているのだろうと考えられた。

 シュブラ・キットの戦いでも歩兵はあまり手強いものではなく、マムルーク軍で恐れるべきは騎兵であると認識されていた。

ピラミッドの戦い開始直前の両軍の位置

ピラミッドの戦い開始直前の両軍の位置

※ピラミッドの戦い開始直前の両軍の位置

 先頭のドゼー師団は右方向へ行進し、縦列の左側面をマムルーク軍に晒しながら塹壕陣地に設置された2門の大砲の射程範囲内を通過した。

 そしてマムルーク軍戦線の中央へ移動した。

 レイニエ師団、ドゥガ師団、ボン師団、ヴィアル旅団の順で間隔を空けてドゼー師団の後を追った。

 フランス軍が突破しようとしていた地点の向こう側にビクティル村があり、ボナパルトはそこが軍を指揮する上でのポイントだと考え、ドゼー師団とレイニエ師団で突破することを計画していた。

 フランス軍は最大の沈黙の中で30分間前進し続けた。

 ボン師団はエンバベの前で立ち止り、ボン将軍は戦いの前に過去の栄光を思い出させ、勝利の利点と必要性を感じさせる演説を行なった。

 その間にヴィアル旅団が縦隊でボン師団を追い抜き、ボン師団が最左翼となった。

※ボン師団がヴィアル師団に追い抜かれてボン師団の左にナイル川、右側にヴィアル師団という配置になったことは、テルミドール4日(7月22日)付のベルトラン工兵大尉の報告書に書かれている。

ピラミッドの戦いの始まり

「ピラミッドの戦い」の始まり

※「ピラミッドの戦い」の始まり

 マムルーク軍最高司令官ムラード・ベイは、戦闘訓練を受けていないにもかかわらず、ボナパルトの意図を推測し、フランス軍がまだ方陣を完成させず縦列で移動している最中に攻撃しなければならないと考えた。

 ボナパルトの意図はシュブラ・キットの戦いときのように方陣を形成し、前線を突破してその後ろのビクティル(Biktil)を占領し、エンバベの右翼及びマムルーク軍中央とマムルーク軍左翼及びそのさらに左のベドウィン軍とを分断し、エンバベを包囲することだった。

 午後3時30分頃ムラード・ベイは7,000~8,000の騎兵を率いてビクティルの周囲から稲妻のように出撃し、小さな水路の向こうにいるドゼー師団とレイニエ師団の間を通過し、これらを瞬く間に包囲した。

 この機動は急速だったため、一瞬、ドゼー将軍が決められた配置に付く時間がないのではないかと心配された。

 ドゼー師団の大砲はヤシの木立を通過するときに妨げられたが、最初にドゼー師団の元に到着したマムルーク騎兵の数は少なく、砲撃によりマムルーク騎兵の半数が地面に投げ飛ばされた。

 その間にドゼー将軍は方陣を形成することに成功し、四方八方から襲い掛かってくるマムルーク騎兵へのブドウ弾での砲撃とマスケット銃での射撃を開始した。

 マムルーク軍はレイニエ師団の大砲の射程内にあり、レイニエ師団は砲撃でドゼー師団を支援しつつすぐに方陣を形成し、包囲されるとドゼー師団と同じくマムルーク騎兵への射撃を開始した。

 総司令官のいるドゥガ師団はこの突然の突撃に対応できず慌ただしく方陣の形成を開始したが、幸いにも突撃の対象とはならなかったため方陣を形成することができた。

 ドゼー将軍の副官であるサヴァリー(Anne Jean Marie René Savary)少佐によると「戦線が200歩離れたマムルーク軍に向かって砲撃を始めたとき、最後の兵士達はまだ隊列に加わっていなかった。」とのことであり、ドゼー師団は方陣を形成中に本格的な戦闘を始めたことが分かる。

 そして、レイニエ師団に所属していたヴェルトレイ(Vertray)の行軍日記によると、「レイニエ将軍が命令すると、瞬く間に兵士達が6列の縦深を取って縦横に配置され、衝撃に耐えられるよう準備を整えた。この動きは、実に驚くべき精度と冷静さで実行された。」とのことであり、襲われようとしていたレイニエ師団が縦列から素早く方陣を形成した様子が見て取れる。

 この時、フランス兵約20人がお互いの砲撃で倒れたが、これはドゼー師団とレイニエ師団の距離が近すぎたために起こった事故だった。

 ドゼー師団とレイニエ師団はマムルーク軍をよく引き付けて冷静に射撃を行い、弾薬を無駄にすることが無かったと言われている。

 総司令官がいるドゥガ師団は慌てて方陣を形成して方向を変え、ナイル川とドゼー師団の間を進み、ドゼー師団とレイニエ師団を支援しようとした。

 ドゥガ師団はすぐにマムルーク軍を大砲の射程内に収めることのできる位置を見つけ、マムルーク軍の尾に砲撃を開始した。

 マムルーク軍の最も勇敢な指揮官やマムルーク騎兵が45騎~50騎が方陣との戦闘で死亡した。

 戦場は大砲の出す煙と土埃で暗くなり、死者と負傷者で埋め尽くされた。

 マムルーク軍は30分もの間、煙や土埃、馬の足音やいななき、ブドウ弾、銃声、叫び声のただ中で、ブドウ弾の射程内を駆け回り、ドゼーの方陣とレイニエの方陣の間隔からドゥガの方陣との間隔へと渡り歩き、攻撃を続けた。

 ムラード・ベイはナポレオンの計画を阻止できたもののすべての攻撃はフランス軍の方陣によって撃退され、結局、何の戦果も得ることができずに大砲の射程外に遠ざかり、そこで待機した。

 マムルーク軍は騎兵のみが戦っており、大多数のこん棒を装備した歩兵は塹壕陣地と野営地で待機していた。

 どうも歩兵に戦わせるのは恥だと考えているようだった。

エンバベの包囲

1798年7月21日、ボン師団によるエンバベの包囲機動(ピラミッドの戦い)

※1798年7月21日、ボン師団によるエンバベの包囲機動(ピラミッドの戦い)

 ムラード・ベイは3,000騎を率いて上エジプトへの道の途中に位置するギザ(Giza)方向へ後退した。

 残された者達は、一部(推定約6,000騎のマムルーク騎兵)は方陣の背後の小高い丘に横たわり、一部(推定約2,000騎のマムルーク騎兵)はエンバベの塹壕陣地に逃げ込んだ。

 この瞬間、ボン将軍は塹壕を武力で一掃する命令を受け取った。

 ボン師団の方陣から離れて前衛を形成したランポン旅団はそれぞれが300人から成る3つの縦隊を率いエンバベの背後への迂回機動を取り、ボン師団本体は方陣を形成し直しエンバベへ向かって前進した。

 ヴィアル旅団もランポン将軍の元に少数の部隊を派遣した。

 ランポン旅団の行進を阻止しようと300騎~400騎のマムルーク騎兵がやってきたが、すべて撃退された。

 ボン師団とヴィアル旅団がエンバベの塹壕陣地に近づいた時、ランポン旅団は堀と堤防を占領し、エンバベとギザの間の連絡を遮断した。

 ボン師団はナイル艦隊からの支援を受けたエンバベの塹壕陣地からの砲撃により方陣が崩れかけていた。

 ボン将軍は怯んだがマルモン将軍が前進することを主張し、師団はエンバベへの前進を続けた。

 そこへ方陣が崩れかけているのを好機と見たマムルーク騎兵の一団がエンバベから出撃し、ボン師団とヴィアル旅団の方陣に突撃を敢行した。

 ボン師団所属のマルモン将軍は陣形を整え、兵士達に動かないよう命じ、兵士達は将軍の攻撃命令が下るまで待った。

 そして十分引き付けると遂に攻撃命令が下された。

 マムルーク軍はサーベルが銃剣とぶつかる地点にまで迫り、前列の兵士の足を切ろうとしたが、マムルーク軍の突撃は撃退された。

 ヴィアル旅団はエンバベと右翼に突撃してきたマムルーク軍の間に移動し、ボン将軍の背後を守りつつエンバベからの退路を遮断し、必要に応じて左側(ナイル川側)から塹壕を攻撃できるようにしており、この突撃に冷静に対処した。

デヴィルノワ中尉とマムルーク騎兵との一騎打ち

 ボン師団がマムルーク騎兵の攻撃を受けている時、立派な長いひげを生やした名高いマムルーク騎兵が、単騎でボン師団の最前線へと行進した。

 ボン師団の方陣にいたニコラ=フィリベール・デヴェルノワ(Nicolas-Philibert Desvernois)中尉はこの横柄な敵を見て怒りに襲われ、立派なアラブ馬を駆り立てて方陣の隊列から飛び出し、この大胆不敵な敵と戦うために進み出た。

 周囲は銃弾が飛び交っていたが、このマムルーク騎兵とデヴィルノワ中尉は気にも留めなかった。

 デヴィルノワ中尉がピストルを1発で命中させるとマムルーク騎兵は馬から落ち、手と膝をついてデヴィルノワ中尉の元に近づいてきた。

 デヴィルノワ中尉は捕虜となるよう促したが、マムルーク騎兵は馬の下から近づき馬の下から飛び掛って手綱をつかみ、デヴィルノワ中尉に切りかかった。

 その時、馬が立ち上がりデヴィルノワ中尉は後部から落ちた。

 取っ組み合いとなり、マムルーク騎兵のターバンの巻かれた頭部をサーベルの柄頭で何度も打ち付けてとどめを刺した。

 勝利の後、頭から剥がれ落ちたターバンを見ると金貨が入っていたと言われている。

分断の成功

1798年7月21日、エンバベの分断とフランス軍による圧迫

※1798年7月21日、エンバベの分断とフランス軍による圧迫

 ボン師団とヴィアル旅団がエンバベを占領しようと向かっている時、ドゼーとドゥガの2個師団も前進し、エンバベを隔離する機動を取った。

 ドゼー師団は分遣隊を派遣してビクティル(Biktil)を占領し、レイニエ師団とドゥガ師団はドゼー師団と高さを合わせて塹壕を越え、マムルーク軍を圧迫した。

 フランス軍はドゼー師団、レイニエ師団、ドゥガ師団、ランポン旅団の順に並び、ドゼー師団はビクティルに支援され、ランポン旅団はナイル川に支援されていた。

 エンバベと完全に切り離されたのを見たムラード・ベイは、顔に傷を負いながらも包囲されたエンバベとの連絡を再確立することを目的として何度か突撃を行なった。

 しかしすべての突撃は失敗し、マムルーク軍のギザへの撤退を促進する結果となった。

※レイニエ師団について書かれている1次資料は見つけることができなかったが、レイニエ師団がドゼー師団とドゥガ師団とともにギザの占領を行っていることから、本ブログではドゼー師団とドゥガ師団と高さを合わせて前進したのだろうと推測した。しかし、方陣の背後の小高い丘に横たわったマムルーク軍の残りと対峙していた可能性も否定できない。

ピラミッドの戦いの決着

 ボン師団はエンバベの塹壕を一掃し、塹壕から逃げるマムルーク軍に至近距離から発砲した。

 塹壕を守っていたのはこん棒を持った民兵だったため、塹壕の制圧は容易だった。

 イブラヒム・ベイはナイル川右岸で戦況を見守っていたが、エンバベが奪われようとしているのを見て対岸の仲間を助けるために川を渡ることを決意した。

 しかし手漕ぎボート数隻しかなく、兵士達の間で混乱が生じたため対岸に渡ることができなかった。

 ボン師団が塹壕を突破するのを見たエンバベのマムルーク騎兵2,000人はナイル川を遡って逃亡するために出発したが、塹壕が川で終わっている地点を通過する必要があった。

 マルモン将軍はすぐさま方陣の一面を分離して隘路に沿って右に急行し、ボン将軍は残された軍でエンバベへ向かいヴィアル旅団とともにエンバベを包囲した。

 そしてマルモン旅団はナイル川に沿ってギザへ撤退中のマムルーク騎兵の一団への攻撃を開始した。

 マムルーク騎兵達は殺された人馬によってすぐに道を塞がれ、一部はナイル川に沿って南に逃亡し、一部はナイル川へ入って逃亡しようとした。

 ボン将軍に攻撃されたエンバベの陣地は抵抗せず、容易に村への侵入を許し、歩兵は騎兵の敗走を見て戦いを放棄し、北へ行くか小型ボートに乗り込むか泳いで逃げようとした。

 しかし、北へ逃げた者達はヴィアル旅団によって止められ、川に逃げた者達はキャニスター弾や銃撃により多くの者が対岸にたどり着くことができず、ナイル川は血で赤く染まった。

 ボン将軍とヴィアル将軍に村を追われてナイル川に逃げた歩兵も先の騎兵と同様フランス軍の攻撃に晒されて虐殺が行なわれた。

 マムルーク騎兵2,000騎の内、約1,500騎が殺されるか溺死するかし、約500騎は虐殺から逃れることができた。

 村を守っていた20,000人もの歩兵達の内約7,000人が犠牲となった。

 その後、ボン師団の手から逃れた約500人の兵士達はギザへ向かったが、ランポン旅団とそれを支援するドゥガ師団によって止められた。

 戦場に取り残され、エンバベで包囲されなかったマムルーク騎兵の大多数はナイル川を左岸に沿って下り、夜に紛れて田舎へ逃亡し、マムルーク軍が敗走しているのを見た8,000騎のベドウィン軍は散り散りとなって砂漠へ姿を消した。

 残された大砲や荷物を積んだ200頭以上のラクダなどはフランス軍が奪い取った。

マムルーク軍の敗走と追撃

1798年7月21日、「ピラミッドの戦い」。マムルーク軍の敗走

※1798年7月21日、「ピラミッドの戦い」。マムルーク軍の敗走

 ドゼー、レイニエ、ドゥガの各師団は敗走するマムルーク軍を追跡しつつギザへ向かい、ヴィアル旅団とボン師団はエンバベに留まった。

 午後6時、フランス軍がギザに近づくとムラード・ベイは船を焼き払って対岸に退却を知らせる合図を送り、ギザを放棄した。

 ナイル川はたちまち炎に包まれた。

 これらの船にはエジプトの富が積まれていた。

 マムルーク騎兵12,000人の内、ムラード・ベイ率いる3,000騎だけが上エジプトに撤退した。

 フランス軍はムラード・ベイがギザを放棄するのを確認するとギザを占領した。

 イブラヒム・ベイは泳いで川を渡ってきた生存者を救助しつつカイロへ向かった。

 カイロでは恐怖による混乱が広がり、フランス軍がすぐに対岸に逃亡した者達を追ってくるのではないかと思われた。

 そして民衆による反乱が起きたため、イブラヒム・ベイはカイロにいても安全ではなかった。

 そのためイブラヒム・ベイは宝物をどこかに運び、夜の内にカイロを放棄してベルベイス(Belbeis)に向かった。

 オスマン帝国のエジプト総督セイド・アブー・バクルもカイロから逃亡した。

 ドゼー、レイニエ、ドゥガの各師団は夜までムラード・ベイを追跡した後、ギザへの帰途についた。

 ピラミッドの戦いにおけるフランス軍の損害は死者29人、負傷者260人であり、対するマムルーク軍は7,000人が死傷し、溺死者や捕虜を合計すると10,000人に達したと言われている。

戦いの後

 夜、フランス軍はムラード・ベイの娯楽であるカジノのあるギザに到着した。

 ボナパルトも徒歩でギザに到着し、大部分の将軍も続いて到着し、ピラミッドの戦いの結果に完全に満足していることを示した。

 夜9時に司令部がギザに到着し、軍はナイル川のほとりやエンバベとギザの村の周囲で野営した。

 ボナパルトはムラード・ベイの別荘に居を構え、士官達とともに周囲を見て回った。

 庭には美しい木々が生い茂り、設備の整った家には金のフリンジで飾られた最高級のリヨンシルクで作られたソファがあった。

 エンバベを占領したヴィアル旅団とボン師団は、ベイとカシェフ(州の治安維持や徴税などを担当する役人)の荷物、ジャムやお菓子でいっぱいの入れ物を見つけ、絨毯、磁器、銀製品が豊富に残されているのを見た。

 燃え盛るエジプトの300もの建物からの炎の明かりでカイロのミナレット(モスクの塔)が照らされ、その光はギザから約8㎞先のピラミッドをも照らしていた。

 兵士達は、重大な危機から抜け出したと信じていた。

 そしてもし方陣で戦っていなければ正面のみならず側面や後方からの攻撃によりフランス軍は完全に破壊されていただろうと確信しており、もしマムルーク軍が大砲を持ち、その使い方を知っていたらどうなっていたかを想像して恐怖したと言われている。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Vertray著「L'Armée française en Égypte, 1798-1801 : journal d'un officier de l'Armée d'Égypte」(1883)

・Anne-Jean-Marie-René Savary著「Memoirs of the Duke of Rovigo, (M.Savary), 第1巻」(1828)

・Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont著「Mémoires du maréchal Marmont, duc de Raguse de 1792 à 1841, 第1巻」(1857)

・その他