エジプト戦役 46:ネルソン戦隊のナポリでの休暇とマルタ封鎖
Nelson blockaded Malta
ネルソン戦隊の休暇
※「1798年10月、修理のためにナポリ湾に停泊中の HMS ヴァンガード」。同行していたジェームス・ウィアー大尉による作。
10月初旬、ナイルの海戦の報告がロンドンに届けられた。
ネルソンからの報告を聞いたイギリス海軍大臣ジョージ・スペンサー(George John Spencer)はこの大勝利の報に気を失ったと言われている。
その後、ナイルの海戦での勝利の報がイギリス中に広まって祝賀ムードとなり、舞踏会や勝利の祝賀会が開かれ、教会の鐘が鳴らされた。
ロンドン市はネルソンとその麾下の艦長たちに剣を授与し、さらに国王から海軍黄金勲章(The Naval Gold Medal)を授与されることとなった。
ネルソンには大きい勲章、14人の艦長達には小さい勲章が用意され、ネルソンの勲章には「サー・ホレイショ・ネルソン。K.B. 少将兼司令官、1798 年 8 月 1 日 - フランス艦隊敗北。(SIR HORATIO NELSON. K.B. REAR-ADMIRAL AND COMMANDING OFFICER ON 1st AUGUST 1798 - THE FRENCH FLEET DEFEATED.)」と刻まれたと言われている。
イギリス本国のお祭り騒ぎとは反対に、ネルソンはナポリで傷を癒し、穏やかな日々を過ごしていた。
ネルソンとハミルトン夫妻はポルティチの王室窯を訪れると、ナポリ王国摂政マリア・カロリーナから発注された食器セットがすでに用意されており、そこにはフランス旗艦「オリエント」が爆発した場面が描かれていたと言われている。
英雄となったネルソン戦隊の艦長や乗組員たちも艦の本格的な修理に勤しみつつ、ナポリでの日々を楽しんでいた。
エジプトでの問題への対応と民衆の不満の限界
ネルソンがナポリで穏やかな日々を過ごしている頃、ボナパルトは地中海の海岸線の強化、反乱の鎮圧、連絡線の中継地点の防御強化、ダミエッタ~エル・サルヘイヤ間の連絡線の確立、ペルシウムでの砦の建設、そして金策に奔走していた。
敗北すれば敗北の穴を埋めなければならず、新たな問題も噴出するのである。
まさにボナパルトはそのような状況に直面しており、10月に入ってもその忙しさに変化は無かった。
しかし、ボナパルト自身も優秀だったが麾下の将軍達の多くも優秀だったため、敗北の対応策を瞬時に考えて実行に移し、新たな問題にも即座に粘り強く対応することができており、未だ征服していない地域であるスエズにも進出しようと計画していた。
しかし、軍は金食い虫であり、不毛なエジプトの地での財源確保には限界があった。
現代では国家の信用によって国債を発行し、それに伴い中央銀行が紙幣を刷ることができるが、当時は紙幣は無く、それ自体に価値がある金や銀などを手に入れなければ貨幣の発行は不可能だったため、発行金額にも限界があった。
実際、エジプトのフランス軍も銀器などを潰して銀貨にしていた。
そのため、ボナパルトはフランス東洋軍の信用によってのみ成り立つ約束手形を発行したが、この約束手形は業者のキャッシュフローを圧迫したばかりか、フランス軍の行く末やフランスの総司令官の考え一つで支払われない可能性のある信用性の低いものだった。
過大な寄付金の要求に加えて支払い遅延まで行われては民衆の生活が苦しくなるのは必然だった。
利害関係者やそこで働く者たち、そしてその家族の不満は並大抵のものではなかった。
マルタ封鎖
※「1798年10月、マルタ島封鎖中、ニサ侯爵艦隊の旗艦「ライニャ・デ・ポルトガル(ポルトガルの女王)」とボール艦長の艦隊との遭遇。」アルベルト・クティレイロ(Alberto Cutileiro)画。20世紀。パブリックドメイン:CC0 1.0 Universal Public Domain Dedication
1798年10月2日、戦列艦「ミノタウロス」の到着によってマルタの状況を知ったネルソンは、艦の修復が完了したのを確認するとアレクサンダー・ボール艦長に戦隊を率いさせてマルタに派遣した。
ニサ(Nisa)侯爵率いるポルトガルの艦隊と合流して封鎖軍の指揮を執るために、ボール艦長は戦列艦「アレクサンダー」を指揮し、トーマス・トロブリッジ艦長の指揮する戦列艦「カローデン」、ジョージ・マレー艦長の指揮する戦列艦「コロッサス(Colossus)」を率いてマルタへ向かった。
ネルソンの旗艦「ヴァンガード」はまだ修復が完了していなかったため戦列艦「ミノタウロス」とともにナポリに残った。
10月12日、ナポリ港を出発したボール戦隊は10日の航海を経てマルタ沖に到着し、恐らく数日前に到着したばかりのニサ侯爵率いるポルトガル艦隊と合流した。
ボール戦隊とポルトガル艦隊が合流したことにより戦力的に増強されたためマルタの封鎖を本格的に開始した。
この日、ヴォーボワ将軍は要塞外にいた部隊をすべて要塞都市ヴァレッタに撤退させた。
海上での動きを見たヴォーボワ将軍はヴァレッタで籠城戦を行うことを決意したのである。
この時、ヴァレッタに閉じ込められたヴォーボワ師団の総兵力は3,000人を超えおり、物資は兵力分は十分に確保されていたが、ヴァレッタ内の住民たちの分の食糧は確保されていない状態だった。
ムラード・ベイのカイロ方面への出発
10月中旬、ムラード・ベイはセドマンの戦いの敗北に打ちのめされ、ガラクの湖の裏で態勢を立て直していた。
ドゼー将軍はじめドゼー師団の半数以上が眼炎に罹ってファイユームから動けなかったことは、ムラード・ベイにとって幸運だった。
そこへ近い内にカイロで反乱が起きるという情報が舞い込んできた。
ムラード・ベイはすぐに準備を整えるとドゼー師団が動けない隙を突いてカイロ方面へ出発した。
ナイルデルタ制圧の進捗
10月20日、ラヌッセ少将は、ナイルデルタでの抵抗勢力の首魁であるアブー・シェイクがカフル・エル・シェイク(Kafr El Sheikh)の街にいるとの情報を得た。
その日の夜、アブー・シェイクの邸宅を取り囲み、奇襲を仕掛けた。
奇襲は成功し、大砲3門、ライフル銃40丁、馬50頭と大量の食糧を奪い取った。
これによりハッサン・トゥバールとの戦い以来、再び抵抗が強くなっていたナイルデルタの制圧の進捗状況はようやく75%ほどとなった。
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