エジプト戦役 44:セドマンの戦い
Battle of Sidmant

セドマンの戦いの始まり

1798年10月7日、セドマンの戦い

※1798年10月7日、セドマンの戦い

 10月7日(ヴァンデミエール16日)、日の出とともに約2,500人を有するドゼー師団は動き始めた。

 騎兵がほとんどいなかったため、ドゼー将軍は師団で方陣を形成し、両側面に200人で構成される小方陣を配置し、氾濫原と砂漠の端に沿って前進した。

 午前8時、ムラード・ベイが軍の先頭に立っているのが見えた。

 ムラード・ベイは、ベイやカシェフの中でも際立って煌びやかな衣装を着ていたため遠くからでも識別できた。

 その軍勢はマムルーク騎兵2,000騎、アラブ騎兵8,000騎(恐らくベドウィン)、そしてフェラ民兵(歩兵)で構成されていた。

 

「ベルティエ元帥の回想録」には「約3,000人のマムルーク人と8,000人~10,000人のアラブ人で構成されていた。」と書かれている。
Félix Martha-Beker (comte de Mons)著「Le général Desaix: étude historique」や「ベルティエ元帥の回想録」にムラード・ベイ軍はドゼー師団の6倍との記述があるため、マムルーク騎兵2,000騎、アラブ騎兵8,000騎と仮定すると、フェラ民兵は5,000人という計算となる。
しかし、ナポレオン1世書簡集には、5,000~6,000騎のアラブ人とセドマンの塹壕を守る歩兵の一団及び大砲と書かれている。
どの記述が正しいかはわからないが、ムラード・ベイ軍は全軍合わせて、2,500人を擁するドゼー師団の6倍である15,000人前後だったのだろう。

 ムラード・ベイの野営地からもドゼー師団の武器に朝日が反射しているのが見えた。

 ムラード・ベイは師団に近づくとすぐに騎兵を出陣させ、砂埃がこの騎兵の群れを包み込み、丘の斜面で渦を巻いた。

 叫び声や遠吠えが聞こえ、時折、銅鑼の鋭く奇妙な音が聞こえた。

ムラード・ベイ軍の攻勢とドゼー師団の方陣での防御

 次の瞬間、ムラード・ベイ軍は瞬く間にドゼー師団を包囲し、最大の勢いで第88半旅団のいる後部に突撃してきた。

 しかし方陣からの大砲と銃による攻撃によって激しく撃退された。

 マムルークの中で最も勇敢な部隊であっても、方陣を形成した師団を攻撃することに絶望したと言われている。

小方陣への攻撃

19世紀、フランス兵による小方陣の例

※19世紀、フランス兵による小方陣の例

 ムラード・ベイは包囲を解いて軍を集結させつつ第21軽半旅団所属のラヴァレッテ(Lavalette)大尉が指揮する右前方に配置されている小方陣に部隊を突撃させた。

※第21軽半旅団の指揮官はロビン(Robin)少将。

 フランス軍はどの場所に突撃されたとしても冷静に対応した。

 ラヴァレッテ大尉率いる第21軽半旅団の200人の銃兵は10歩離れたところから発砲を開始し、マムルーク騎兵と銃剣を交差させただけだった。

 最も勇敢な部隊は、フランス軍の抵抗と突撃しても突破できないことに激怒し、絶望してフランスの隊列に身を投じ、そこで彼らは、メイスや斧、カービン銃、投げ槍、槍、サーベル、ピストルを投げ、防御のために無駄に使用した後、戦列の中で死亡していった。

 マムルークは少なくとも自分の命を高く売ろうとし、数人の銃兵を殺そうとした。

 馬を殺され、足を滑らせて地面に腹を打ち付けられた後、銃剣の下をくぐって兵士たちの足を切り落とした者もいた。

 しかしそれでも小方陣を崩すことはできなかった。

 そこへマムルークの新たな分遣隊が到着した。

 この瞬間を捉え、マムルークは小方陣への2回目の突撃を開始した。

 小隊の銃兵は白兵戦を繰り広げ、勇敢に戦った後、方陣に退却した。

 この攻撃でマムルークは160人以上の兵を失い、小方陣のフランス銃兵達も13人が死亡、15人が負傷した。

ムラード・ベイの切り札

 ムラード・ベイはこの小方陣を撃退したことを見て、左翼の小方陣にも突撃を敢行したが、失敗に終わった。

 その後、これまで集団で行動していた多数の騎兵を分割し、再び師団を包囲した。

 ムラード・ベイ軍はいくつかの砂の山を占領し、その内の1つで、隠されていた4門の大砲で構成される砲台を露わにした。

 この砲台は有利な位置に配置されており、ドゼー師団に致命的な砲弾の雨を降らせた。

 ドゼー将軍は自軍より6倍多い敵に包囲されており、もし撤退するにしてもボートでの撤退が困難であり、負傷者を見捨てざるを得ない状況だった。

「それで我々の不幸な負傷者は地面に横たわっていますか? 」とドゼーは聞いた。

「何よりも軍を救うことです。」と副官のフリアン(Friant)将軍は答えた。

 ドゼー将軍はムラード・ベイを倒すか最後の一兵まで戦う必要があると判断した。

 そして師団を砲台に向けて突撃し、ドゼー将軍の副官であるラップ(Jean Rapp)大尉率いる部隊が鋭い銃剣で砲台を占領した。

 その瞬間、半回転で戻ってきたマムルーク騎兵隊が地面に横たわっている負傷者を虐殺した。

 この虐殺はムラードにとってセドマンの戦いにおける唯一の成功となった。

セドマンの戦いの終わり

 高地と砲台を手に入れたドゼー将軍は、ムラード・ベイ軍への砲撃を指示したが、ムラード・ベイ軍はすぐにあらゆる方向に逃亡した。

 地面には死体が散乱し、3人のベイと多くのカシェフが砂埃の中に横たわっており、マムルークは何百人もの負傷者を引きずっていた。

 ムラード・ベイに従っていたアラブ人(ベドウィン)達は、力を失った人々を見捨てて砂漠へと消えた。

 師団は負傷者を連れ戻し、しばらく休息し、午後3時にセドマンに向けて出発した。

 師団がセドマンに到着した時、村ではアラブ人(ベドウィン)が略奪し始めていた。

 師団はアラブ人(ベドウィン)を追い払い、荷物の一部を奪い取った。

 ムラード・ベイはファイユーム州にあるアル・ガラク(Al Gharaq)の湖の背後に撤退した。

 セドマンの戦いでのフランス軍の損失は340人であり、その内150人が負傷した。

※ナポレオン1世書簡集では、「フランス軍の損失は36人が死亡、90人が負傷した。」と記述されている。

※アル・ガラク(Al Gharaq)は、資料では「Gharah」と書かれている。Karl Baedeker (Firm)著「Egypt: Handbook for Travellers」(1898)によると、当時アル・ガラクには小さな湖が存在した。

◎1898年刊行のエジプトの旅行ハンドブックに掲載されている当時のファイユーム周辺地図

1898年以前のファイユーム周辺地図

※Karl Baedeker (Firm)著「Egypt: Handbook for Travellers」(1898)より抜粋。

※地図の左下に「Medinet Garak」と書かれており、ハート型のような湖があるのが分かる。