エジプト戦役 01:エジプトへの上陸準備 
Napoleon prepares to land on Egypt

エジプトへの途上、旗艦「オリエント」で議論をするナポレオン

※エジプトへの途上、旗艦「オリエント」で学者たち(モンジュやベルトレー等)と議論をするナポレオン。ビンガム(R.J.Bingham)画。1870年頃

エジプト侵攻に向けての軍の再編成

 1798年6月22日~23日にかけて、マルタを征服したボナパルトは旗艦「オリエント」でエジプト侵攻のために再編成を行なっていた。

 第一次イタリア遠征時から活躍しているアンドレオシー工兵少将に工兵隊から橋梁専門の部門を組織させ、自身は各師団の再編成を行なった。

 ボナパルトは軍を5個歩兵師団、1個騎兵師団に分割した。

 クレベール師団約4,900人、ドゼー師団約5,600人、ボン師団約4,700人、メヌー師団約5,200人、レイニエ師団約3,500人の5個歩兵師団と、デュマ騎兵師団約3,100騎の1個騎兵師団である。

 ボナパルトはこれらの他、ドマルタン将軍率いる砲兵師団約3,100人、カッファレリ将軍率いる工兵師団約1,200人の再編成を行なった。

 そして本部の護衛としてルイ・二コラ・ダヴー少将、ランヌ少将の部隊を任命した。

 ランヌ将軍は歩兵を、ダヴー将軍は騎兵を率いていた。

※ルイ・二コラ・ダヴーは将来のナポレオンの元帥の1人であり、「鉄の元帥(Maréchal de Fer )」、「不敗」の異名を持つことになる人物である。

 6月25日、マルタを発ってから1週間が経過した時、順調に航海をしていた東洋軍艦隊はクレタ島沖に到着した。

 翌26日、ナポリに派遣していたフリゲート艦が東洋軍艦隊と合流し、ネルソン戦隊が20日にナポリに現れてマルタに向かっているとの情報をもたらした。

 そのためボナパルトはアフリカを攻撃するかのようなルートでアレクサンドリアへ向かうよう命じた。

ネルソン戦隊のアレクサンドリアへの針路変更

 ネルソン戦隊がマルタへ向かっている途上の6月22日、シチリア島南東の先端に位置するパッセロ岬(Cape Passero)沖を航行している時、21日にマルタを出航した商船と遭遇し、「フランス軍がマルタ島を占領し、16日にマルタからシチリア島に向かって出航した。」という情報がもたらされた。

※実際のところフランス艦隊は6月16日から出航準備を始めて6月19日にマルタを出航している。そのため商戦の人達はフランス艦隊が出航準備を行っているところを見て誤認したか、資料の著者の誤記、もしくは印刷ミスだろう。

 しかし、シチリア島東側にいるネルソンはフランス艦隊とは遭遇せず、シチリア島は平穏だったためフランス艦隊の目的はシチリア島ではないことが推測できた。

 さらに強い風が西北西から吹いていたため、ネルソンは「フランス艦隊は東に針路を取った可能性が高く、フランス艦隊はエジプトのどこかの港を占領し、インドへ向かうために紅海にたどり着くことを目的としている。」と考え、フランス艦隊はアレクサンドリアへ向かっているとの確信を強めた。

 ネルソンは西北西から強い風が吹いていることもあってマルタ行きを諦め、アレクサンドリアへ針路を取った。

 6月26日、アレクサンドリアまで233マイル(約375km)の距離まで近づいたネルソンは、「ミューティン(Mutin)」を指揮するハーディ艦長に在エジプト英国総領事ジョージ・ボールドウィン(George Baldwin)へ警告の書簡を持たせてアレクサンドリアへ派遣した。

「センシブル」の拿捕とネルソン戦隊の急進

センシブルとシーホースの戦い(1798年6月27日)

※1798年6月27日に行なわれたセンシブルとシーホースの戦い。左の艦が「センシブル」、右の艦が「シーホース」。

 6月27日、18日にマルタを出航した「センシブル」がシチリア海峡でイギリスのフリゲート艦「シーホース」の船影を捉えた。

 「センシブル」はチュニジア方面に逃げようとしたが、「シーホース」はフリゲートであり、船速において「シーホース」が上回っていた。

 その距離は徐々に詰まっていき、「センシブル」は遂に捕捉された。

 大砲の応酬が開始され、「センシブル」は大きな損害を受けた。

 「センシブル」の船員達は「シーホース」に乗り込もうとしたが、すべて撃退され、その後、降伏を余儀なくされた。

 「センシブル」の損傷は激しく、砲弾による大きな穴がいくつも空いていたが、「シーホース」の損傷は軽微だったと言われている。

 乗船していたバラグアイ・ディリエール将軍は捕虜となり、「センシブル」に乗せられたマルタでの略奪品はすべてイギリスの手に渡った。

マルタでの略奪品は、その後、聖ヨハネ騎士団の駐ナポリ大使フランコーニ(Franconi)執行官に返還された。

 この時、ネルソン戦隊はアレクサンドリアから1日の距離にあり、ボナパルト将軍率いる東洋軍の艦隊も翌28日にはアフリカ大陸が見えるところにいた。

 共にアレクサンドリアを目指しているネルソン戦隊と東洋軍の艦隊は急接近していたが、海の広さに加えネルソン戦隊にフリゲート艦が無かったことも幸いし、遭遇は回避された。

 そしてこの日、ネルソン戦隊はフランス艦隊を追い越した。

エジプト上陸前のナポレオンの演説

旗艦「オリエント」の上のナポレオン(1798年)

※旗艦「オリエント」の上のナポレオン。1854年に出版された小説の挿絵。

 6月28日、ボナパルトはエジプトへの上陸の前に兵士達に対して演説を行った。

◎エジプト上陸前のナポレオンの演説

 「兵士諸君!

 諸君らはこれから征服作戦を行ないますが、その影響は世界の文明及び商業にとって計り知れないものとなります。

 諸君らはイングランドに致命的な打撃を与えることができるまで、最も確実かつ繊細な打撃を与えることになります。

 あちこちに徒歩で赴き、いくつかの戦いを行ない、あらゆる努力を成功に導きます。

 運命は我々とともにあります。

 イングランドとの貿易をもっぱら支持し、我々の商人たちを侮辱し、ナイル川の不幸な住民を圧政により苦しめてきたマムルークは、我々の到着から数日後にはもう存在しないだろう。

 (エジプトで)我々が共に暮らす人々はイスラム教徒です。

 彼らの信仰の最初は次の通りです。

 「神以外に神は存在せず、ムハンマドはその神の預言者である。」

 この信仰に矛盾しないよう行動してください。

 我々がユダヤ人やイタリア人に対して行動したのと同じように、彼らと共に行動してください。

 ラビや司教に対して敬意を抱いたように、彼らのムフティ(イスラム法学に精通した指導者のこと)やイマーム(礼拝などイスラム教における祭祀に関する指導者のこと)に対して敬意を持ちましょう。

 コーランに定められた儀式やモスク(イスラム教の寺院)に対しても、修道院やシナゴーグ(ユダヤ教の集会所のこと)、モーセやイエス・キリストの宗教に対して抱いたのと同じ寛容さを持ちましょう。

 ローマ軍はすべての宗教を保護しました。

 ここ(エジプト)ではヨーロッパとは異なる習慣があるため、慣れる必要があります。

 我々がこれから行く場所にいる人々は、女性に対して我々とは異なる接し方をします。

 しかしどの国でも強姦する者はモンスターです。

 略奪は少数の人だけを富ませます。

 しかしそれは我々の名誉を傷つけ、我々の資源を破壊し、我々が友人として持つべき人々を敵にします。

 我々が最初に遭遇する都市はアレクサンドロスによって建設されました。

 あらゆる段階でフランス人の模倣を刺激する価値のある経験をするでしょう。」


 ボナパルトはこの演説でマムルークを打ち倒し、エジプト遠征の最大の目的であるイギリスへの打撃を思い出させ、現地の宗教や民衆の生活を尊重するよう促した。

 そして6月29日、ボナパルトは兵士の武装を検査するために観兵を行ない、エジプトへの上陸準備の確認と手配を行った。

アレクサンドリアから離れるネルソンとアレクサンドリアに迫るナポレオン

 6月28日、ボナパルトが兵士達に向けてエジプト上陸前の演説を行なっている頃、ネルソンはアレクサンドリア沖に到着していた。

 しかし旧港(エウノストス港)にはトルコ戦列艦1隻、フリゲート艦4隻、他のトルコ船舶約12隻、そしてさまざまな国の船舶約50隻が停泊しているのみで、フランス艦隊の影も形も見当たらず、平穏なアレクサンドリアがあった。

 翌29日、26日に先行してアレクサンドリアへ向かわせた「ミューティン(Mutine)」を指揮するハーディ艦長と合流したが、在エジプト英国総領事であるジョージ・ボールドウィン(George Baldwin)はすでに領事を解任されて3ヶ月ほど前にアレクサンドリアを旅立っており、後任はいなかった。

 そのためハーディ艦長は目的を果たすことができず、フランス艦隊の情報も何も入手できなかったことをネルソンに報告した。

 ネルソンは「フランス艦隊はマルタから東に進んだだろう」と推測したが、アレクサンドリアへの航行中に遭遇することはなかった。

 そのためネルソンは、「フランス艦隊はマルタ島を出航した後、コルフ島かもしくはフランスの友好国であるオスマン帝国領のクレタ島やカラマニア(Caramania)沿岸方面へ向かったのだろう。」と考え、6月30日、アレクサンドリアから北に進路を取ってカラマニア方面に向かった。

 6月30日午前8時半、ボナパルトはアレクサンドリアのモスクの塔を視認し、アレクサンドリアの統治を一任されているコライム・パシャ(ムハンマド・コライム(Muhammad Koraim))に対してマムルーク朝エジプトを支配する2人の指導者であるイブラヒム・ベイ(Ibrahim Bey)とムラード・ベイ(Murad Bey)を排除する正当性を主張し、理解を求める書簡を送った。

「グランド・ミナレット」。ジョゼフ=フィリベール・ジロー・ド・プランジェ(Joseph-Philibert Girault de Prangey)撮影。1842年

※ナポレオンが視認したであろうアレクサンドリアのミナレット(モスクの塔)。「グランド・ミナレット」。ジョゼフ=フィリベール・ジロー・ド・プランジェ(Joseph-Philibert Girault de Prangey)撮影。1842年

 フランス軍の総司令官からの書簡を受け取ったコライム・パシャはすぐに救援を求める使者をカイロに派遣し、ボナパルトに「フランス人も他の国の人もこの国とは何の関係もないのだから、我々(エジプト)から離れてください。」というフランス軍の要求を拒否する書簡を送った。

 そのため翌7月1日、ボナパルトはエジプトへの上陸作戦を開始する準備を整えた。

 そしてこの日、ボナパルトはネルソン戦隊が6月28日にアレクサンドリア沖に現れてフランス艦隊を捜索し、6月30日に旅立ったことを知った。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・その他