エジプト戦役 48:イギリスとロシアの策動とカイロ周辺地域への影響力の回復
British and Russian below the surface activities

ベルベイスでの戦闘

 ボナパルトが反乱鎮圧のためにエル・アズハル・モスクへの総攻撃の準備をしている頃(10月23日)、ベドウィンは砂漠のさまざまな場所から駆けつけてベルベイスの前に集結し、攻撃を開始した。

 レイニエ将軍はあらゆるところから押し寄せてくるベドウィンを撃退した。

 この時ブドウ砲の一撃で7人が死亡したと言われている。

 そしていくつかの小さな戦闘の後、ベドウィンは姿を消した。

ムラード・ベイの動向とファイユームの状況

1798年10月24日、ムラード・ベイ軍の下エジプトへの接近

※1798年10月24日、ムラード・ベイ軍の下エジプトへの接近

 ボナパルトがカイロの秩序を完全に取り戻した10月24日、ムラード・ベイはガラクの湖の裏側から騎兵の先頭に立って移動し、下エジプトに接近しつつあった。

 ムラード・ベイが下エジプトに接近した目的は、イギリスと連絡を取り合うことももちろんだが、カイロを初めエジプト各地での反乱が起こることを知っており、あわよくば反乱に乗じてギザやカイロを取り戻すことができるのではないかと期待したのである。

 しかし、もうすでにカイロの反乱は鎮圧され、フランス軍の監視下で平穏を取り戻しつつあった。

 一方、フランスの総司令官はファイユームへの遠征の成功に満足し、この地方での馬の徴収と税の徴収を命じていた。

 そのためドゼーはファイユームの村々を回る必要があった。

 この時、ナイル川の氾濫の水は引いており、地面は乾燥して固まり始めていた。

 マムルーク朝の統治は酷いものだった。

 ジョセフ運河からファイユーム州に流れ込む水量は年々減少しており、必要性の少ない川や水無し川の堤防を閉じることによって水量を確保している状態だった。

 遺跡は何の管理もされずに山積みとなり、花崗岩のオベリスクは真ん中で折れて地面に横たわっていた。

 砂漠は拡大を再開し、村は消滅しつつあった。

 かつて栄華を誇った都市であるアルシノエ(Arsinoë)はもはや存在せず、田舎の素朴な村となっていた。

※アルシノエ(Arsinoë)とは現在の州都ファイユームのこと。

 ファイユームは過ごしやすい気候であり、ベニバナ、サトウキビ、綿の木、小麦と亜麻の畑、ブドウの木などの果樹があり、フランス兵にトゥーレーヌ(Touraine)やリマーニュ(Limagne)の肥沃な平原を思い出させた。

※トゥーレーヌは現在のアンドル=エ=ロワール県、ロワール=エ=シェール県、アンドル県でパリの南西辺りに位置している地域。リマーニュはフランス南東部にあるオーヴェルニュの山岳地帯の中央にある小さな肥沃な平野のこと。

オスマン帝国新大宰相のコンスタンティノープル(イスタンブール)への到着

トラブゾンからコンスタンティノープルまでの直線距離と周辺地図

※トラブゾン(Trabzon)からコンスタンティノープル(イスタンブール)の直線距離と周辺地図

 10月25日、オスマン帝国の新たな大宰相ユースフ・ズィヤウッディン・パシャがコンスタンティノープル(イスタンブール)に到着した。

 大宰相としての最初の仕事は、エジプトを占領しているフランス軍への対応だった。

 ほぼ同時期にエジプト総督セイド・アブー・バクル・パシャは追放され、ダマスカス総督だったイブン・アドム・アブド・ウラー(Ibn Adm Abd Ullah)が新たなエジプト総督に任命された。

 この時、ロシアはフランスを脅威に思っており、オスマン帝国に黒海とマルマラ海を繋ぎオスマン帝国の首都コンスタンティノープルのあるボスポラス海峡とマルマラ海の南でエーゲ海(地中海)へと繋がるダーダネルス海峡の艦隊通行許可をオスマン帝国の宮廷に求めていたが、オスマン帝国宮廷は様々な政治的及び軍事的理由でこれを断った。

 このことはエジプトのフランス軍にとって朗報となった。

カイロ周辺の村々への影響力の回復

 10月26日、ボナパルトの元に、周囲の村々の長老の元に、反乱軍を助けるためにカイロに来るよう書かれた書簡が届けられていたとの情報がもたらされた。

 ボナパルトはすぐにバルテルミー大尉に5個中隊と騎兵50騎を率いてカイロ周辺の10の村々を訪問するよう命じた。

 カイロの平穏を取り戻したフランス軍は周辺の村々にも捜査の手を伸ばしたのである。

 エンバベから約20㎞北に位置するエル・イクサス(El Ikhsas)村はカイロの反乱後であってもフランス軍のボートに発砲したため、ボナパルトはオマル(Omar)大尉に首謀者を捕らえるよう命じており、エル・ネギレ(El Negyleh)村とエル・ガリム(El Ghàrym)村でナイル川の航行を妨害する集会が行われているとの情報を得ていた。

※エル・ネギレ(El Negyleh)村とはロゼッタ支流沿いにある現在のアン・ネギレ(An Negeilah)のことだと考えられ、エル・ガリム(El Ghàrym)村とはダミエッタ支流沿いにある現在のエル・ガリブ(El Gharib)のことだと考えられる。

イギリス戦隊による連日の上陸作戦

 10月24日、25日、27日、28日の4日間、アレクサンドリアとロゼッタを封鎖しているイギリス戦隊(サミュエル・フッド戦隊)がデュ・ファー砦(Fort du Phare)とアブキール要塞(Fort d'Aboukir)を砲撃し、砲艦15隻と小型船舶数隻(約800人)で上陸を試みた。

※デュ・ファー砦(Fort du Phare)の"Phare"とはフランス語で"灯台"のことであり、恐らく、かつてアレクサンドリアの大灯台のあった場所にあるカイート・ベイの要塞のことを指していると考えられる。

 イギリス戦隊の上陸作戦は、ムラード・ベイやエジプトでの反乱との連携作戦であり、連携精度の低い計画の上での作戦が実行されたものだった。

 イギリス戦隊は撃退され、フランス軍はイギリスの砲艦数隻を沈没させた。

 この戦いでのフランス軍側の損失は死亡1人、負傷2人だったと言われている。

 2つの要塞への攻撃を知ったボナパルトは、ミュラ将軍にイギリス戦隊やロゼッタ周辺での反乱の様子を把握した上で適切な行動が取れるよう、アル・ラフマニーヤに向かうよう命じた。

 そしてエジプトの北岸沿いの防衛を強化した。

 エジプトの北岸沿いでのフランス軍の弱点はロゼッタとダミエッタの間のブルラス湖(Lake Burullus)周辺地域であり、イギリス戦隊はブルラス湖などを経由して食糧や水を得ていた。

 そのためダミエッタのドゥガ師団はブルラス湖に強力な偵察部隊を派遣し、ボナパルトもアブキール湾に露出している船舶をブルラス湖に避難させた。