モンテノッテ戦役 10:デゴの戦い<2日目> Montenotte campaign 10

デゴの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 14th:約11,600人
15th:約12,000人~14,000人
14th:不明だが軽微
15th:約600人
捕虜:約200人
オーストリア
サルディーニャ王国
14th:約2,700人
15th:約2,500人~4,500人
14th:不明だが軽微
捕虜:多数
15th:約600人
捕虜:約1,500人
※14thに関してはアルジャントーが戦場に到着した頃にすでに勝敗は決していたのでアルジャントーの部隊の兵力は除外

デゴの戦い(2日目)battle of Dego ( Second Day )

 ビカソヴィッチはデゴを奪い返したは良いが、現有戦力の5個大隊(約2,500人~4,500人)ではフランス軍が再度侵攻してきた場合、防衛は困難であると判断した。

 ビカソヴィッチはアックイにいるボーリューの元へ伝令を走らせ、デゴ占領の報告と強力な援軍の要請を行った。しかし、デゴの付近にはすぐに援軍に駆け付けることのできる部隊は存在しなかった。

 ビカソヴィッチは大砲を設置し、塹壕を掘り、素早く防備を固めた。もしフランス軍が再度侵攻してきたとしても、援軍が駆け付けてくるまで保持し続けるためである。

 天候は昨晩とは打って変わって快晴となった。

 マッセナはデゴを取り返すつもりでいたが、デゴのオーストリア軍についての情報は全く不明であった。どこからどれくらいの兵力で侵攻してきたことすら分からなかったのである。

 デゴがオーストリア軍の手に渡ったことを知ったボナパルトは、コッリのいるチェバの塹壕に向かっていたラハープ師団(約7,000人)に、再びデゴに向かうように命令した。そしてオージュロー師団からヴィクトールの部隊を切り離しデゴへ向かわせた。

 ボナパルトはラハープの少し前に到着し、師団を2つに分けていた。1つはカウスが左翼を担当し、オーストリア軍右翼の側面を突く。2つ目はセルヴォニが右翼を担当し右からコスタ村北の山を攻撃し占領する。中央はマッセナが担当しコスタ村北の山のオーストリア軍を攻撃する。ヴィクトールの部隊と騎兵隊は予備としてボナパルトとともに行動する。

 4月15日正午頃、フランス軍の攻撃が始まった。フランス軍右翼は最も部隊が多いが最も露出しており、砲火にさらされながら前進した。左翼のカウスはすぐに断崖に到着できた。

カウスは部隊の最後尾が先頭に追いつく前に300人ほどの部隊で山頂にある砦に向かって進軍した。先走ったカウスの部隊は至近距離での強烈な射撃を受けて倒され、カウスは右腰を銃剣で刺され致命傷を負った。それによりカウスの部隊は態勢を崩し始めた。オーストリアの部隊はこの隙を逃さず銃剣で突撃しカウスの部隊を粉砕した。

 ボナパルトは左翼の危機にヴィクトールの部隊を投入し足止めをさせ、控えている騎兵隊の後ろで粉砕された部隊の集結を始め、部隊を立て直した。

 この時ボナパルトはカウスを看取ったという逸話がある。

 フランス軍右翼はオーストリア軍の左側面を攻撃し、徐々に前進していった。

 ビカソヴィッチはフランス軍の強力な右翼を取り除くために部隊の大部分を結集させた。

 右翼のセルヴォニはオーストリア軍の主力のある山の麓に急いで行き、コスタ村東の峡谷に集まりすべての砲火を山頂の部隊に集中させた。

 この間、フランス騎兵隊はオーストリア軍の背後にある主要道路を占拠し、ビカソヴィッチの退路を遮断した。退路を遮断されてもビカソヴィッチは動揺することなく、約1時間半もの間戦い続けた。

 この時、ビカソヴィッチの視点では、フランス軍は圧倒的多数であり、現有戦力ではデゴを防衛しきることはできないことは明白だった。ビカソヴィッチは援軍を待っていたと考えられるが、15日の午前中にデゴを占領をし、正午頃にフランス軍が再度デゴに侵攻してきたことを考えると、援軍は明らかに間に合わない。ビカソヴィッチはデゴの近辺にオーストリアの部隊が存在しないことを知らなかった可能性が高い。

 一進一退の激しい攻防が繰り広げられたが、数的に劣勢なビカソヴィッチ旅団は徐々に削られていった。

 右翼のセルヴォニは峡谷を離れ、山の両側から登り、オーストリア軍に銃剣突撃をした。

 そして少し遅れてマッセナも銃剣突撃を行った。

 すでにセルヴォニの突撃によって態勢を崩しつつあったオーストリア軍は、この新たな攻撃になすすべもなかった。オーストリア兵は壊れたバッグや荷物を捨て、武器を手に持って主要道路へ向けて急いで後退した。しかし、その後退は一部フランス騎兵隊によって阻まれた。

 午後2時頃、騎兵隊は主要道路に後退してきたオーストリア兵約1,500人を次々に捕らえ、大砲や弾薬を奪い取った。退路が遮断されているにも関わらず、ビカソヴィッチは配下の部隊とともに秩序を保ち約200人のフランス兵の捕虜を連れてアックイへ撤退していった。

 その後、マッセナはデゴの北に位置するスピーニョ・モンフェッラート(Spigno Monferrato)まで進出し、対オーストリア軍の前哨基地を構築した。