ロアノの戦い 01:戦いに至るまでの両軍の状況 Battle of Loano 01
ロアノの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約25,000人 | 約1,700人 |
オーストリア サルディーニャ王国 |
約18,000人 | 約4,000人 捕虜:約4,600人 |
序章Introduction
1794年9月、最初のデゴの戦いでの勝利の後、イタリア方面軍はサヴォナまで侵攻していた。
これによりこの年、ピエモンテ・オーストリア軍は攻勢に出る意欲を失った。
翌1795年6月29日、オーストリア軍は大規模な侵攻作戦を開始した。
イタリア方面軍新総司令官ケレルマン中将はサヴォナからロアノに隣接しているボルゲット・サン・スピリット、オルメアまで後退。ロアノ、ガレッシオはピエモンテ・オーストリア軍の手中に落ちた。ケレルマンはボルゲット・サン・スピリットからクロージ・ディ・トルナッサ(Croge di Tornassa)まで強固な防衛線を張り、ピエモンテ・オーストリア軍の侵攻を食い止めた。
ケレルマンはすぐに増援が送られなければ、ニースすら保持することは危ういとフランス政府に伝えた。
フランス政府はこの状況を打破すべく、ボナパルト少将を呼んだ。
ボナパルト少将はこの時、カルノーの創設した参謀本部の役割を担っている陸地測量部 (Bureau Topographique)でイタリア方面の作戦立案を行っていたのである。
公安委員会はボナパルト少将の作戦を採用したが、10月5日のヴァンデミエールの反乱により一時的に延期した。
しかしパリの反乱鎮圧軍の副司令官に任命されたボナパルトはこれを鎮圧し、中将に昇進。「ヴァンデミエール将軍」と呼ばれるようになった。
その後、カルノーはイタリア方面軍の総司令官を新たにシェレール中将に任命し、一時的に中断された作戦計画実行のための命令書を発送した。
フランスが反攻作戦の準備を行っている中、ピエモンテ・オーストリア軍の前哨基地であるピアン・ディ・プラティ(Pian dei Prati)からクロージ・ディ・トルナッサ周辺の地点へ砲撃が始まった。この地点周辺はフランス兵から小ジブラルタルと呼ばれる難攻不落な要害となっていた。
ピエモンテ・オーストリア軍の砲撃はほとんど効果が無く、逆にフランス軍の反撃によりこの前哨基地は深刻な被害を受けた。そして、10月にピエモンテ・オーストリア軍はピアン・ディ・プラティ前哨基地を放棄し、ロッカ・バルベナまで後退した。イタリア方面軍は若干ではあるが前線を押し上げた。
ピエモンテ・オーストリア軍の防衛線は、ロアノから始まり、トイラーノ、ロッカ・バルべナ、ガレッシオを経由しコルサリアまで続いていた。
フランス軍イタリア方面軍の防衛線は、ボルゲット・サン・スピリットから始まり、モンテ・アクト、ポッジョ・グランデ、クロージ・ディ・トルナッサを経由しオルメアまで続いていた。
歴史上初の40㎞以上に渡る長大な塹壕戦が始まることになる。
イタリア方面軍の状況French military situation
第一次対仏大同盟結成時の参加国はオーストリア、南ネーデルラント(オーストリア領ネーデルラント)、グレートブリテン王国(イギリス)、ナポリ王国、プロイセン王国、サルデーニャ王国、スペイン王国であったが、ロアノの戦いの時点でプロイセン(1795年4月)、南ネーデルラント(1795年5月)、スペイン王国(1795年7月)が第一次対仏大同盟から離脱し、残る同盟国はオーストリア、サルディーニャ王国、ナポリ王国、グレートブリテン王国のみとなった。
これは朗報であったが、イタリア方面軍はすべてが不足しており崩壊は間近のように見えた。この山岳地帯での戦闘にも関わらず軍靴さえ支給できない有様だった。
イタリア方面軍の兵士たちは、包帯やリボン等を足に巻き付けて戦っていた。
食料やラバ等の輸送動物も不足していた。
ジェノヴァとの交易航路がイギリス海軍や私掠船団によって大きな被害をもたらしているため、常に物資が不足していた。
兵力に関しても、10月初旬時点でイタリア方面軍の戦闘可能な兵数は約33,000人に対して、ピエモンテ・オーストリア軍は、オーストリア軍が約30,000人、ピエモンテ軍が約12,000人、計42,000人であった。
1795年10月下旬、ライン方面軍から約6,000人、ピレネー方面軍から約10,000人の増援が到着した。
しかし、10月末時点で、病気、悪天候、小競り合い等によりこの僅かな期間に総勢5,000人以上の兵が失われた。
11月初旬、幸運にもイギリス海軍の警戒網をすり抜けたジェノヴァからの交易船が、軍靴、ビスケット、ブランデーをイタリア方面軍に届けた。
そしてフランス政府がジェノヴァから借りたラバも到着し士気は大いに上がった。
軍が形成され弾薬も配布された。
11月14日から15日の夜にすべての部隊が出発する予定であった。しかし、大雪によりすべての道が進軍不可能となり、延期となった。
もしこのまま来春まで進軍延期となった場合、イタリア方面軍は、病気、寒さ、飢えにより壊滅の危機に瀕すると考えたシェレールは大雪が収まり次第、作戦の決行を決断した。
シェレールは前哨基地を防衛する兵士を冬の宿舎に帰還させることにより、大雪も降る11月ということもあり今年の進軍は無いとピエモンテ・オーストリア軍に思わせることができるように偽装した。
様々な準備をしイタリア方面軍は雪が収まるのを待った。
ピエモンテ・オーストリア軍の状況 Piedmont Austrian military situation
ロアノ周辺~ボッサーノ周辺には大カステッラーロと呼ばれる強固な塹壕地帯、トイラーノにはシャルトリューズと呼ばれる塹壕に囲まれた強固な拠点を構築していた。
しかし、トイラーノのシャルトリューズは強固ではあるが、大規模な部隊の配置を必要とするという問題を抱えていた。
コル・スクラベイオン(Colle Scravaion)を接点とし、北はピエモンテ軍、南はオーストリア軍が配備されていた。
ピエモンテ軍とオーストリア軍の相互不信は根強く、さらに総司令官デ・ヴィンスとコッリ中将との確執もロアノ以南への侵攻を遅延させている要因だった。
デ・ヴィンスは、フランス軍が冬の宿舎へ引き上げていくのを見て、今年の侵攻は無いと判断した。ピエモンテ・オーストリア軍は通常の警戒を緩和し、前線に一部兵士を残して冬の宿舎へ引き上げた。
デ・ヴィンスは自身の健康のため、そしてコッリとの確執のため、オーストリア政府に総司令官の交代の要望を送っており、1795年11月22日にウォリスへ総司令官の職を引き継ぎ、痛風のため動けなかったピエトラを去った。
イタリア方面軍総司令官シェレール中将の偽装により今年中の戦闘再開は無いと考えて安心して後任を託したと考えられる。