モンテノッテ戦役 09:ビカソヴィッチの幸運 Montenotte campaign 09

デゴの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 14th:約11,600人
15th:約12,000人~14,000人
14th:不明だが軽微
15th:約600人
捕虜:約200人
オーストリア
サルディーニャ王国
14th:約2,700人
15th:約2,500人~4,500人
14th:不明だが軽微
捕虜:多数
15th:約600人
捕虜:約1,500人
※14thに関してはアルジャントーが戦場に到着した頃にすでに勝敗は決していたのでアルジャントーの部隊の兵力は除外

デゴの夜Night at Dego

 デゴの戦いに勝利したフランス軍。デゴのオーストリア軍を排除したはいいが、まだ西には無傷のピエモンテ軍が控えていた。ボナパルトは、メニエル師団にデゴの防衛に当たらせ、ラハープ師団にオージュロー師団への合流を命じた。ラハープ師団は息を突く間も無く、14日の内にカイロ・モンテノッテを経由しモンテゼモロ方面へと移動した。

 マッセナとその部下たちは隣村の宿にオーストリア軍が夕食をすべて残していったことを知ると、夕食にありつくために高い丘の頂上に野営した師団を去った。マッセナとその部下の幾人かは、オーストリア軍はこの暴風雨を利用して逃げるだろうと楽観的に考えていた。

 マッセナが去った後、兵士達は食料を求めて略奪のために小隊を組んで周辺の村に降りて行った。兵士は飢えており、支払われない給料、いつ来るとも分からない輜重部隊を当てにすることはできなかったのである。

 師団は急速に規律を失い、部隊は分散していき、周辺の村は隅々まで略奪を受けた。

 そして4月14日の夜、雨と寒さのためデゴのフランス軍は周辺の村の家に散らばって休息を取った。

※マッセナが向かった「隣村」だが、「マッセナの回想録」ではナポレオンと打ち合わせをするためにカイロ・モンテノッテに向かったとなっている。しかし「マルボの回想録」ではオーストリア軍が宿屋に夕食を残していった隣村に降りて行ったとのことなので、「マルボの回想録」が正しいとするならば12日よりフランス軍の勢力下にあったカイロ・モンテノッテではないことになる。

ただ「マルボの回想録」は脚色や作り話が多い為、信憑性に欠ける。そのためマッセナはカイロ・モンテノッテに向かった可能性が高い。

ビカソヴィッチの幸運Luck of Vukassovich

 4月15日早朝、ビカソヴィッチはミオーリアに到着した。ポンティンヴレーアから真っすぐ西にあるデゴではなく北のミオーリアに来た理由は、デゴの北東から攻撃をするためであった。

 デゴの東は渓谷になっており標高が低く、北東は山になっているため標高が高い。標高の低いところから高いところへ攻撃するよりも高いところから低いところへ攻撃し、フランス軍を下へ下へ追いやった方が戦いをより有利に進めることができるのである。

 ビカソヴィッチがデゴ方面へ進軍するとデゴから少し離れた場所でフランスの歩哨部隊と遭遇し、それを捕らえた。

 捕らえられたフランス兵は、デゴには20,000人の兵士がいると言ったがビカソヴィッチは信じなかった。ビカソヴィッチはアルジャントーの軍惨状と逃亡してきた兵からの情報でフランス軍は大部隊であると知っていたはずであるが、デゴに向かって行軍した。

 14日にアルジャントーと合流してデゴを防衛するのが通常の戦略であるが、ボーリューが14日ではなく翌日15日にデゴへ移動するようにと命令したのには何らかの情報を掴んだか深い考えがあるとビカソヴィッチは考えたのかもしれない。このことがビカソヴィッチの幸運に繋がった。

 ビカソヴィッチはデゴに到着すると、デゴに駐留するフランス軍の力を計るため、2個大隊をデュプイとロンドーの部隊が防衛していた高台へ威力偵察を行った。

 捕虜からの情報ではフランスのデゴ駐留部隊は約20,000人おり、この威力偵察によってそのまま攻撃を続行するかそれとも退却するかを計るのである。

 オーストリア軍襲撃の警鐘はただちにデゴの駐留部隊に広まり、メニエルは警鐘に叩き起こされ部隊を結集しようとした。ラ・サルセッテは付近の部下とともに前哨部隊の元へ駆け付けた。

 デュプイとロンドーはオーストリア軍を食い止めるためにコスタ村北の山の頂上付近で抵抗したが、2人とも負傷し後退を余儀なくされた。

 ビカソヴィッチの2個大隊が攻撃し、デュプイとロンドーが防衛していた地点はデゴの戦場で最も標高の高い山の頂上付近であり、オーストリア軍がこの地点を奪うとより標高の低い地点にいるフランス軍に対して優位に立って攻撃が可能となるのである。

 ビカソヴィッチは目下にいるフランスの部隊を高所から発見し、フランス軍の行動に規律が無く戦闘態勢に入っていないことを察知すると、先に投入した2個大隊を支援するように残りの3個大隊をすべて投入した。

 ラ・サルセッテによって形成された部隊の約半数の兵はすでに逃亡していた。マッセナが隣村から全速力で駆け付けたが、兵士達は憤怒でマッセナを迎えた。マッセナは少し動揺し彼らを結集させて戦おうとしたとき、オーストリア軍は左側から迫っており、後方から大砲を発砲し始めていた。

 マッセナは丘の上に退路を失い孤立したフランス軍の1個大隊を発見した。1人で急な斜面を手と足を使って登り、大隊の元にたどり着くと自分と同じようにすればここから離れられると伝えた。

 それから銃剣を鞘に収めるように命じ、マッセナは斜面の端にある雪の上に座り、手で自分を押して下に滑り降りた。兵士たちは笑い声を上げて同じことをした、瞬く間に大隊全てがオーストリア軍の射程外に逃れた。オーストリアの兵士はこれに驚いたという逸話がある。

 その後フランス軍は総崩れとなり、略奪による戦利品を放棄し逃亡した。マッセナはオーストリア軍の砲火の中で部隊を結集することを諦め、戦場から離れた兵を集結しようと後退した。

 デゴは再びオーストリア軍の手に渡ることになった。

※この戦闘でマッセナはデゴにおり、14日に略奪を主導し、15日の朝のビカソヴィッチの襲撃に飛び起き愛人のベッドから寝間着姿のまま逃げ回ったという逸話がある。マッセナの行動からしてありそうな逸話ではあるが、マッセナの回想録ではカイロ・モンテノッテに、マルボの回想録ではデゴではない隣村に行っていたとのことなのでデゴにはいなかったと類推できる。そのためこれは単なる逸話だろうと考えられる。

 むしろ愛人が隣にいたかどうかはともかく、デゴにいて14日に略奪を止められず、15日の朝にビカソヴィッチ旅団の襲撃に飛び起きたのはメニエル中将である。