モンテノッテ戦役 11:チェバの戦いにおけるナポレオンの計画 Montenotte campaign 11

チェバの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約7,700人 約600人
オーストリア
サルディーニャ王国
約3,500人 約270人
※ペダゲラ要塞周辺の戦いの数値のみ記載

ピエモンテへTo Piemonte

 1796年4月15日、コッリはモンテゼモロにいた。

 東からはオージュロー師団がミッレージモから西進して来ており、南からはセリュリエが北上しバニャスコを行軍していた。

 セリュリエはバニャスコの西に位置するバッティフォッロと北に位置するヌチェットを占領し、さらにオージュロー師団の左翼と連絡を取ろうとしていた。

 オージュローもルスカ少将をサン・ジョバンニを経由しモンテゼモロに向かわせることによりセリュリエ師団との連絡線を確保しようとしていた。

 このフランス軍の動きにコッリは後方を遮断されることを恐れ、モンテゼモロの前哨基地から部隊を連れてチェバに移動した。

 一方デゴでは、ボナパルトは、ボーリューがピエモンテ・オーストリア間の連絡を繋ぐ重要地点デゴを簡単に諦めるはずがないと考えていた。

 もしオーストリア軍が大挙して襲い掛かってきて、デゴ、カルカレを奪い返された場合、カディボナ、サヴォナを経由している連絡線を断たれてしまうのである。

 実際、サッセッロのオーストリアの部隊がデゴの北のスピーニョ・モンフェッラートのフランス軍前哨基地を攻撃しフランス軍によって奪われた20門の大砲や物資を奪い返していた。

 その後、オーストリアの部隊は南下しフランス軍に襲い掛かったが、4時間の戦いの後、フランス軍はオーストリアの部隊を打ち破り、ボーリューがアックイから派遣した5個大隊の増援も各個撃破していた。

 そのためボナパルトは監視を強化し、偵察部隊を派遣した。偵察部隊が帰還しオーストリア軍の気配を感じられなかったことで、ピエモンテ軍に戦力を集中することを考えた。

 ボナパルトの目は次の目標であるチェバに向けられていた。そしてフランス軍の本部をカルカレからミッレージモへ移した。

 チェバは、西はモンドヴィ、北はケラスコとサルディーニャ王国(ピエモンテ)の平野にある主要な都市と繋がっている防衛上の最重要地点であった。

 そのため、この地点には3つの要塞とその周辺を約20㎞にも及ぶ塹壕が建設されていたのである。

 特にチェバに最も近い最南端にあるベルベデーレ要塞の周辺は幾重にも塹壕が重ねられており見るからに難攻不落な様相を呈していた。

 コッセリアの古城での戦いの時の苦い経験を思い出し、ボナパルトはチェバ攻略のための作戦を立案した。

ナポレオンの作戦Napoleon's Strategy

 ナポレオンはチェバの要塞群を無力化することを考えていた。

 南からはセリュリエ師団と連携を取ることができるようになり、北東ではオーストリア軍は動きを見せていないため、マッセナ麾下のメニエル師団とラハープ師団をチェバに振り向けることができるようになったのである。

※赤い〇で囲まれているところが塹壕地帯

 オージュロー師団はチェバの要塞群に攻撃。

 デゴにいるマッセナ麾下メニエル師団はドマルタン旅団と合流し、サンタ・ジウリア、モンバルカーロを経由し、さらにカステッリーノに向かうことで チェバ ~ モンドヴィ間を遮断する動きを見せる。

 セリュリエ師団はチェバ南西の山中にあるモンバジーリオを占領することで チェバ ~ モンドヴィ間を遮断する動きを見せる。

 ラハープ師団はペダゲラ要塞北に位置するサン・ベネディットを占領し、アレクサンドリア方面のオーストリア軍を警戒する。

 ヴィクトール旅団はカイロ・モンテノッテ、サヴォナ間を警戒する。

 つまりチェバの要塞群に立て籠もっているピエモンテ軍を包囲するよう機動するのである。

 ナポレオンは包囲しようとしたのではなく、包囲する機動を見せることで撤退という選択肢をピエモンテ軍に与えたと考えられる。

 完全に包囲してしまった場合、正攻法で攻撃すればコッセリアの古城での戦いのようになることは目に見えており、兵糧攻めをするにしても時間がかかる。そしてチェバの要塞群は広いため、包囲するために多くの兵を必要とする上、フランス軍自体も食料が乏しく包囲しているにもかかわらず兵糧攻めをされてしまうのである。