サオルジォの戦い 01 戦いに至るまでの両軍の状況Battle of Saorgio 01


サオルジオの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約20,000人 約1,500人
サルディーニャ王国
オーストリア
約8,000人 約2,800人
※この数字には、セルヴォニの部隊、ムーレット師団、アルジャントー旅団、オネリア守備隊は含まれていない。あくまでサオルジォ近郊で戦った部隊の数字である。

背景 Background

 第一次対仏大同盟結成以降、フランス共和国は国内には反乱分子とそれに協力する同盟国、国外ではあらゆる方面から軍事的な圧力を加えられていた。フランス共和国は第一次対仏大同盟参加国に対して多正面作戦を取らざるを得なくなっていた。

 沿岸ではイギリス、北東ではプロイセン、南ネーデルラント、南東ではオーストリア、サルディーニャ王国、南西ではスペインと相対していた。

 1793年12月、血みどろの攻囲戦によりトゥーロンの反乱を鎮圧すると国内の反乱はまだくすぶってはいるものの沈静化の方向に向かっていた。

 ピエモンテ・オーストリア連合軍はリヨンやトゥーロンの反乱によってフランス共和国のイタリア方面軍が弱体化している隙に進軍し、オネリア周辺までを勢力下に置いた。

 これに対しフランス共和国はピエモンテ・オーストリア連合軍への反撃の機会を窺っていた。

 この時のフランス共和国の状況は、周囲の国々と敵対しているため多くの兵を必要としていたが財政的に安定しておらず、国内の兵士を養うだけの財政的基盤が不足していた。

 さらにオーストリア軍にオネリアを占領されてしまっていたためジェノヴァ共和国との貿易が脅かされ、イタリア方面軍のみならず国内の食糧事情も悪化していた。

 そのためフランス共和国はジェノヴァとの貿易を安定的なものとするため、そしてフランス革命思想の伝搬のため、反攻に打って出ようとしていた。



イタリア方面軍の状況Army of Italy

 1794年、フランス共和国においてピエモンテ(サルディーニャ王国)軍に対抗する軍勢は主にアルプス方面軍とイタリア方面軍であった。

 グルノーブル ~ トリノ間のアルプス山脈周辺地域はアルプス方面軍が担当しており、イタリア方面軍は主に ニース ~ クネオ間の山岳地帯~地中海までの範囲からピエモンテ・オーストリアと対峙していた。

 ニース ~ クネオ間の山岳地帯~地中海までが作戦範囲であるが、地中海沿岸地域以外は標高500mを超える山々が乱立しており、アルプス山脈中央部に近づけば近づくほど標高は高くなっていった。

 標高1,000mを超える山もざらであった。そのような地政学上の理由もあり、ピエモンテとの戦争は2年にわたって膠着状態であった。

 北にはタンド峠周辺にピエモンテ軍が展開しており、北西はロクビリエールからコル・デ・ラウス、ローションの山々を経由しサオルジォに至り、北東はサオルジォからシーマ・マルタを経由しモンテ・サッカレッロへ至る固い防衛線を構築していた。

 ピエモンテ軍の防衛線は防衛拠点が設けられ、それらは塹壕によって周囲を守られている強固なものであった。

 南はイギリス海軍のフリゲート艦が出没し、沿岸部や交易航路を脅かしていた。

 補給面では、ニース ~ ジェノヴァ間の穀物交易がオネリアを拠点とするイギリス海軍分艦隊やピエモンテの私掠船団によって妨害にあい食糧不足をもたらしていた。

 地中海の制海権は同盟軍の手中にあった。

 イタリア方面軍総司令官デュメルビオン中将は明快な頭脳と勇気を持つ経験豊富な軍人だったが、当時60歳と高齢であり、痛風に悩まされていた。

 デュメルビオンの前任者2人や同僚の多くが任務の失敗やその政治思想によって粛清・処刑されていた。そのためデュメルビオンは自ら積極的に軍事的行動を起こせないことがしばしばであった。

 作戦行動についても派遣議員にお伺いを立てることで保身を図っていた。

 この消極的な姿勢がデュメルビオンの生命を守っていたと同時にイタリア方面軍の本部を約2年もの間ニースに縛り付けていたのである。

 1794年当時、フランス政府がイタリア方面軍に送っていた派遣議員はトゥーロン攻囲戦でボナパルトを支持したオーギュスタン・ロベスピエールやボナパルトと同郷のサリセッティ等であった。

 派遣議員達はボナパルトがイタリア方面軍砲兵司令官として着任する以前からデュメルビオン将軍等のお伺いを聞きタンド峠方面とオネリアの攻略について話し合っており、1794年2月にフランス政府からジェノヴァ共和国領の通過を容認する許可をもらい、3月にその作戦案の実行許可が下っていた。

 そこへ3月中旬から下旬頃、ボナパルト少将がニースのイタリア方面軍本部に砲兵司令官として着任した。

 恐らく、オーギュスタン・ロベスピエールやサリセッティ等は自分達に都合の良い人材として、トゥーロン攻囲戦でともに戦い、「ボーケールの晩餐」を出版しジャコバンの思想を持つと思われるナポレオンを呼び寄せたのだと考えられる。

 イタリア方面軍の動員可能な兵数は3月末の時点で約33,000人であり、その内約9,600人が駐屯地にいた。(この33,000人にはコルシカ島遠征の12個大隊は含まれていない)



ピエモンテ軍の状況Piedmontese Armies

 1792年、ピエモンテがフランスから攻め込まれたときサヴォワ・ニースを占領されその領土を大いに減らしていた。

 自国の将軍の能力に絶望したサルディーニャ王国国王ヴィクター・アマデウス3世は、オーストリアに将軍の派遣を依頼。ピエモンテ軍司令官にデ・ヴィンスが任命された。

 これにより、ピエモンテ軍はオーストリアの指揮下に入った。

 デ・ヴィンスは痛風に悩まされており、トリノに居ながらすべての作戦を厳格に指揮しようとしたため、軍の動きは鈍くなっていた。

 軍の動きが鈍かったのは、オーストリア将校や兵士とピエモンテ将校や兵士が不仲だったため、オーストリア側とピエモンテ側で意見が合わないことがよくあり、作戦にも影響を与えていたためという側面もあった。

 そして、サルディーニャ王国がフランス共和国と和平を結ぶ動きを見せていたため、オーストリアはサルディーニャ王国を完全に信頼することはできない状況だった。

 サルディーニャ王国の市民達もフランス革命の思想に反発的ではなかったため、いつかサルディーニャ王国はフランスと手を結びオーストリアと敵対するとまで考えていた。

 ピエモンテ軍もオーストリアの将軍であるデ・ヴィンスはいつか裏切ると考えていた。

 ピエモンテ軍がオーストリア軍はいつか裏切ると考えた理由は「気にくわないから」であり、この時の情勢としてオーストリア軍がピエモンテ軍を裏切ることは考えられないだけでなく、裏切る兆候すら無かった。

 ピエモンテの将軍達が国王に絶望され、オーストリア軍の指揮下に入れられたのは、「気にくわない」という程度の理由で反発するピエモンテ軍の将軍達の能力に問題があり、尚且つ彼らのプライドが高かったか、もしくはフランスと天秤にかけようとしたことに原因があるのだろう。

 相互不信の協力状態だったが、1793年、オーストリアのイタリア方面陸軍司令官であるデ・ヴィンスはフランス共和国が南フランス諸都市の反乱(リヨン、アヴィニョン、トゥーロンなど)によりフランスのイタリア方面軍が弱体化している隙に進軍し、ピエモンテ軍と協力して地中海沿岸にあるオネリア周辺までを勢力下に置いた。

 しかしこの年の冬、大雪となりそれ以上の攻勢は不可能となった。

 ピエモンテとオーストリアは、フランスは雪が融ける前に山越えはしないだろうと考え、急いで兵力を増強するよう手配した。

 ピエモンテ軍は冬の間に防御を固め、翌年雪が融けるのを待つことになる。