ロディ戦役 12:ロンバルディアの反乱 Lodi Campaign 12
ボルゲットの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
---|
フランス共和国 | 約30,907人 | 約500人 |
オーストリア | 約17,790人 | 583人(捕虜含む) |
各師団の出発
1796年5月19日、ジュベールがミラノを出発し、メレニャーノを通りロディへ向かった。
ボナパルトは再編成したばかりの軍の組織について、さらにいくつかの変更を加えた。
キルメインの指揮下にダルマーニュ、ランヌ、ガルタンヌを加え、8個大隊、11騎兵中隊を与えた。その中でボーモントには6個騎兵中隊を与えた。
そしてメナード師団をマッセナの麾下に加えた。
5月20日、デスピノイ少将(兵力5,278人)にミラノ封鎖命令を下し、ラヌッセ少将にはジュベールの後を追わせた。
セリュリエとオージュロー師団もブレシア方面へ向かうように命じられた。
5月21日、ボナパルトは先のケレルマン中将との指揮権の分割の件で、フランス政府からボナパルト将軍の計画通りに進めるようにという内容の書簡を受け取った。
モンドヴィの戦い以降、フランス政府に対して継続的に戦利品を送っており、ボナパルトはフランス政府の財政と経済を支える「金の生る木」となっていた。
フランス政府としては例えボナパルト将軍個人の名声が高くなったとしても「金の生る木」を失うわけにはいかなかったのである。
これによってイタリア方面軍の指揮権はボナパルトに集約され、目の前の戦いに集中することができるようになった。
同日、オージュロー師団はパヴィアを出発しミラノに到着した。
セリュリエ師団はピアチェンツァを出発し、マレーオ、ピッツィゲットーネを経由しクレモナへ向かった。
22日、オージュロー師団はカッサーノ・ダッダに到着した。
23日、マッセナはクレマを越えてオッファネンゴに向かい、コドーニョにいるメナードにソレジナに向かうように命じた。
キルメインはソンチーノを経由しロナート、セリュリエはカザルブッタノ、オージュローはフォンタネッラへ向かい、本営をクレマに移した。
25日、マッセナはオリオ川の手前にあるソンチーノに移動し、メナードはブレシアの後方にあるカザーリアに移動させた。
セリュリエはクインツァネッロ、オージュローはバイテッラに移動した。
ロンバルディアの反乱
5月25日、ボナパルトはミラノを離れて軍に加わった。
ミラノ出発時の周囲のボナパルトへの態度は協力的であり、反乱が噴火に近いことを疑わせることはできなかった。
ミラノ占領時は歓迎されていたフランス軍もこの時までにロンバルディアで徴収や略奪を繰り返し、水面下で住民との関係は険悪になっていた。
ボナパルトはロディに到着するとすぐに違和感を覚えた。
ミラノを封鎖しているデスピノイからミラノの異常を知らせる書簡が届いたのである。
ミラノ及びパヴィアにおいて教会の小教区で鐘が鳴り響き、それと同時に人々はトリコロール(フランスの三色旗)を踏みにじり、共に植えた自由の木を伐採し、パヴィアでは城門の守備隊を捕らえ占領した。
ミラノではデスピノイが封鎖していたため大きな暴動になる前に鎮圧できたが、パヴィアは深刻に見えた。
この反乱は聖職者が主要な役割を果たし、革命思想に反対する派閥が加わっていた。
扇動者たちは情報が無く狂信的な農民を興奮させるために様々な噂を流した。
コンデ軍(ブルボン家が主にフランス革命から逃れた貴族の子弟を指導し組織したフランス王党派の軍)がスイスからティチノ川に現れたという噂や、60,000人の兵士によって補強されたボーリュー軍がミラノに向かっている等の噂が流れた。
実際はコンデ軍はブラウンシュバイク公カール・ウィルヘルム・フェルディナンドの下でフランスのライン方面軍と戦っており、ボーリュー軍は補強されずミンチョ川で防衛線を構築していた。
住民の反乱はパヴィア、ミラノから北に伝播しコモやヴァレーゼにまで広がり、ついにはクレモナを除くロンバルディア全州に拡がった。
もし反乱を扇動した人々にもっと時間があったとしたら、この反乱はフランス軍を脅かしオーストリア軍を迎え入れることができただろう。
この反乱は主にミラノとパヴィアが震源だったが、ミラノはマッセナ、パヴィアはオージュローに任せられており、これらの師団の略奪が過酷だったのだろうと想像できる。
ランヌ大佐によるビナスコ村での見せしめと反乱の鎮圧
ボナパルトは反乱を鎮静化させるために、約300人の騎兵隊と歩兵大隊を率いミラノに急行し、オリオ川方面へ向かわせたキルメイン麾下のランヌ率いる3個大隊、2個騎兵中隊、そして砲兵隊を引き返させた。
ミラノの反乱を鎮圧し、武装解除を行わせ、大司教、貴族に住民に対して落ち着くように働きかけさせた。
パヴィアの反乱については、ランヌを先行させボナパルトは後からパヴィアに向かった。
パヴィアに向かっている途中、ランヌは約500人~600人の農民が道を封鎖しているのを見て約100人を殺害し、残りを逃走させ、ビナスコに行進して村を焼き払った。
しかし暴動は主にパヴィアで発生しており、5,000~6,000人の農民がオージュローの残したパヴィア守備隊を捕虜にしていた。
守備隊は城に避難したが、食料が不足し降伏したのである。
ボナパルトはミラノの大司教に、反乱を起こした農民たちがフランス軍に従うように説教をするためにパヴィアに赴くよう命じた。
そして、ロンヴァルディアの住民に対して布告を出した。
その内容はビナスコ村を焼き払ったことを例に挙げ、24時間以内に武器を棄てない者たちを反徒と見做し、反徒の村や反攻する村をすべて焼き払うというものだった。
これにより周辺の小さな反乱は鎮静化に向かった。
26日夜明け、ボナパルトはパヴィアに行き、ドマルタンに命じ部隊に斧を持たせ密集隊形をとらせた。
8門の大砲の内、2門を先頭に立たせてドマルタンの部隊を支援させ、固く閉じられているパヴィアの門に攻撃を仕掛けた。
石弾や非常に激しい銃撃にも関わらず部隊は突進し、門を斧でこじ開けた。
反乱勢力は散り散りとなり地下倉庫や屋根の上に逃げ、屋根瓦などを投げてフランス軍の街への侵入を阻もうとした。
ボナパルトは反乱勢力の抵抗をものともせず街を貫通し市役所を銃撃させた。
そしてついに指導者を捕らえ反乱を鎮圧したのである。
パヴィアの守備隊が虐殺されたと思っていたボナパルトはパヴィアに火を放つつもりだったが守備隊の無事を見て落ち着きを取り戻し、人質を取って反乱の指導者を処刑することに満足した。
指導者を見せしめにし、ロンバルディアの住民を恐れさせた。これによりロンバルディアでの反乱は鎮静化に向かい、オーストリア軍の撃滅という本来の目的を再開することができるようになったのである。