ロディ戦役 05:オーストリア軍のロディ橋への撤退 Lodi Campaign 05

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約18,000人 約350人~1,000人
オーストリア 約10,000人 約150人
捕虜:約2,000人

ボーリューによるコドーニョへの攻撃の決断

 コドーニョの戦いでシュビルツが有利に状況を進めているという報告をオスペダレット・ロディジャーノでボーリューが受け取ると、ピッツィゲットーネで渡河するにしても、フランス軍と決戦するにしても、コドーニョ周辺にいるフランス軍と一戦交えなければならなかった。

 さらにボーリュー視点ではフランス軍はポー河南岸をピアチェンツァから河沿いに東進し、クレモナ以東で渡河することも可能であった。

 そのためボーリューは目の前のフランス軍を粉砕してポー河南岸に押し戻し、ピッツィゲットーネで渡河し、最短でクレモナへ行進しなければならなかった。

 この時のボーリュー視点では、シュビルツの部隊約1,600人はコドーニョで戦闘中であり有利に状況を進めているが、リプタイの所在についての報告は無い。

 リプタイ麾下には約5,000人がおり、もしフランス軍と戦って敗北していた場合、フランス軍はコドーニョとその周辺の兵力を合わせると5,000人は超えている可能性が高いと推測される。

 そしてリプタイ旅団が健在であった場合、合計するとこの地点に投入できるオーストリア軍は10,000人を超える。

 尚且つ、フランス軍は渡河途中であったため、渡河が完了してコドーニョ周辺にいるフランス軍は一部であり、隊列はピアチェンツァからコドーニョまで間延びしていることが推測できる。

 そのためボーリューはコドーニョ周辺でフランス軍と戦うことを決断した。

ボーリューによるロディ橋への撤退の決断

 ボーリューはすぐさま周辺の各部隊にコドーニョへの攻撃命令を下した。

 しかし、連絡のためにリプタイがいるであろう方向に送った士官達が一人として戻って来ず、リプタイと連携して攻撃することは極めて難しいと考えられた。

 ビカソヴィッチ、セボッテンドルフはパヴィア周辺におり、この作戦には間に合わない。

 リプタイ旅団約5,000人が攻撃計画に加わらることができなければこの攻撃計画が成功する確信が持てなかった。

 さらにフランス軍はピアチェンツァから次々と渡河を果たしており、コドーニョ周辺のフランス軍は時間とともに増加していくことは明白だった。

 最悪な事態を考えると、リプタイは粉砕されピッツィゲットーネはフランス軍の手に落ちているのである。

 ボーリューは先の攻撃命令を撤回し、ロディでアッダ川を渡り後退する決断をした。

 そしてそのことを全軍に通達した。

 この時ボーリューは、ピッツィゲットーネはフランス軍の手に落ちておりクレモナ経由でのマントヴァ要塞への道は閉ざされている可能性を考え、ブレシアを経由しペスキエーラ要塞へ向かおうとしていたと考えられる。

ピアチェンツァの休戦とミラノ総督の逃亡

 コドーニョの戦いの間、ボナパルトはメニエル師団とセリュリエ師団にポー河渡河の命令をしていた。

 そしてパルマ公フェルディナンド・ディ・ボルボーネ(フェルディナンド1世)と不可侵協定を締結し、さらに戦費の供出を要求した。

 5月9日、当時のミラノ総督は統治評議会と都市警備隊の形成を命じた後ミラノを去り、ベルガモとチロルを通ってウィーンに逃亡した。

 その際、152の大砲と十分な量の火薬を備えた約2,000人の守備軍をラミー大佐の指揮下に置き、城に残した。

 5月9日夜明け、ボナパルトはラハープの死を知るとラハープ師団の指揮権をメナードに渡した。

 マッセナは9日コドーニョへ行き指揮を執るよう命令を受けコドーニョに向かった。

ボーリューの選択

 9日正午頃、ボーリューはロディに到着し、リプタイがピッツィゲットーネを防衛していることを知るとフランス軍がクレモナにいる可能性は無いと考え、クレモナ経由でリプタイと合流しマントヴァ要塞へ後退することを決断した。

 そして、リプタイにピッツィゲットーネを暫く防衛するよう命令した。

 ここでリプタイ旅団が健在でありピッツィゲットーネを防衛していると連絡を受けたボーリューには選択肢が生まれた。

 ①ロディ橋東詰に陣を張り、アッダ川を挟んでフランス軍と決戦を行う。

 ②アッダ川に防衛線を張り、フランス軍と対峙する。

 ③マントヴァ要塞、ペスキエーラ要塞のあるミンチョ川まで後退する。

 この選択肢の中で、ボーリューはロディ橋を渡り、ペスキエーラ要塞、マントヴァ要塞があり、アッダ川の約半分の長さのミンチョ川まで後退する③を選択した。

 移動目標はクアドリラテラルの中で最大最強を誇るマントヴァ要塞である。

◎ボーリューの計画

※橋の架かっているアッダ川の渡河地点の候補は、北からレッコ、ブリーヴィオ、トレッツォ・スッラッダ、カッサーノ・ダッダ、ロディ、ピッツィゲットーネである。

 ①を選択しなかった理由の1つは、フランス軍と決戦をして勝利した場合はこの地からフランス軍を排除でき、さらに失地の一部を回復できるが、敗北して被害が大きかった場合、その後防衛する軍は少数となり、将来クアドリラテラル(Quadrilateral)と呼ばれるマントヴァ(Mantova)、ペスキエーラ(Peschiera)、ヴェローナ(Verona)、レニャーゴ(Legnago)の近代化された要塞群も容易にフランス軍の手に落ちてしまう可能性があるからだろうと考えられる。

◎クアドリラテラル(Quadrilateral)の位置

 ②を選択しなかった理由としては、アッダ川で防衛線を構築するとしても、アッダ川はコモ湖からポー河まで約120㎞ほどあり水深が浅い部分もあるため橋以外の渡河地点も多いと予想されたからである。

 渡河地点を絞り込むことは難しく、防衛ラインを長くせざるを得ないのである。すべての渡河地点を防衛することは不可能であり、後背を突かれることは明白だった。

 この②を選択しなかった理由は①にも当てはまり、ロディ橋東詰で決戦を行ったとしても、他の渡河地点から背後を突かれる可能性が高いからであろうと考えられる。

 その他、レッコからカッサーノ・ダッダまではアッダ川左岸よりも右岸の方が標高が高く防衛には不向きであったことも②を選択しなかった理由の1つである。

コッリ将軍のミラノ通過とピアチェンツァでの渡河の完了

 その頃、コッリ将軍はミラノに入城していた。

 オージュロー師団はピアツェンツァのすぐ西(カステル・サン・ジョバンニ周辺と思われる)でポー河渡河を成功させ、ランブロ川右岸にあるカーシナ・カントナーレでランブロ川を渡った。その後、フランス軍本体の正確な位置が不明だったため、フォンビオに向かい、9日午後2時頃カザルプステルレンゴに到着した。

 コッリはミラノを出発し、ボーリューがクレモナを経由してマントヴァ要塞へ後退することを知るとクレモナでの合流の時間を稼ぐために防衛部隊を分離した。そしてカッサーノ・ダッダでアッダ川を渡河し、トレビリオへ向かった。

 9日夜マッセナはコドーニョに到着すると、マレーオとコドーニョの間に2個大隊を配置し、ダルマーニュの選抜部隊と騎兵隊をカザルプステルレンゴ北西にあるゾルレスコに派遣した。同時にポー河を渡っていない2,000人を除いてメニエル師団をカザルプステルレンゴに移動させた。

 メナード師団(旧ラハープ師団)をカザルプステルレンゴからピッツィゲットーネの監視のためにマレーオへ移動させた。

 オージュロー師団はフランス軍左翼としてオスペダレット・ロディジャーノを経由しボルゲット・ロディジャーノへ向かって出発した。

 同じ頃、ピアチェンツァからボナパルトが去った。

 10日午前3時頃にカザルプステルレンゴに到着したボナパルトは、さらにダルマーニュのいるゾルレスコに向けて出発した。

 午前4時頃、メニエル師団の最後の部隊がピアチェンツァを去り、未だ渡河していないのはセリュリエ師団のみとなった。

ロディ橋へ

 5月10日午前9時頃、ゾルレスコにいたボナパルトはロディに向かって後退しているオーストリア軍を発見した。

 ボナパルトはオーストリア軍の本体がロディ橋の後ろにあると考え、川を逆上ってカッサーノ橋を渡るよりもボーリューがいるであろうロディ橋でオーストリア軍を撃破して渡る方を選択した。

 フランス軍がクレモナ以東でのポー河渡河を選択しなかったのは、もしかしたら、ボーリューと対峙している今、パルマ公国とも敵対することを避けるためという事情があったのかもしれない。

 さらに言えば、ボナパルトはアッダ川はいつでも渡河できる自信があり、ミラノを手中に収めることを優先したのだろう。

 現状、アッダ川を渡河したとしても後背には4つの強力な要塞があり、それらを攻略するためにはミラノ周辺一帯を支配しなければならないと考えられるからである。

 この時ボナパルトは、ボーリューの本体がロディ橋左岸で待ち受けている可能性が高いと考え、ボーリュー率いるオーストリア軍本体をロディで撃破できたとしたら後ろに控えている4要塞攻略もやりやすくなると考えたのではないだろうか。

 しかしゾルレスコで発見したオーストリア軍は、サンタンジェロ・ロディジャーノからロディへ向けて後退途中であるビカソヴィッチ少将率いる後衛部隊であり、ボーリュー率いる本体は味方の後退を支援するためにロディに約10,000人の部隊をセボッテンドルフ少将麾下に置いて分離し、クレマを行進していた。

 セボッテンドルフの任務は、ロディを経由するオーストリアの部隊すべての後退を支援し、可能であればロディの物資の回収をすることだった。

 セボッテンドルフは高い壁に囲まれているロディの町を占領して防衛することは考えておらず、サンタンジェロ・ロディジャーノからロディ橋を渡ろうとしているビカソヴィッチ旅団を支援するために、アッダ川左岸ロディ橋東の袂に布陣した。

 アッダ川右岸にあるロディの町にはロッセルミニ少将率いる1個大隊と2個騎兵中隊(合計909人)を派遣し、ティッチーノ川下流から急いで後退してきたビカソヴィッチ旅団の支援を行おうとしていた。

 ボナパルトはダルマーニュの選抜部隊にロディへ向かうオーストリアの部隊への攻撃を命じた。