ロディの戦い 06 Battle of Lodi 06

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

ビカソヴィッチの道程と考察Vukassovich's Journey and Consideration

 5月8日午後10時のコドーニョの戦い時点でのオーストリア軍の最後尾はテルドッピオ川とティッチーノ川の間にいたビカソヴィッチ旅団であり、ロディまでの距離は約40㎞だった。9日夜時点でのビカソヴィッチ旅団の位置はパヴィアからサンタンジェロ・ロディジャーノの間だった。行軍速度とセボッテンドルフの位置からおおよそコピアーノ、ヴィガルフォ辺りだったのではないかと推測される。この推測が正しければロディまで残りおおよそ22㎞ほどとなる。最前線から最後尾のビカソヴィッチ旅団までの連絡の時間を含めると1日ほどで約18㎞を2個大隊を率いて移動したこととなる。

 セボッテンドルフはこの間パヴィアからサンタンジェロ・ロディジャーノまでの約20㎞を行軍している。

 ちなみに例えばフランス軍のダルマーニュの選抜部隊はストラデッラからピアチェンツァまで約32㎞を7日未明から夜明けの間(約4~6時間)に行進しているし、ラハープはトルトナからカレンダスコまでの約64㎞を6日に出発し7日夜明け(おおよそ24時間)までに移動している。

 このことから、オーストリア軍の行軍速度はフランス軍に比べて圧倒的に遅かったと考えられる。

 10日午前9時にビカソヴィッチ麾下の最後の大隊がサンタンジェロ・ロディジャーノを出発した。そしてダルマーニュの選抜部隊とともにゾルレスコいるボナパルトに発見された(ナポレオンに発見されたのはビカソヴィッチ旅団の前衛部隊か後衛部隊かは不明である)。ゾルレスコからロディまでは約16㎞、サンタンジェロ・ロディジャーノからロディまでは約12㎞。約4㎞ビカソヴィッチの方が早い。

 実はこの時点で不思議な点があり、ナポレオンはゾルレスコでサンタンジェロ・ロディジャーノからロディに向かっているビカソヴィッチ旅団を発見したのだが、実はオージュローが向かっていたボルゲット・ロディジャーノはゾルレスコとサンタンジェロ・ロディジャーノの丁度中間地点にある。オージュローが見つけていないはずが無いのである。

 可能性としては、オージュロー師団はその時点ではボルゲット・ロディジャーノに到着していなかった。もしくは、到着していたが、何らかの理由で周囲を偵察する余裕さえなかったかである。

 もしボルゲット・ロディジャーノに到着していなかったとしたら、何か問題があったか、どこかで寄り道をしていたかもしれない。ちなみに、ゾルレスコからサンタンジェロ・ロディジャーノまでは約17㎞、ボルゲット・ロディジャーノからサンタンジェロ・ロディジャーノまでは約7㎞である。

◎位置関係と距離

 そしてもう一つ不思議な点は、サンタンジェロ・ロディジャーノやサンコロンバーノ・アル・ランブロ含むランブロ川以西にオーストリア軍の残存部隊が存在する可能性があるため偵察を行う必要があったのだが、ナポレオンはジェニングス騎兵中将(Kilmainとあだ名されており、資料にはKilmainと出てくるので、今後、キルメインと記載する)にランブロ川以西の偵察を一任し、ボルゲット・ロディジャーノにいるオージュローにはカザルプステルレンゴ方面へいったん戻り、ロディへ向かって北上するように命令しているとある。(ボルゲットに留まっていたという資料もある)

 チャンドラーのナポレオン戦争のロディの戦いの図ではオージュローはカザルプステルレンゴ(フォンビオ方面)からロディへの道を北上している。

 ピッツィゲットーネにいるリプタイはメナード師団が監視しており、フォンビオやカザルプステルレンゴは今まで通過してきた道である。ピアチェンツァにはセリュリエ師団が向かっており、このカザルプステルレンゴ、フォンビオ周辺には脅威はないはずである。

 軍の行動的には、ボルゲット・ロディジャーノにいるオージュローがビカソヴィッチ旅団の後方(パヴィア方面)を偵察しつつビカソヴィッチ旅団を追跡するほうが効率がいい。

 これは私見ではあるが、ボルゲット・ロディジャーノに留まっていたという方が正しいのではないのだろうかと思う。理由は軍の行動的に効率的では無いからである。

 オージュローは何らかの理由でビカソヴィッチ旅団を発見できなかったのではないのだろうか。寄り道、略奪、疲労等々が考えられる。

 もしオージュロー師団が一旦カザルプステルレンゴへ戻ってロディへ北上したのであれば、何か問題があったか問題を起こしたか(略奪にふけっていた等)ではないだろうか。まあどちらにしても可能性として略奪は外せない。

 この事もビカソヴィッチにとっては幸運だった。オージュローがボルゲット・ロディジャーノに留まって動かないにしても、一旦カザルプステルレンゴへ移動したとしても、ボルゲット・ロディジャーノにいてビカソヴィッチ旅団を追撃となった場合、追いつかれてしまうからである。

 ロディの町は3つの門と高い壁に囲まれており、ロッセルミニ少将麾下909人がビカソヴィッチ旅団の到着を待ち構えていた。そしてロディ橋の向こうにはセボッテンドルフ麾下約9,000人が布陣している。

 ロディの町に入り長さ約200m、幅約8mある橋を渡り切りさえすればビカソヴィッチ旅団の安全は確保されると考えられた。

 ビカソヴィッチ旅団とフランス軍のロディでのアッダ川渡河を巡る競争が始まった。

ロディの町の見取り図とロディ橋の構造Map of Lodi and Lodi bridge structure

 ロディの町は周囲を高い城壁によって囲まれており、ミラノへ通じる「王家の門」(Porta Regale)、パヴィアへ通じる「パヴィア門(Porta Pavia)、クレモナへ通じる「クレモナ門」(Porta Cremona)がそれぞれの主要道路上に配置されており、アッダ川方面には「アッダ門(Porta Adda)」が配置されていた。ミラノへ通じる「王家の門」の背後にはヴィスコンテオ城がある城塞都市だった。

◎ロディの都市計画図(1753年)

◎1753年の都市計画図を参考にした地図

※赤いーが城壁、赤い〇が門

 この計画図を現代の地図に当てはめるとこのようになると考えられる。

 資料には高い城壁の記載はあるが星形堡塁の記載は無いので、星形堡塁は計画倒れになった可能性がある。

 次にロディ橋についてだが、アーチ型をしており、長さ約200m、幅約8mで、57の橋桁で支えられていた。

 その内31の橋桁は水中で支えられ、5の橋桁は附属的な支柱であり。残りの21の橋桁は陸地の上で支えられていた。57の橋桁の内、3分の1以上である21の橋桁が陸地の上で支えられていたというのは重要な情報である。というのは、5の附属的な支柱を含めなければと単純計算で約80mが陸地部分であり、附属的な支柱を含めると約74mが陸地部分となるからである。推測ではあるが、附属的な支柱というのは地盤の関係等で補強が必要な地点は通常の長さの橋桁と橋桁の間に補強として追加された橋桁ではないだろうか。そう考えると単純計算で約80mが陸地部分、残りの約120mが川の部分となる。

 それを裏付けるように1753年の都市計画図のロディ橋も左岸(オーストリア軍防御側)に架かっている陸地部分が多い。

 現在のロディ橋は全長約175mであるので、ロディの戦い当時の木造の橋は約25m全長が長く、現在よりも55mほど左岸の陸地部分が多かったと考えられる。

 さらにマッセナの回想録では「橋の3分の1で兵士達が左岸が浅いことに気付いた」とあり、砂の中州に滑り降り腰まで水中に浸して戦った記述があるので、川の深い部分は約60m、川の浅い部分は約60m、砂地含む左岸の陸地部分は約80mほどだったのではないかと推察される。

 もしマッセナがこのロディの戦いを美化するならこの記述は省いた方がいいはずであるので、正確である可能性が高い。

 当時のマスケット銃の有効射程は30m~50mほどであったが、火薬や銃弾が十分であれば何発に一発当たればいいという発想で100m超の距離からでも発砲していたことを考えると、もし左岸の最前部にオーストリア軍が配置されていた場合、橋を渡った瞬間くらいから銃撃を受けることになる。

 フランス軍が橋を渡り始めてか70mほどでオーストリア軍のマスケット銃の有効射程範囲に入りフランス軍の被害が増大する。

 もちろん大砲についてはロディの町まで届くので橋においても有効である。特に至近距離でのブドウ弾やキャニスター弾は脅威である。

※ブドウ弾・・・帆布製の袋へ子弾(小さい弾)を複数入れ発砲する散弾。砲身の大きさによって子弾の大きさも変化する。帆布製の袋へ入れる子弾の数は標準は9発である。子弾の代わりに帆布製の袋にボルトや鉄屑などを入れて代用することもできる。通常弾に比べて射程距離が短いため至近戦闘用である。主に対艦用

 ブドウ弾はナポレオンがヴァンデミエールの反乱(ヴァンデミエール13日のクーデター)で王党派を中心とした勢力に対して使用していることで知られている。

※キャニスター弾・・・ブリキ缶へマスケット銃弾を数百発詰め込んだ砲弾。主に砲兵の至近戦闘のための砲弾。このキャニスター弾もブドウ弾と間違えて呼ばれることがよくあった。恐らく、ボルトや鉄屑を入れて発射することがあったからだろうと考えられる。対人用

 ブドウ弾・キャニスター弾ともに有効射程はおおよそ30m~40mほどである。