ロディ戦役 14:ボルゲットの戦い開始前の状況Lodi Campaign 14
ボルゲットの戦い
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約30,907人 | 約500人 |
オーストリア | 約17,790人 | 583人(捕虜含む) |
ボルゲットの戦い前のフランス軍の機動と翻弄されるオーストリア軍
1796年5月28日、ロディから先はヴェネツィア共和国の領土であったため、フランス軍はヴェネツィア共和国に配慮しつつ進軍しなければならなかった。
ボナパルトはブレシアにて全軍にその旨を通達した。
マッセナがモンテキアーリに到着すると、そこにはいくつかのオーストリア騎兵隊が駐留していた。
マッセナ師団の前衛はモンテキアーリのオーストリア騎兵隊を難なく倒し、村の前に駐留した。
マッセナ師団には偵察に適した部隊の人数が少なかったため、十分な偵察ができなかった。
マッセナは偵察に必要な騎兵隊とその他に砲兵隊を要求したが、ボナパルトはミラノから到着したばかりの1個歩兵大隊のみをマッセナの元に派遣した。
マッセナ師団がモンテキアーリに駐留している間、キルメイン師団はロナートからカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレに進軍した。
セリュリエ師団はメッツァーネ・ディ・カルヴィザーノに行軍し、駐留しているオーストリア軍を追い出しモンテキアーリにいるマッセナと連絡を取り、カステルヌオーヴォへ向かった。
オージュローはデゼンツァーノに進軍し、ボナパルトは本部をカルチナートに移した。
5月29日、ボナパルトはキルメインにカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレを出発しソルフェリーノを経由してボルゲットに向かうよう命令した。
オージュロー師団はロナートへ移動した。
カスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレからミンチョ川までは100mから200m級の山々が広がっており、それをカーテンとして直前までフランス軍の動きが察知され難いようにしたのである。
◎28日~29日のフランス軍の機動
これらフランス軍の機動から、キルメイン師団に先にボルゲットを攻撃させ、他の3師団はその後にボルゲットに到着するように計画していたことが分かる。
そしてこのフランス軍の機動に最も驚いたのがボーリューである。
28日の時点でフランス軍右翼はメッツァーネ・ディ・カルヴィザーノにおり、フランス軍はペスキエーラ要塞で渡河するつもりであると判断し、ペスキエーラ要塞方面に軍の重心を置く命令をしたばかりだったにもかかわらず、その後カステルヌオーヴォに配置していた騎兵隊からフランス軍発見の連絡が入ったのである。
フランス軍の狙いが判明せずオーストリア軍司令部は慌てふためき、指示が二転三転しオーストリア軍は混乱をきたした。
ボルゲットの戦い前のオーストリア軍の配置
5月30日、オーストリア軍はボナパルトが誘導したように渡河目標地点であるボルゲットから引き離されていた。
リプタイ旅団歩兵約3,800人、騎兵約650人はヴェネツィア共和国が所有しているペスキエーラ要塞を使用し、さらにその後方に位置するカステルヌオーヴォ・デル・ガルダで右翼を形成した。
そして一部をチロル方面へ派遣していた。
中央はセボッテンドルフが指揮し、麾下にはニコレッティ旅団とピットーニ旅団があった。
ニコレッティはカンパニョーラにあり歩兵約2,000人、騎兵約560人を率い、ピットーニ旅団はヴァレッジョ・スル・ミンチョを歩兵約2,000人、騎兵約1,240人で防衛していた。
ゴーイトを防衛しているコッリは、ルカヴィナ旅団歩兵約2,600人、騎兵約400人、マントヴァ守備隊約12,000人で左翼を形成した。
予備は右翼と中央の中間に位置するオリオジに7個大隊、10個騎兵中隊(合計約4,500人)で宿営し、メラス中将が指揮をした。
※メラス中将は後に、1800年6月14日に行われたマレンゴの戦いでナポレオンと決戦することとなる将軍である。