シリア戦役 57:一時休戦の提案とシリアからの撤退の決意
Proposal for a temporary ceasefire and decision to withdraw from Syria
ランヌ将軍の師団長への昇進と攻撃の限界点
1799年5月10日、ボナパルトはフランス政府にランヌ旅団長を師団長にするよう要求する書簡を送り、同日、ランヌ将軍を師団長に任命した。
ランヌ将軍は5月8日に受けた首の傷がまだ癒えておらず、しばらく復帰できそうになかったがイタリアとエジプト、そしてシリアでのランヌ将軍の勇敢さに報いたのである。
その後ランヌ将軍は奇跡的に回復したが、その生涯を通じて頭を少し左肩の方に傾ける癖が残ったと言われている。
この時のシリア遠征軍は将校が足りず、ペストが蔓延し、士気は低下していた。
カファレッリ将軍はすでに死亡し、ボン将軍は致命傷を負っており、多くの将校が死亡し負傷していた。
後方を警戒するクレベール将軍や参謀長であるベルティエ将軍でさえ攻撃隊の指揮官として狩り出されていた。
この時点で健在な師団長は参謀長であるベルティエ将軍を除くとクレベール将軍とレイニエ将軍のみだった。
ナポレオン率いるシリア遠征軍はあらゆる面で攻撃の限界点を迎えようとしていた。
2度に渡るシドニー・スミス将軍暗殺の試み
1799年5月10日の戦いでアッコ軍は城壁と突破口を占領され抵抗は失敗に終わったように見えた。
しかし、この抵抗は決定的な効果をもたらした。
フランス軍の熱意は削がれ、塹壕線に放置された腐乱した死体たちが再び突破口を開くことを拒絶したのである。
この時、ボナパルトはシドニー・スミス将軍を暗殺するために暗殺者をアッコの町に侵入させていた。
しかし2度に渡る暗殺の試みは失敗することとなる。
シドニー・スミス将軍にはボナパルトが、前進すること以外に行動原理を持たないように見え、野望の目的を達成するためにはどんなことでもするように見えた。
そして、たとえ町を占領することに成功したとしても、船の砲火によってすぐに追い出されることは誰の目にも明らかだったはずだと考えていた。
アッコ軍はヤッファの虐殺のことを知っていたため女や子供さえも犠牲にし、必死に自衛した。
一時休戦の提案とアッコ軍の9度目の出撃
1799年5月11日朝、ボナパルトはジェザル・アフマド・パシャに書簡を送った。
悪臭を放つ死体の処理と捕虜交換のために休戦の使者を派遣したのである。
アッコ側にとっても腐乱した死体は病気の原因として放置しておくわけにはいかなかった。
実際、病気の初期症状が発症した多くの兵士が錯乱状態で死亡していた。
ジェザル・アフマド・パシャはこの提案に応じ、会談が行われることとなった。
しかし、アッコ要塞側からの砲撃は継続され、フランス軍側もそれに応じて反撃した。
アッコ側が回答を検討している間、突如としてフランス軍が一斉砲撃を仕掛け、これがアッコ側の攻撃を誘引する合図となった。
アッコ軍は攻撃命令を受け入れる準備ができていた。
5月13日、同じ使者がアッコ要塞に送り返されて町に入ったが砲撃は続いていた。
この時、フランス軍の応戦準備は整っていなかった。
夜7時頃、大砲の音を合図にアッコ軍が総出撃を開始した。
しかし激しく撃退され要塞内に撤退して行った。
シリアからの撤退の決意
包囲開始以来、フランス軍は甚大な損失を被っていたが、アッコ要塞での争いは日々その損失をさらに増加させていった。
1,000人の兵士を失うことなく都市を陥落させることは不可能だと考えられた。
シリアでは疫病が恐ろしい勢いで蔓延し、すでに700人のフランス兵が命を落とし、スールで集められた報告によると、アッコ市では毎日60人以上が亡くなっているとのことだった。
ペストはアッコ守備隊に猛威を振るい、フランス軍を感染から守る術はなかった。
もしフランス軍が攻囲を継続し、アッコ要塞を襲撃すれば、さらに1,000人の兵士がペストで失われるだろうと予想された。
エジプトからの報告書もエジプトの情勢が不安定化していることを示していた。
カイロや他の主要都市ではわずかな動きだけで平穏が乱されることはなかったが、ベニ・スエフ州、シャルキーヤ州、ブハイラ州では平穏は破られていた。
ブハイラ州ではコーランに予言されている天使エル・マフディー(圧制の後に正義を取り戻す統治者という意味)を名乗る者が率いる反乱軍がアレクサンドリアのマルモン将軍と和平条約を締結したばかりだったにもかかわらずダマンフールに残っていた60人のフランス兵を奇襲し虐殺していた。
これらの事柄も重要な要因ではあったが、ボナパルトに包囲解除を決意させたのは13日にフランス本国の情勢に関する新たな情報を得たことだった。
フランス本国の危機とエジプト脱出の思考
ボナパルトは4月にフェリポー大佐と塹壕で会談した時に対仏大同盟が第1次の時よりも強力になり結成されたことを知った。
ペレー少将はナポリを出港する船と交信し、フランス軍がナポリに侵入して国王を追放し、ナポリ共和国を樹立したことを報告した。
そして5月13日、ロードス島軍とイギリス軍捕虜の供述から、ヨーロッパで宣戦布告が行われたこと、そしてフランス軍がナポリに入城したことが明らかになった。
ボナパルトには、この南イタリアへの進軍の結果が悲惨なものになること、そしてナポリに駐屯する30,000人~40,000人のフランス軍がアディジェ川で敗走することが容易に予見できた。
ボナパルトの眼前に新たな情勢が展開しつつあった。
フランス政府は例え連合軍に敗北を喫したとしてもエジプトに封じ込められている東洋軍のことは視界に入らないだろう。
シリア、ガリラヤ、パレスチナはもはや重要ではなくなっていた。
フランス本国に帰還することが重要だった。
この時、大西洋はイギリス艦隊によって支配されておりアブキール湾の海戦では多くの艦船が失われていた。
そのため東洋軍をフランス本国に帰還させることは現実的ではなかった。
しかしシリア遠征軍をエジプトに帰還させてエジプトの支配を継続できれば、ボナパルトは東洋軍を離れ、イギリス地中海艦隊が支配する海を抜け、フランス本国へ帰還することができるのである。
ボナパルトはこの時から少人数でのエジプトからの脱出を明確に考え始めた。
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