シリア戦役 38:マニャーノの戦い【イタリア戦線】
Battle of Magnano
マニャーノの戦い前の両軍の状況

※1799年4月4日、マニャーノの戦いでのシェレール将軍の攻勢計画"
1799年3月26日~30日に行われたヴェローナの戦いで敗北して以降、イタリア方面軍総司令官シェレール将軍の状況は悪化の一途を辿っていた。
ローゼンベルク将軍麾下のヴィカソヴィッチ旅団がブレシアに迫り、サン・ジュリアン旅団がリヴォリに到達し、クレナウ将軍率いる騎兵隊がポー川に現れオスティリア(Ostiglia)を襲ったためオスティリア周辺地域のフランス守備隊はフェラーラに逃亡していた。
イタリア方面軍は第2次ヴェローナの戦いでの兵力減少による数的劣勢、後方連絡線の遮断、そして後方攻撃の危険に晒されていた。
この時シェレール将軍は大雨によって進軍が遅れているスヴォーロフ元帥率いるロシア軍が接近してきていることを察知していた。
そのためシェレール将軍はロシア軍が到着する前に戦いに勝利する必要を感じており、ヴェローナを占領することによって兵士の士気を回復させオーストリアの包囲を緩めることができると考えていた。
シェレール将軍の計画はアルバレード(Albaredo)とカルピ(Carpi)周辺地域に架橋部隊を派遣してアディジェ川を渡河し、ヴェローナやレニャーゴの背後を脅かすといいうものだった。
シェレール将軍は40艘の平底船を用意してアディジェを渡ろうとしたが、大雨による増水でこの計画を断念せざるを得なかった。
4月3日、シェレール将軍は「ヴェローナのオーストリア軍は翌4日にも左翼への攻撃を始めるだろう」と考えていた。
そのため遠く離れた地域にいるグルニエ師団とデルマス師団に他の師団と合流すべく強行軍をせよと命じた。
※この時デルマス師団はサングイネット周辺地域にいたが、グルニエ師団がどこにいたのかの記述がない。グルニエ将軍はセッティモでの会議にも出席できないほど遠くにいたためヴィラフォンターナのヴィクトール師団よりも遠くにいたことは間違いない。恐らくオッペアーノ(Oppeano)やイーゾラ・リッツァ(Isola Rizza)辺りにいたのではないかと考えられる。
グルニエ将軍とデルマス将軍は4月4日夜明け前にシェレール将軍の命令を受け取り、進軍を開始した。
4月4日、シェレールは本部のあるイーゾラ・デッラ・スカーラを出発してモロー師団の本部があるセッティモに赴いた。
※セッティモ(Settimo)はブッタピエトラとヴィガージオの間にある小さな村である。
そして長い行軍をする必要があるグルニエ将軍及びデルマス将軍を除く全将軍を召集して会議を開き、ヴェローナを正面から攻略する計画を承認した。
ヴィラフォンターナ周辺地域にいるヴィクトール将軍とグルニエ将軍率いる右翼はサン・ジャコモへ進軍し、モロー将軍が統率する左翼のモンリシャール師団はブッタピエトラから、ハトリー師団はカステル・ダッツァーノ(Castel D'Azzano)から出発し、モンリシャール師団はスクーデルランド(Scuderlando)に到着後サン・マッシモを目指し、ハトリー師団はソンマカンパーニャとサン・マッシモを目指すこととなっていた。
デルマス将軍率いる師団はサングイネット(Sanguinetto)を出発した後ブッタピエトラでモンリシャール師団と交代し、その後ドッソブオノに移動してモロー師団、あるいはヴィクトール師団とグルニエ師団を支援することになっていた。
ヴィガージオ(Vigasio)周辺地域にいるセリュリエ将軍指揮下の左翼はヴィラフランカに向かって進軍してこれを占領し、北上してアディジェ川に接近するという計画だった。
この計画は左翼と中央でアディジェ川からミンチョ川の間のオーストリア軍を排除しつつ中央と右翼でヴェローナに接近するというものであり、成功すれば再びヴェローナを占領するチャンスを得られるというものだった。
一方、ヴェローナを守るクレイ将軍率いるオーストリア軍は第2次ヴェローナの戦いで勝利して以降、アディジェ川を越えてカステルヌォーヴォを占領し、ペスキエーラ要塞東側を封鎖していた。
そして主力はヴェローナの正面に陣取り、ツォプ(Zopf)将軍率いる右翼はサンタ・ルチア、カイム将軍率いる中央はトンバ(Tomba)、メルカンディン将軍率いる左翼はサン・ジャコモに布陣した。
ホーエンツォレルン前衛旅団はツォプ師団を支援し、ルシニャン将軍率いる13個大隊からなる大後衛部隊は、特定の場所に縛られることなく不測の事態に駆けつけて窮地に陥った勢力を支援する態勢を整えていた。
クレイ将軍の意図は右翼を押し進めてフランス軍左翼を圧迫して包囲し、イタリア方面軍本部のあるイーゾラ・デッラ・スカーラを占領することだった。
そのため4月3日~4日にかけてツォプ将軍麾下のゴッデスハイム師団をソーナとソンマカンパーニャに前進させ、7,000人~8,000人の部隊をヴィラフランカ周辺地域にまで進出させた。
そして4月5日午前10時にフランス軍への攻勢を開始することを決定し、各師団に伝達した。
デルマス師団及びグルニエ師団の遅れと攻撃開始時間の延期
4月5日、昨日サングイネット周辺地域から出発したデルマス師団は15時間の行軍にもかかわらずブッタピエトラに到着しておらず、グルニエ師団の行軍も悪路により大幅に遅れていた。
デルマス将軍は4日夜~5日未明に落馬し、第1次ヴェローナの戦いでの傷口が再び開いたにもかかわらず師団の指揮を執り続けていた。
天候はひどく、風は激しく吹き荒れ、雨は降り続き、道路は水浸しで通行不能だった。
この地域の新しい地図が軍内に無く古い地図を使用することを余儀なくされた上、地元民からの情報も乏しかった。
そのため生垣と沼地に続く小道に遮られたマントヴァ平原で道に迷ってしまったのである。
シェレール将軍の計画では、攻撃は午前6時から開始されることとなっていたが午前11時に延期された。
そのためセリュリエ師団、モンリシャール師団の出発は午前10時に開始されることとなった。
カステル・ダッツァーノのハトリー師団の出発時間の変更は無く、午前6時に出発し僅か1.5㎞先にあるスクーデルランドで砲撃を開始した。
右翼のラルドンでの合流と左翼の出発
朝、ヴィラフォンターナを出発したフランス軍右翼ヴィクトール師団はラルドン(Raldon)に到着し、グルニエ師団もようやくヴィクトール師団と合流を成し遂げた。
両師団は午前10時になってラルドンから移動を開始した。
午前10時、モンリシャール師団がスクーデルランドに向かって出発した。
同時にセリュリエ師団がヴィガージオからの出発を開始した。
セリュリエ師団はポヴェリアーノ(Povegliano)を占領すると2個縦隊に分割し、第1縦隊(左翼)をヴィラフランカに、第2縦隊(右翼)をドッソブオーノに向かわせた。
その後、セリュリエ師団はヴィラフランカを占領することはできたがドッソブオーノで敗北し、結局ヴィガージオへの撤退を余儀なくされた。
モロー師団の前進とメルカンディン師団との交戦
午前11時、モロー将軍はスクーデルランドを制圧すると、ソンマカンパーニャに進出するためにドッソブオノに進軍することを決定した。
右翼のヴィクトール師団とグルニエ師団は4個縦隊に分かれてラルドンから北に進軍し、午前11時にポッツォ(Pozzo)でメルカンディン師団との交戦を開始していた。
この時、デルマス師団の行軍が大幅に遅れていたため左翼のモロー師団と右翼のヴィクトール師団との間に空間が空くこととなった。
この空間にはデルマス師団が進軍してくる予定となっていたが、デルマス師団は未だブッタピエトラを目指して進軍していた。
メルカンディン師団の敗北とデルマス師団の前線への到着
正午頃、メルカンディン師団が敗北し、撤退を強いられた。
この時の戦闘でメルカンディン将軍は致命傷を負い戦線離脱を余儀なくされた。
メルカンディン将軍は約1週間後の4月13日に死亡することとなる。
メルカンディン師団に勝利したヴィクトール師団とグルニエ師団は前進し、グルニエ師団はサン・ジョバンニ村を占領して前進し、ヴィクトール師団はサン・ジャコモ村を占領した。
その頃、デルマス師団の先頭の大隊がようやくブッタピエトラに到着し始めた。
しかし数的優位のカイム師団が前進し、正面からデルマス師団の先頭と接触した。
休憩、軽食、装備の調整、そして雨に濡れたライフルへの装填を終えたデルマスの兵士たちは、カイム将軍率いる師団に接近した。
デルマス師団は数的優位の敵に展開を妨げられ、特に右翼側で苦戦を強いられた。
しかしデルマス将軍はブッタピエトラの前でオーストリア軍の突撃を阻止し続けた。
この攻撃はデルマス師団だけでなく、ドッソブオノで戦っているモロー師団にも影響を及ぼすものだった。
モロー将軍はデルマス師団の遅れをカバーするためにサンタ・ルチア方面から来るツォプ師団に対処することを余儀なくされ、ドッソブオノでの戦闘で苦戦を強いられた。
当初の計画ではドッソブオノにはデルマス師団が進出してくるはずだった。
モローは計画を変更し、モンリシャール将軍にツォプ師団を押し戻してサン・マッシモへ前進するよう命じた。
その間にハトリー師団でドッソブオノを占領しソンマカンパーニャとソーナに向かうことが目的だった。
デルマス師団の前進とセリュリエ師団の再攻勢
デルマス将軍はブッタピエトラに師団のすべての兵力を結集できなかったにもかかわらず勇気をもって冷静に対応し部隊を機動させ続けた。
その結果、午後2時までに師団の全部隊を集結させ、カイム師団によるブッタピエトラへの攻撃を全て撃退し、シェレール将軍とともにマニャーノに進軍した。
この時の戦いでデルマス将軍は前線で数回にわたる激しい突撃を行い、1,200人以上の捕虜と大砲5門を獲得したと言われている。
午後3時、セリュリエ将軍は再び攻勢を開始してイーゾラ・アルタを奪還し、ヴィラフランカでカラチャイ(Andreas Karaczay)将軍率いるクロアチア旅団によって進軍を阻止されゴッデスハイム師団との戦闘になった。
ルシニャン将軍率いる予備軍の出撃
午後4時頃、クレイ将軍は反撃を開始した。
ルシニャン将軍率いる予備軍をデルマス師団及びヴィクトール師団に向けて出撃させ、クレイ将軍とシャステール(Chasteler)将軍率いる縦隊でサン・ジョバンニを攻撃したのである。
ヴィクトール師団は衝撃を受けてラルドン方面に後退し、サン・ジョバンニのグルニエ師団も攻撃を受けて前衛を失い、ラルドンへの撤退を余儀なくされた。
その後、ルシニャン将軍率いる予備軍はヴィクトール師団を追跡しつつデルマス師団の正面を攻撃し、シャステール将軍率いる軍はグルニエ師団を追跡しつつデルマス師団右翼を襲った。
午後5時だった。
この時、既にカイム将軍率いる師団はデルマス師団に撃退されていた。
デルマス将軍は新たに現れたルシニャン予備師団の猛烈な攻撃の衝撃を恐れることなく受け止めた。
この時、デルマス将軍は脚の傷口が開いたことによる熱病に倒れ、よろめきながらも鞍につかまり、兵士たちに勝つか死ぬかの決断を促し、鼓舞した。
デルマス将軍が現れた場所では戦線は長期間にわたって崩れることなく持ちこたえ、そこにいるだけで、その部隊の敗北の時を遅らせた。
その後、デルマス師団はブッタピエトラまで押し戻されたが、戦闘は継続していた。
モロー師団のドッソブオノ占領とセリュリエ師団のヴィラフランカ占領
午後5時過ぎ、モロー将軍はドッソブオノを占領することに成功すると、モンリシャール師団のパルトゥノー(Partounneaux)旅団にドッソブオノの防衛を一任してハトリー師団をソンマカンパーニャとソーナ(Sona)へ向かわせた。
夕方、ドッソブオノでの敗北を知ったゴッデスハイム将軍はすぐにヴィラフランカを放棄しソンマカンパーニャに撤退した。
その後、セリュリエ師団はヴィラフランカを占領した。
モンリシャール師団のヴェローナ要塞前への集結とオーストリア軍による攻勢の失敗
夕方、モンリシャール師団はサン・マッシモ要塞前に集結していた。
クレイ将軍はモンリシャール師団と戦っているツォプ師団とホーエンツォレルン旅団を支援するためにソンマリーヴァ(Hannibal Marquis Sommariva)大佐率いる予備軍を前進させ、ザッハ(Anton von Zach)大佐率いる歩兵大隊をヴェローナから出陣させ、サン・ゼーノ要塞前面にいるモンリシャール師団左翼の側面を攻撃した。
午後5時過ぎ、ソンマリーヴァ予備隊はドッソブオノを攻撃した。
しかし、ドッソブオノはパルトゥノー旅団が堅固に守っていたため攻撃は撃退され、ザッハ将軍によるサン・ゼーノ要塞前のモンリシャール師団左翼側面への攻撃も失敗に終わった。
この時点ではモロー師団とセリュリエ師団がオーストリア軍に対し優勢に戦局を進めている一方で、フランス軍右翼は危機に立たされていた。
フランス軍右翼の退却行
ヴィクトール師団がラルドンを越えてヴィラフォンターナ方面に逃亡している時、ラルドンから約2㎞離れた運河の背後でグルニエ師団が反撃の準備を整えていた。
オーストリア軍がラルドンを越えて現れた時、グルニエ将軍は運河の背後から激しい砲撃を開始した。
このグルニエ師団の撤退支援によりヴィクトール師団本体はマッツァガッタ(Mazzagatta)を通り抜けることに成功した。
※マッツァガッタ(Mazzagatta)は現在のマッツァンティカ(Mazzantica)。
その後、グルニエ師団も退却戦を繰り広げながらイーゾラ・デッラ・スカーラに向かって撤退した。
この時ブッタピエトラにいたシェレール将軍は、オーストリア軍の砲撃がデルマス師団の右後方へ広がっていくのを感じたためヴィクトール師団とグルニエ師団が退却したのだと察知した。
しかし、デルマス師団は正面と右側面からの攻撃にほぼ手一杯であり、シェレール将軍の元に右翼へ派遣することができる兵力は残っていなかった。
シェレール将軍にできることは右翼の退却を庇うために右後方に部隊を展開させることのみだった。
午後6時頃行われシャステール将軍による追撃はシェレール将軍が展開させた部隊に足止めされたためグルニエ師団への追撃は緩慢なものとなった。
しかしシャステール将軍はヴィラフォンターナでヴィクトール師団の退却を遮断するためにヴァレーゼに部隊を迂回させた。
モロー将軍への撤退命令
シェレール将軍はこれらの間にモロー将軍に3人の士官を派遣していたが、彼らは戦死するかモロー将軍の元にたどり着くことができなかった。
しかし、参謀長ミュニエ(Musnier)少将がモロー将軍の元に到着し、午後6時頃に帰還することに成功した。
ミュニエ将軍によると、モロー将軍は常にオーストリア軍を押しながらヴェローナ近くまで前進したとのことだった。
ヴィクトール師団とグルニエ師団は敗北してイーゾラ・デッラ・スカーラに向かって撤退中だったため、シェレール将軍は再びミュニエ将軍を派遣してモロー将軍に夜の間に3個師団(モンリシャール師団、ハトリー師団、セリュリエ師団)をヴィガーシオに撤退させるよう命じた。
デルマス師団のイーゾラ・デッラ・スカーラへの撤退
午後7時、デルマス将軍の周囲はルシニャン予備師団の砲火に2時間も晒され続け、参謀と護衛騎兵が倒れた。
デルマス師団の砲兵隊は何度もルシニャン将軍麾下のラターマン旅団を押し戻したが、数的優位の敵を前に敗北は時間の問題だった。
モロー師団は距離が遠すぎであり、ヴィクトール師団とグルニエ師団は敗北して撤退していた。
周囲にデルマス師団を支援できる部隊は存在しなかった。
夜が更けようとしている頃、シェレール将軍がイーゾラ・デッラ・スカーラへの撤退を命じた。
ルシニャン予備師団も疲弊しており、デルマス師団を追撃する余力は残されていなかった。
デルマス師団の撤退は秩序正しく実行され、ブッタピエトラの占領はルシニャン予備師団ではなくカイム師団に任された。
その後、シェレール将軍とデルマス将軍は激しい雨の中、イーゾラ・デッラ・スカーラの本部に帰還した。
モロー師団のヴィガージオへの退却
日が落ちて戦闘が停止するとモロー師団は野営しつつ撤退準備を行った。
モンリシャール師団は午後9時半頃に冷たい激しい雨が降ったこと以外、サン・マッシモ前で問題なく野営することができ、ハトリー師団は静かに撤退を開始した。
ハトリー師団とモンリシャール師団、セリュリエ師団は追跡されることなくヴィガージオに撤退することに成功した。
夜、シェレール将軍はヴィガージオに赴いてモロー将軍と会った。
その時モロー将軍は「もし状況を知っていた場合、自分だったら翌日(7日)の夜明けに後退する方が好みだ」と言った。
しかしシェレール将軍としてはモロー師団を包囲の危機に陥らせるわけにはいかなかったため、追撃が弱まる夜の退却を指示したのである。
ピジョン将軍の死
一方、ヴィクトール師団はオーストリア軍に追跡されながらヴィラフォンターナを経由してイーゾラ・デッラ・スカーラ(Isola della Scala)方向に撤退している最中だった。
ヴィクトール師団のほとんどはヴィラフォンターナを通過することに成功したが、後衛であるピジョン旅団はヴァレーゼ(Vallese)を占領したオーストリア軍が先にヴィラフォンターナを占領し旅団の退路を遮断しているのを発見した。
ピジョン将軍は、即座に銃剣で町を占領するよう命令を下したが、攻撃は撃退された。
この失敗に兵士たちは取り乱し、ピジョン将軍や将校たちの命令を聞かずに隊列を崩し、部隊を鼓舞しようとした将校たちを殺害して逃走を開始した。
その瞬間、ピジョン将軍は銃弾に倒れ、致命傷を負った。
ピジョン将軍は第一次イタリア遠征を戦い抜いた優秀な将軍だったが、ヴィラフォンターナの地で味方の誤射と思われる銃弾に倒れた。
その後、ピジョン旅団は降伏した。
※ピジョン将軍の死にはもう1つの説が存在する。それは「旅団の兵士たちはヴィラフォンターナが占領されているのを発見したため一発も発砲することなく武器を地面に置いた。しかしピジョン将軍は銃を拾い上げ、敵の隊列を割って退路を開こうとした。その結果、ピジョン将軍は致命傷を負った。」というものである。
タルタロ川での防衛線の構築
夜の間、クレイ将軍はカステル・ダッツァーノ、ブッタピエトラ、ヴァレーゼの範囲に戦線を敷き、撤退して行ったフランス軍の動きを見張った。
4月5日夜から6日未明にかけて、シェレール将軍はデルマス師団、ヴィクトール師団、グルニエ師団にタルタロ川の背後に陣取るよう命じた。
タルタロ川を利用して防衛線を構築しようとしたのである。
ヴィクトール師団の一部は夜が明けてもまだイーゾラ・デッラ・スカーラに到達できておらず、オーストリア軍の追撃によって最低限の秩序すら維持できていなかった。
しかし、ようやく師団の残りもイーゾラ・デッラ・スカーラに到達し、タルタロ川の背後に陣取ることに成功した。
シェレール将軍がイーゾラ・デッラ・スカーラに行くと、デルマス師団が戦闘配置につき、ヴィクトールとグルニエ師団はドゥエ・カステッリ(カステルベルフォルテ)及びカスティリオーネ=マントヴァーノへの退路を守っていた。
この時、ヴィラフランカはオーストリア軍の手に落ちており、このタルタロ川の防衛線もヴィラフランカ側から退路を遮断される可能性が高いため、すぐにさらなる撤退を余儀なくされるだろうと考えられた。
マニャーノの戦いの後
オーストリア軍左翼はヴィラフォンターナとイーゾラ・デッラ・スカーラの間にあるカザルベルゴ(Casalbergo)を占領し、一部の哨戒部隊をイーゾラ・デッラ・スカーラまで進軍させた。
オーストリア軍右翼はヴィラフランカ方面からフランス軍の退路を脅かした。
4月7日、シェレール将軍は軍をより集中して布陣させるために2個師団にミンチョ川を渡らせ、残りの4個師団は、モリネッラ運河に防衛線を構築し、右翼をサン・ジョルジュに、左翼をモリネッラ(Molinella)運河の水源(当時、モリネッラ運河はポッツォーロ(Pozzolo)でミンチョ川と繋がっていた)に置いた。
※恐らく左翼はチッタデッラに本部を置いてポッツォーロやカスティリオーネ・マントヴァーノ周辺地域でモリネッラ運河を防衛し、右翼はサン・ジョルジュに本部を置いてカステルベルフォルテやカステル・ダーリオ周辺地域でモリネッラ運河を防衛していたのだろうと考えられる。
同時にナポリ方面軍のマクドナル将軍に対し、各地に守備隊を残して軍を集結させ、最初の命令でトスカーナへ向かって出発できるように準備するよう命令を出した。
この撤退の際、ヴェローナの戦い後から戦いのドラムを鳴らし続けていたヴィクトール将軍は「デルマスの遅刻が敗北の原因だ」と、自分の不運のすべてを責任転嫁し、愚痴をこぼし続けた。
デルマス師団のようにルシニャン予備師団の攻撃にヴィクトール師団とグルニエ師団が耐えれば良かったのにもかかわらずである。
ヴィクトールの言葉は同胞からデルマス将軍に伝えられ、デルマス将軍の特徴である残忍さと精神的な率直さをもって的確に疑問が投げかけられた。
「それでは、殴られた時だけ音を立てるこの男の内に、いつまでも戦いのドラムが宿るのだろうか?」
マニャーノの戦いにおけるオーストリア軍の損害は死傷者約2,000人、捕虜約3,000人であり、フランス軍の損害は死者と捕虜の合計約3,500人、負傷者約5,000人だったと言われている。
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