シリア戦役 20:ソウハマの戦いとドゼー師団によるアシュートの再占領
Battle of Souhama

ムラード・ベイ軍の北上とドゼー師団による追跡の開始

1799年2月下旬、ムラード・ベイ軍の北上とドゼー師団による追跡【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年2月下旬、ムラード・ベイ軍の北上とドゼー師団による追跡

 ムラード・ベイ軍はナイル川左岸側を下り、左岸側のフランス部隊から隠れつつ右岸側のクスにいるドゼー本体を追い越した。

 これを知ったドゼー将軍は、エルフィ・ベイ軍のアシュート近郊での活動やオスマン・ベイ軍やヤンブーのハッサン軍の動向を踏まえ、彼らはアシュートで合流するつもりなのではないかと考えた。

 そのため、これらの敵軍を各個撃破することを目的として部隊を集結させつつムラード・ベイ軍を追跡することを決断した。

 そしてムラード・ベイ軍を追ってアスワンから下ってきたベリヤード将軍に、エスナに400人の守備隊を残してヤンブー守備隊やクイタのマムルーク軍の動きを注意深く観察しつつナイル川を下るよう命じた。

※資料ではエスナでの戦闘後、ムラード・ベイはナイル川左岸側を下って行き、ギルガの横を通り過ぎたとされている。しかし、左岸側ではギルガにモランド大佐率いる1個大隊が、ファルシュートにフリアン旅団本体が駐留している。そのため、ムラード・ベイは、エスナから北に逃れた時、砂漠に入りサマヌード周辺に出た可能性も考えられる。

ソウハマの戦い

1799年3月4日、ソウハマの戦い【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年3月4日、ソウハマの戦い

 1799年3月2日、ドゼーはクスを出発し、3月3日に小帆船「イタリア軍」と弾薬を積んだ数隻の船、そして多数の大砲を引き離して先にファルシュートに到着し、フリアン旅団と合流した。

 小帆船「イタリア軍」は負傷者、病人、第61半旅団の弾薬、武装した兵士を運んでいた。

 3月4日、ドゼーはフリアン旅団を前衛として、ムラード・ベイがエルフィ・ベイと合流する時間を与えないよう急いでアシュートに向かって進軍した。

 この時、ムラード・ベイ軍はモランド将軍率いる1個大隊が駐留しているギルガの近くを通過中に無数の農民を召集した。

 そしてフランス軍が動き出すとすぐに戦闘準備を整え、ソウハマ(Souhama)の前で臨戦態勢を取った。

 これら農民はマムルークによって指揮されており、フランス軍から数リーグ(1リーグ≒4㎞)離れたところにいた。

※古地図を調べたがソウハマ(Souhama)村を見つけることができなかった。発音の近い村はギルガから約4~7㎞北西にかつて存在したと思われるソワバ(Sowabah)村である。フランス軍は、ドゼー師団本体がファルシュートにおり、前衛のフリアン旅団はギルガにいた。ファルシュートからギルガまで約40㎞、ファルシュートからソハグまで約70㎞であり、ムラード・ベイはギルガの近くを通過している。そのためソウハマはギルガとソハーグの間の川沿いのどこかだろうと考えられ、ソワバである可能性は非常に高い。

 フリアン将軍はムラード・ベイ軍と農民たちを発見するやいなや、旅団を3つに分割して包囲機動を取り、砂漠への退路を遮断した。

 ムラード・ベイ軍と農民たちの内の1000人は一瞬の内に殺されるか溺死するかし、残りの者たちは困難をともないながら逃亡し、銃弾の雨の中を退却した。

 フリアン将軍はこの戦いで1人の兵士も失わず、その後、馬の主人たちが泳ぎ去らせた馬50頭を捕獲した。

ドゼー師団によるアシュートへの追撃

 3月5日、ドゼー将軍はムラード・ベイ軍を激しく追跡し、その姿を捉えた。

 しかしムラード・ベイはドゼー師団の姿を見るとわずか150人の兵士を連れてリビア砂漠の小さなオアシスのあるエル・ロウ(El Louah)に向かうことを決意した。

※エル・ロウ(El Louah)はエル・ワウ(El Wah)のことだと考えられる。エル・ワウはハルガ・オアシス(Kharga Oasis)周辺地域のことである。ソウハマの戦い後の追撃で、ムラード・ベイはリビア砂漠へと撤退しており、その後、ファイユームに現れている。ハルガ・オアシスからは、ダクラ・オアシス、ファラフラ・オアシス、バハレイヤ・オアシスを経由してファユームへ行くことができる。

 他の者たちは砂漠の奥深くに入り、その後、アシュートに向かった。

 ドゼーの計画通り、ムラード・ベイ軍はエルフィ・ベイ軍との合流前に各個撃破され、散り散りとなったのである。

アシュートの再占領

 ソウハマの戦いでの敗残者たちがアシュートに到着してエルフィ・ベイ軍と合流するとすぐにドゼー将軍もアシュートの前に到着した。

 ドゼー師団が接近するとエルフィ・ベイはナイル川右岸へ渡り、再びアフミームの小さなオアシスに戻って行った。

 ムラード・ベイ配下の指揮官たちはオスマン・ベイ・シェルカウイ(Osman-Bey Cherkaoui)に従ってエルフィ・ベイと同様にアフミームに向かった。

※オスマン・ベイには、オスマン・ベイ・ハッサンとオスマン・ベイ・シェルカウイがいるようである。

 他の人々はベネアディ(Bénéadi・・・現在のBani Adi Al Baharyyah)の上の砂漠に身を投じ、飢餓に苦しんだ。

 そのため多くの人が脱走し、アシュートに来た。

 アシュートに来なかった者たちは村に隠れ、生きるために武器を売り払った。

 その後、彼らはフランス軍に加わった。