シリア戦役 24:ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト
Bonaparte Visiting the Plague Victims of Jaffa

クレベール師団の前進とデュマ将軍の突出による損失

 1799年3月9日にヤッファの北4㎞のところにあるナハル(Nahar)川周辺の陣地を撤収して北上しメスキの森に向かったクレベール将軍は、山岳地帯に偵察隊を派遣し、アブドラ・パシャ軍の前衛と遭遇し、いつくかの戦闘を行なった。

 その内の1つの戦闘では、デュマ将軍が戦闘に深入りし過ぎて何人かの兵士が死亡し、重傷を負った。

※体調が優れずホームシックのデュマ将軍がシリア遠征に参加したのは、シリアと小アジアを征服し、コンスタンティノープルを占領し、フランスに帰るというナポレオンの構想を聞いたからだろう。

伝染病への対処と将軍達の不安

 3月10日、病院の組織は不十分であり、組織化のペースも非常に遅かった。

 しかし、負傷者と熱病患者は別々のモスクに収容され、熱病患者の隔離はしっかりと行なわれていた。

 そのため病院に収容された熱病患者たちがこの疫病に襲われた、最初で最後の人々だった。

 ボン将軍は、部隊と軍隊に米だけを与えるようボナパルトに提案した。

 しかし軍医デジュネットはボン将軍の提案を承認しなかったため、却下された。

 ボン将軍は、師団が沼地の端に野営していたことを懸念して陣地の変更を要請し、野営地を引き払う際に兵舎を焼き払う処置を行なった。

※沼地や湿地は病気を発症しやすいことを経験的に知っていた。ボン将軍はイタリア戦役にも参加しており、マントヴァ要塞での惨状をしっていた。

 夕方になって、デジュネットはボン将軍の元に行き、将軍や師団の司令官たち、階級の異なる数人の将校たちに取り囲まれた。

 彼らは戦闘での死を恐れずに生きることに慣れてはいるが、ベッドで死を待つことは受け入れられない人達だった。

 そのためデジュネットは彼らを安心させるような口調で話しをした。

ナポレオンによる病院の視察

「ヤッファのペスト患者を訪問するボナパルト1799年3月11日(Bonaparte Visiting the Plague Victims of Jaffa)」。アントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros)画。1804年。縦:5m、横:7mの大作。

※「ヤッファのペスト患者を訪問するボナパルト(Bonaparte Visiting the Plague Victims of Jaffa)」。アントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros)画。1804年。

 3月11日、ボナパルトが側近を引き連れて病院を視察した。

 将軍は負傷者と熱病感染者が収容されている2つの病院を訪問し、ほぼすべての兵士と話をし、適切かつ迅速な組織作りのあらゆる細部に注意を払うのに1時間半以上を費やした。

 ボナパルトは狭く非常に雑然とした部屋にいることに気づいた。

 そして膿瘍を起こした横痃が開き汚れた兵士の醜い死体をぼろぼろの服で持ち上げるのを手伝った。

※横痃とは、両足の付け根のリンパ節が炎症を起こして腫れたもののこと。

 デジュネットは総司令官を玄関まで送り届けようとした後、これ以上長く滞在しても無駄になるばかりだと彼に理解させた。

 デジュネットは伝染病の可能性も考慮してボナパルトを早く患者から離そうと促したのだと考えられる。

 デジュネットのこのような行動にもかかわらず、総司令官の長期滞在にもっと正式に反対しなかったことについて、軍内での不平を止めることはできなかった。

伝染病のレイニエ師団への広がり

 3月11日、デジュネットはラムレの病院を担当する外科医ブッセナール(Boussenard)から書簡を受け取り、レイニエ師団、特に第9戦列半旅団で病気が発生したことを知らされた。

 その症状は、ひどい頭痛、極度の疲労感、分泌物の消失、舌に黄色っぽい粘液が付着、嘔吐の衝動、股間や脇の下に腫瘍ができ、しばしばせん妄状態になることだった。

※せん妄とは、病気などが原因で一時的に意識障害や認知機能の低下が起こる状態のこと。

 ブッセナールは様々な処置を施したが上手くいかず、サポートが不十分だと不満を言い、デジュネットにアドバイスを求めてきた。

 この伝染病はヤッファの前で始まり、感染者は発症から5日目~6日目、あるいはもっと早くに亡くなることが多かったため、デジュネット等軍医たちは自分たちの置かれた立場の危険性を無視することはできなかった。

 しかし、噂や信仰が人の心に悪影響を及ぼすことがあることを知っていたため、デジュネットは「疫病」という言葉を使用しなかった。

 デジュネットとしては、これからは気候も良くなっていき、ヤッファを離れる計画だったため、より良い野営地と豊富で質の良い食糧に期待していた。

 そして、このような状況では、その病気が極めて深刻なときに致命的な伝染病であることなどを公表することは無益であり、非常に危険な病人として扱う必要があった。

 尚且つ、デジュネットはこの病気の感染性について確信が持てなかったため、参謀総長ベルティエに「疫病」であると公表せず、患者を重病人として扱う方が良いことを伝えた。

 ベルティエはデジュネットへの尊敬ではなく政治的動機によって同意しように、デジュネットには見えた。

 レイニエ師団でも伝染病が発症したと知ったボナパルトは、3月14日、レイニエ将軍にラムレにいる病人全員をヤッファへ避難させるよう命令した。

 加えて、レイニエ師団もヤッファに向かい、その後、6日分の食糧を持ってボナパルトの後を追うよう命じられた。