シリア戦役 19:ガザでの休息と港湾都市ヤッファへの進軍
March on Jaffa
ガザでの休息
ガザは海から約2㎞離れたところに位置しており、海岸への上陸には困難を伴う地形であり、港も船着き場もなかった。
街は周囲約8㎞の美しい高地にあった。
かつてガザの街は強固な防御を誇っており、アレクサンドロス大王によるガザ包囲戦の時、大王もなかなか勝利できず重傷を負ったと言われている場所である。
しかし、ナポレオンによるシリア遠征時のガザは人口3,000人~4,000人の3つのみすぼらしい村の集まりとなっていたが、ガザ平原には美しい村が数多くあり、豊かでオリーブの森に覆われ、多くの小川が流れていた。
フランス軍はガザの街の周りの果樹園に野営し、強力な別動隊で高地を占領した。
1799年2月26日深夜、突然、雷鳴が轟き、空には稲妻が走り、激しい雨が降った。
およそ1年ぶりの雨に兵士達は喜びの声をあげ、「雨、それはフランスの気候だ!」叫んだ。
しかし、最初の1時間が過ぎると、雨宿りをする場所もなく、兵士達は疲れ果てた。
谷はすぐに洪水になり、総司令官は野営地を果樹園からヘブロンの高地に移した。
フランス軍は砂漠での疲労を回復するために4日間休息した。
※休息日が4日間と記述されているのはナポレオンの回想録であり、ベルティエの回想録では2日間の休息と書かれている。恐らくナポレオンは2月26日、27日、28日、3月1日を休息日と考え、ベルティエは2月27日と28日を休息日と考えたのだろう。
エジプトからガザまでの約250㎞のほとんどは砂漠で覆われており、非常に過酷な行軍だった。
水は汽水(海水が混ざった水)の時があり、食料が不足していたため犬やロバ、ラクダさえ潰して食べた。
そのため、このガザで兵士たちの疲労を回復させる必要があった。
※現在のヨーロッパでは犬食は前時代の野蛮な食文化と見做されているが、当時のフランス人にとって犬肉は食料が不足しているときの代替食だった。実際、普仏戦争(1870~1871年)時のパリでは約4ヵ月続いたパリ包囲のために市内で食料が不足し、代替食として犬肉を扱う精肉店が立ち並んだと言われている。1845年12月2日にフランス初の動物保護協会がパリにできて啓蒙活動を行っていたにもかかわらず、食料不足の時、パリの民衆たちは空腹に打ち勝つことができなかったのである。ただ、これらは非難されるべきことではないだろう。
ガザ周辺は豊かな土地であり、食料は豊富で良質だった。
しかし空は雲で覆われ、地面は粘土質であり、兵士の靴がすぐに傷んでしまった。
その後も雨は3月中旬まで降り続いたと言われている。
ボナパルトは2月26日にカイロのドゥガ将軍宛てに書簡を送っている。
「我々は膝まで水と泥の中にいます。今の季節はパリと同じ寒さ、同じ天気です。あなたはカイロの美しい太陽の下でとても幸せです。」
ジェザル・アフマド・パシャの呼びかけ
アブドラ・パシャ軍が敗北してガザを失ったことを知ったジェザル・アフマド・パシャは、ナブルスの民衆、サイード、アレッポの各都市に使者を派遣した。
武器を持ったイスラム教徒を集めるために多額の資金が支払われ、布告の中で異教徒と戦うよう命じた。
そして、「フランス人はほんの一握りに過ぎない。彼らには大砲が不足しているが我々には強力なイギリス軍の支援がある。ボナパルトとその軍隊を殲滅するには自ら姿を現すだけで十分だ。」と呼びかけた。
この呼びかけは効果があった。
ナブルスでは民衆が、ダマスカスでは軍が武器を持って集結を始め、モーグラビン家が占領しているティベリアス(Tabarié)の砦にかなりの物資が運び込まれた。
後日、ボナパルトはこれらの状況を地元のキリスト教徒から知らされることとなる。
ライン方面のフランス軍とオーストリア軍の強度
2月末、ドナウ軍総司令官ジュールダン将軍は約38,000人の兵力でカール大公率いるオーストリア軍と対峙していた。
オブザベーション軍総司令官ベルナドット将軍ジュールダン将軍の統率下にあり、約10,000人の兵力でドナウ軍の左側面を守っていた。
カール大公軍は3つの主要軍団から構成されており、1つ目はバイエルン、2つ目はライン川沿い、(バイエルンとライン川沿いの兵力は、歩兵33,000人、騎兵35,400騎)そして3つ目はイン渓谷と南チロル(歩兵44,000人、騎兵2,600騎)に展開していた。
これら主力軍団は、77個歩兵大隊と226個騎兵中隊、歩兵77,000人、騎兵38,000騎を擁していた。
完璧な武装と装備を備えたこれらの部隊は、優れた機動力を発揮した。
歩兵大隊は欠員の無い完全な戦力であり、騎兵は数が多く馬も揃っており、砲兵は完璧な整備と操縦を備えていた。
カール大公が率いる軍は士気が高く、内向的で真面目と言われるオーストリア人特有の気質とは異なる熱意を持っていたと言われている。
ジュールダン将軍とカール大公の計画は類似していた。
カール大公はジュールダン将軍率いるドナウ軍がマッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍と合流するのを阻止しようとし、ジュールダン将軍はカール大公軍がホッツェ将軍率いる軍と合流するのを妨害しようと計画していた。
しかしライン方面の戦力は圧倒的にオーストリア軍の方が優勢であり、戦いの行方はジュールダン将軍の戦術と統率力に委ねられることとなった。
スイス方面のフランス軍とオーストリア軍の強度と配置
マッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍は約26,000人の兵力を擁していた。
ヘルヴェティア軍右翼はルクルブ(Lecourbe)中将が指揮し、マイノーニ旅団とともにアイロロ(Airolo)からティチーノ(Tessin)渓谷、ムエラ(Muera)とブレニョ(Blegno)の渓谷に広がり、グラウビュンデン(Grisons)州との連絡路をカバーし、ベッリンツォーナ(Bellinzona)とグラヴェドーナ(Gravedona)でイタリア方面軍左翼と合流し、ロイゾン(Loison)旅団はサン=ゴタール(Saint-Gothard)峠からアルトルフ(Altorf)に至るロイス(Reuss)渓谷にまで展開した。
中央は、最近軍に入隊したばかりのメナード少将が峡谷間に広がるデモン(Desmont)旅団、ロルジュ(Lorge)旅団、シャブラン(Chabran)旅団を指揮し、各旅団はシュヴィッツ(Schwitz)とグラールス(Glaris)の境界からアッペンツェル(Appenzell)とザンクト・ガレン(Saint-Gall)の境界まで広がり、この師団の前哨基地はライン川沿い、ボーデン湖に至るまで配置された。
左翼はルビー(Ruby)旅団とウディノ(Oudinot)旅団で構成され、ザントライユ(Xaintrailles)師団長の指揮下、ボーデン湖とバーゼルの間のライン川を守り、ドナウ軍との連絡を維持することになっていた。
一方、オーストリア軍は駐屯地をヘルヴェティア軍の近くに移動させていた。
カール大公指揮下のホッツェ(Hotze)中将は18個大隊と7個中隊、歩兵約16,000人、騎兵1,400騎を率いてフォアアールベルク州からブレゲンツに向けて軍の主力を押し進め、大公軍と合流していた。
そして残りの部隊と共にモンタファン(Montafun)またはイル(Ill)渓谷の出口を見下ろすフェルトキルヒの要塞化された陣地に陣取っていた。
この渓谷はチロル地方とエンガディン(Engadine)地方に直接通じていた。
チロルではベルガルド伯爵が歩兵44,000人、騎兵2,600騎の軍を指揮していた。
フランスによるオーストリアへの宣戦布告とライン川の渡河
3月1日、兵力差がおよそ2倍あるにもかかわらずジュールダン将軍はドナウ軍を、ベルナドット将軍はオブザベーション軍率いてライン川を渡り、マッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍にも6日にはボーデン湖周辺地域へ進出する計画を伝えていた。
3月2日、バーゼルとストラスブールの近くでライン川を渡ったドナウ軍はほぼ抵抗無く南ドイツに向かって進軍し、オブザベーション軍も瞬く間にマンハイムを占領した。
3月3日、アウクスブルク(Augsbourg)の東約7㎞ほどの位置にあるフリートベルク(Friedberg)でフランス軍の侵攻開始を知ったカール大公は、ナウエンドルフ(Nauendorf)中将率いる前衛師団17,000人をバーベンハウゼン、メミンゲン、ロイトキルヒから前進させ、自らが指揮する主力軍53,800人(歩兵約37,800人、騎兵16,000騎)をアウクスブルク、ランツベルク・アム・レヒ(Landsberg am Lech)、ショーンガウ(Schongau)でレヒ(Lech)川を渡り、別動隊6個歩兵大隊6,600人をウルムでドナウ川を渡って進軍するよう命じた。
そしてベルナドット将軍率いるオブザベーション軍に対抗するためにスタライ(Sztáray)師団約13,000人をマンハイム方面に派遣した。
この日、オーストリア軍はフランス軍を打倒するために進軍準備を開始したのだが、フランスによる宣戦布告を知らされてなかったため準備に時間を要することが予想された。
ガザからの出発

※1799年3月1日、ナポレオンのガザからの出発とアシュケロンの戦いの戦場の視察
3月1日、ボナパルト将軍率いるフランス軍シリア遠征隊はヘブロンの丘にある野営地から出発すると左に曲がり、幅約24㎞の平原の真ん中をクレベール師団、ランヌ師団、ボン師団の順で行進した。
カティアの倉庫から送られた食糧と弾薬の輸送隊は軍の進撃に追いつくことができず、数日遅れていた。
しかしガザ砦守備隊が残した物資のおかげで、フランスのシリア遠征軍は輸送隊を待つことなく進軍を開始することができていた。
左には海に面した砂丘が見え、右にはパレスチナ山脈の最初の丘陵地帯が見えた。
フランス軍は約28㎞を行軍し、エルサレムからアシュケロンの海に流れ込む急流を渡って、廃墟となっている元港町エスダウド(Esdoud)に到着した。
※エスダウド(Esdoud)は現在のテル・アシュドド(Tel Ashdod)。テル・アシュドド(Tel Ashdod)はアシュドドの南南東約6km内陸にある村である。ナポレオンによると古代の都市アゾット(Azoth)があった場所とのことである。
その途中、ボナパルトは1099年8月12日にあった第1回十字軍のアシュケロンの戦いの戦場を3時間かけて視察したと言われている。
港湾都市ヤッファへの行進

※1799年3月初旬、港湾都市ヤッファへの行進
ガザからヤッファへの道はほとんど整備されておらず、多くの川を渡らなければならなかった。
3月2日、エスダウドから約28㎞の行軍の後、ボナパルトはエルサレムから約28㎞離れた有名なキリスト教徒の都市ラムレ(Ramléh)に宿営した。
軍の偵察兵はエルサレムから約12㎞以内に近づき、ゴルゴダの丘、キリストの墓、ソロモン神殿の台地を見るために燃えていたが、ラムレに行くために左に曲がるよう命じられたとき、残念がったという逸話が残されている。
※ラムレ(Ramléh)は現在のラムラ(Ramla)。
ガザからヤッファに続く砂漠は、流砂の山で覆われた広大な平原で、騎兵隊が横断するには非常に困難を伴い、ラクダたちはゆっくりと、そして消耗しながらヤッファへ向かった。
問題は大砲の輸送だったが、ボナパルトは引馬を3倍に増やして行軍速度を上げた。
ラムレと隣村のロード(Lod)では、アブドラ・パシャ軍は撤退する時間がなかったのか、ビスケットがまだ残っている貯蔵庫を発見することができた。
アラブ人の大群がこれらの村々を徘徊し略奪を行なったが、フランス軍は彼らを押し戻し、敗走させた。
この時、ラムレを3月3日未明に出発したクレベール師団とミュラ騎兵隊はヤッファへ向かっていた。
フランス軍としては大規模な守備隊が要塞化に取り組んでいる港湾都市ヤッファを占領することは緊急の課題だった。
ヤッファ港はダミエッタ港からの船を受け入れることができる数少ない港であり、この城塞を占領することは、ダミエッタとの海路による連絡を開通させ、米やビスケットを積んだ船や包囲部隊を受け入れるために必要だった。
ヤッファを占領せずにエルサレムに進軍することは、兵站という点で大きな危険を侵すこととなるのである。
3月3日午前7時、ランヌ師団はクレベール師団と合流するためにラムレから約20㎞離れているヤッファへ向かった。
そして午前7時半、ボン師団はランヌ師団の後を追ってヤッファへ向かった。
ラムレの陣地を離れる際、ボナパルトはせっかく調達した藁や木材を兵士たちが燃やしているのを見て心を痛め、「これらの物品は非常に希少であり、軍の後続部隊にとって有用である可能性があるため、軍団司令官に不必要な消費を避けるよう」勧告したと言われている。
シドニー・スミス将軍によるアレクサンドリアへの陽動攻撃
3月3日、シドニー・スミス将軍はアレクサンドリア沖に到着した。
そしてアレクサンドリアへの陽動攻撃を行ない、夜にアラブ風の格好をさせたスパイを艀(はしけ)に乗せて上陸させた。
しかし、ボナパルトはアレクサンドリアへの攻撃は陽動であると見抜いており、アレクサンドリア、ロゼッタ、ダミエッタなどの港に配置した戦力で十分対応可能だと考えていた。
シドニー・スミス将軍はその後もアレクサンドリアへの攻撃を行ったがボナパルトが反応することは無かった。
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