シリア戦役 21:ヤッファ攻囲戦
Siege of Jaffa

ヤッファの包囲

参考資料:「ヤッファ、北向きの眺め」。デイヴィッド・ロバーツ(David Roberts)画。1839年3月26日

※参考資料:「ヤッファ、北向きの眺め」。デイヴィッド・ロバーツ(David Roberts)画。1839年3月26日。ナポレオンも北を向いてヤッファを望んだため、年代は違えどもこのような風景を見ただろう。出典:アメリカ議会図書館

 フランス軍の進軍速度は速く、アブドラ・パシャ軍の背後には常にフランス軍がいた。

 アブドラ・パシャ軍はヤッファの前に到着したが、クレベール師団の接近を知ると歩兵隊をヤッファの長であるアブドラ・アガの指揮下に置いて撤退して行った。

 1799年3月3日朝、ヤッファに到着しアブドラ・パシャ軍の撤退を知ったクレベール師団は、抵抗する意思を見せているヤッファを見るとすぐに包囲した。

 3月3日午後、ナポレオン本体がヤッファの前に到着した。

 そしてヤッファを包囲しているクレベール師団と合流し、一夜を過ごした。

 夜、眠りについている頃、フランス軍は警備を怠っていたため陣地を襲われ、ボン師団の兵士がアラブ人によって殺害された。

 3月4日、フランス軍はヤッファ守備隊を城壁の中に追いやって街を封鎖した。

 そして各師団に方陣を形成させ、ランヌ師団には包囲の左側(南側)を、ボン将軍には右側(北東側)を担当させた。

 クレベール師団は包囲軍を護衛することを目的としてアッコへの道沿いにあるヤッファから約4㎞離れたナハル(Nahar)川の観察に向かった。

※ナハル(Nahar)川とはヘブライ語でのナハル・ハヤルコン(נחל הירקון)川のことであり、英語でのヤルコン(Yarkon)川のことである。

 ヤッファの人口は7,000人~8,000人で、非常に豊富な良質な水の湧き出る泉が2つあった。

1800年代初頭のヤッファ周辺地図

※1800年代初頭のヤッファ周辺地図

 ヤッファは六角形の城壁に囲まれており、周囲に塹壕はなく、塔には大砲が備え付けられていた。

 1783年10月頃にヤッファを訪れた東洋学者コンスタンタン・ド・ヴォルネイ伯爵(Constantin François de Chassebœuf, comte de Volney)によると、城壁の高さは 12~14 pied (3.888 m~4.536 m)と非常に高く、幅は 3~5 pied (0.972 m ~ 1.62 m)であり、ヴォルネイ伯爵はヤッファの城壁を見て「単なる庭の壁」と評していた。

 城壁の西側は海に面しており、北側はアッコ方面、東側はヨルダン川方面、南側はガザ方面である。

 周囲は庭園や果樹園に覆われた谷となっており、地形は凹凸があるため、見つかることなく銃の半射程内に接近することができた。

 フランス軍の物資供給はラムレとガザから行なわれ、軍はオレンジの木の下に野営した。

伝染病の兆候

 3月4日夕方、フランスの軍医であるS.オゥース(S. Ours)は、ダルマニャック(Darmagnac)大佐が指揮する第32戦列半旅団の第2大隊の歩兵であるルビオン(Roubion)と会うために呼ばれた。

 この時、ルビオンはすでに死亡していた。

 ルビオンはこの3日間、体調が悪く、食欲を失い、呼吸が苦しくなり、腰の重苦しさを感じ、右脇の下に刺すような痛みを感じていた。

※この3日間ということは3月2日に症状が現れ始めたということである。ペストの潜伏期間はおおよそ3日~7日であるため2月23日~27日の間に感染した可能性が高い。ボン師団は23日はハーン・ユーニス、27日はガザにいたため、そのどちらかの街で感染したのだろう。

 そして3月3日の夜に発熱し、死亡の30分前には全身に点状出血が見られた。

 彼は病気の間、酸性の飲み物を飲み、進行する腺の充血に軟化剤の湿布を貼っていた。

 死亡した時、胴体と上肢は青白い斑点で覆われ、右脇の下に柔らかい腫瘍があった。

 死後2時間後に開胸手術が行われ、腋窩腺(脇辺り)がかなり充血し、胃にはネギが詰まっていた。

 同じ頃、ボン師団の軍医であるルネ・ニコラ・デュフリッシュ・デジュネット男爵(René-Nicolas Dufriche Desgenettes)は、第18半旅団の兵士がボン師団長のテントの近くで死亡しているとの連絡を受け、呼び出されていた。

 腫瘍の存在を除けば、この兵士の病気はルビオンの病気と同じ現象を示していた。

 さらに同じ病気にかかったと思われる第3大隊の兵士の呼び出しが再びあり、こちらは斑点がよく現れていた。

 軍医デジュネットは致命的な伝染力を持つ熱病の可能性を疑い、ボナパルトに報告書を提出した。

 報告書の中でデジュネットは、死者が住んでいた小屋を焼き払い、熱病に罹患した人たちの所持品を押収して隔離し、誰も近づかないよう遠ざけ、病人をキャンプから移動させることを提案した。

※参考:Nicolas René Dufriche Baron Desgenettes著「Histoire médicale de l'armée d'Orient」(1802)。

ヤッファへの攻撃準備

 ヤッファの司令官であるアブドラ・アガ率いる歩兵部隊はすべてヤッファに立て籠もっており、ヤッファにはコンスタンティノープルからの砲兵部隊やコーカサス地方からの全軍団もいた。

 ヤッファ守備隊の兵力は4,000人を数えた。

 工兵と砲兵は4日のすべてをヤッファの偵察に費やし、4日から5日夜にかけて城壁の周囲に塹壕を掘り、3つの砲台を建設した。

 3月5日から6日夜にかけて砲兵隊は3つの砲台に大砲20門を配備した。

 その内の2つの砲台にはそれぞれ8連装砲4門と榴弾砲2門、計12門を配備し、残りの1つの突破砲台には12連装砲4門と榴弾砲4門、計8門を配備した。

 重砲はエジプトでようやく船に乗せられて海上輸送されるところであり、フランス軍は砲台に軽砲を配備する他なかったが、ヤッファの城壁を突破するのは軽砲で十分であると考えられた。

 ヤッファ守備隊は砲兵隊の砲火と城壁からのマスケット銃の砲火の中、2回出撃した。

 しかし、どちらも一時的な成功しか収められず、激しく撃退された。

 ボナパルトはこれらの出撃を興味深く観察していた。

 10か国の様々な衣装を着た兵士たちがおり、彼らはモーグラビン人、アルバニア人、クルド人、アナトリア人、カラマニア人、ダマスカス人、アレッポ人、テクート出身の黒人で構成されていた。

 捕虜の中にはエル・アリシュ守備隊にいた3人のアルバニア人が含まれており、エル・アリシュ守備隊は降伏文書の「現在の戦争中はフランス軍に対して武器を取らない」という誓約を破ってバグダッドに向かわず、ヤッファの防衛をしているとの情報を得た。

ヤッファへの降伏勧告と使者の死

 3月6日、砲台は各砲から2発の斉射を行い、7日に日付が変わった後、ベルティエ将軍はヤッファの司令官アブドラ・アガの元に使者として士官とラッパ奏者を派遣して降伏勧告を行なった。

◎1799年3月7日付けのヤッファの司令官アブドラ・アガ宛ての書簡

「神は寛容で、慈悲深いのです!ボナパルト総司令官は、ジェザル・パシャの軍隊を追い出すためにパレスチナに向かっただけであり、ジェザル・パシャの軍隊はエジプト領のエル・アリシュの砦にもそこ(ヤッファ)にもいるべきではないことをあなたに伝えるよう私に指示しました。彼自身(ジェザル・パシャ)もこの砦(エル・アリシュ砦)を占領してエジプトに対する敵対行為を開始しました。ヤッファ広場は(フランス軍によって)四方を囲まれています。総砲撃、爆弾、突破により、2時間以内に城壁は陥落し、防御は崩壊するでしょう。攻撃によって街全体が陥落すれば、街全体が受けるであろう損害に彼(ボナパルト)は心を痛めています。彼(ボナパルト)は守備隊に護衛を提供し、都市を保護するでしょう。そのため、彼(ボナパルト)は砲撃の開始を朝7時まで遅らせました。」

※ナポレオンの回想録にもベルティエの回想録にもヤッファへ攻撃を開始したのは3月6日(ヴァントーズ16日)と書かれている。しかし、ナポレオン1世書簡集に収録されたヤッファの司令官アブドラ・アガ宛の書簡の日付は3月7日となっており、3月6日付けのカファレッリ将軍宛の書簡には「明日ヤッファで行われる攻撃に関して」と書かれている。回想録よりも書簡の内容の方が信憑性が高いため、3月7日にヤッファへの砲撃が開始されたと考えるのが妥当だろうと考えられる。

 士官とラッパ奏者はヤッファの城壁内に迎え入れられたが、その15分後、フランス軍は彼らの首が2つの最も大きな塔に突き立てられた槍の先に刺さっているのを発見し、彼らの体が壁の上から突破砲台の元に投げ込まれたのを見た。

ヤッファへの砲撃の開始とナポレオンの身長

 アブドラ・アガのこの残酷な対応にボナパルトは砲撃準備を急がせた。

 ヤッファへの砲撃は朝7時を待たず、夜明けとともに開始された。

 塔と城壁の一部が破壊され、突破口が開かれた。

 工兵大隊長ラゾフスキー(Lazowzky)は、25人のカラビニエ、15人の工兵、5人の砲兵とともに、宿営地を確保し、突破口の周辺を掃討した。

 第22軽歩兵半旅団は、練兵場として使われていた地面の折り返し部分の後ろに縦隊を形成し、突破口に突入する合図を待っていた。

 この時、ボナパルトは砲台の側に立ってその砲兵連隊を指揮するルジューン(Lejeune)大佐にどう行動すべきかを指差していたところ、ライフルの弾丸がボナパルトの帽子を地面に投げつけ、頭から3 pouceのところをかすめ、身長 5 pieds 10 poucesのルジューン大佐を倒して死亡させた。

この日の夜、「私が戦争に参加して以来、身長 5 pieds 2 poucesのおかげで命が助かったのはこれで 2 度目だ」とナポレオンは語ったと言われている。

※1 pied = 32.4㎝、1 pouce = 2.707cmであるため、弾丸は身長 5 pieds 2 pouces = 167.414cmのナポレオンの頭から3 pouce = 8.121cm離れたところを通り、5 pieds 10 pouces = 189.07cmの大佐を倒して死亡させたということとなる。この記述から、当時のナポレオンの身長は167.414cmということが分かる。

※ライバル達の身長:カール大公・・・152.4cm(5 feet)、ネルソン・・・162.56 ~ 170.18 cm (5 feet 4 inch ~ 5 feet 7 inch)、スヴォーロフ・・・170 ~ 175 cm 、ウェリントン公アーサー・ウェルズリー・・・172.72 ~ 177.8 cm (5 feet 8 inch ~ 5 feet 10 inch)であるとされている。カール大公が低身長だったことは有名である。ネルソンは小柄だったと言われているため、ナポレオンと同じか小さかったと考えられる。スヴォーロフは使っていた杖の調査から 170 cm を超えていたとされている。ウェリントン公アーサー・ウェルズリーは大柄で、若い頃は177.8 cm (5 feet 10 inch)で、年老いたときの縮んだ身長が 5 feet 8 inch だったと言われている。

※ 1 インチ= 2.54 cm、1 フィート= 12 インチ = 30.48 cm で計算。

ヤッファへの突入と占領

1799年3月3日~7日、ヤッファ包囲戦【ナポレオンのシリア遠征】

※1799年3月3日~7日、ヤッファ包囲戦

 ランヌ将軍が第22軽歩兵半旅団の指揮官となり、師団の他の半旅団がそれに続いた。

 ランヌ将軍は突破口を通過し、塔を通り抜け、城壁に沿って右から左へと展開し、すべての塔を占領した。

 そしてすぐに自軍が占領した城塞に到着した。

 右側城壁への陽動攻撃を行なっていたボン師団は、包囲された者たちの間に混乱が生じるとすぐに梯子を使って城壁を登り、ヤッファ港の確保に向かった。

 ヤッファ守備隊は港に逃げ、ボン師団はそれを追い、降伏を呼び掛けた。

 ランヌ師団とボン師団によって街の建物や港に追い詰められたヤッファ守備隊の内、エジプト人300人は降伏したが、その他の1,200人のトルコ砲手と2,500人のモーグラビン人またはアルナウト人で構成された守備隊は必死に防衛し、降伏を拒否した。

 兵士たちの怒りは頂点に達し、合計4,000人以上のヤッファ守備隊と住民が銃剣で殺され、街は略奪された。

 この日、ヤッファはあらゆる恐怖を経験し、夜が訪れた後に街の中で散り散りとなったヤッファ守備隊は降伏していった。

※ヤッファ守備隊だけでなく、ヤッファの住民に対しても暴行、略奪、強姦が行なわれ、虐殺されたと言われている。

 3月7日深夜~8日未明頃、エル・アリシュ守備隊に属していた者を除いて、恩赦が発表された。

 兵士達は不必要に暴力を振るうことを禁じられていた。

 炎は鎮火され、住民が避難していたモスクや様々な店舗、公共施設には歩哨が配置された。

 囚人たちは城壁の外に集められた。

 しかし略奪は続き、秩序が完全に回復したのは夜明けになってからだった。

 捕虜は2,500人で、その中には元エル・アリシュ守備隊800~900人が含まれていた。

 元エル・アリシュ守備隊は降伏条件を守らなかったことを理由として銃殺された。

 ヤッファ包囲戦でのフランス軍の損害は死者約50人、負傷者200人だったと言われている。