シリア戦役 32:第一次ヴェローナの戦いとアッコでの地雷埋設作業の完了
Haifa Landing Operation

イタリア方面の状況

 新たにイタリア方面軍総司令官シェレール中将は、当初オーストリア軍が先に動くのを待っていた。

 もし攻勢に出る場合、マッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍とジュールダン将軍率いるドナウ軍が進軍を開始したことを知って初めて積極的に行動しようと考えていた。

 シェレールはヘルヴェティア軍と連携してヴァルテッリーナからベルガルド将軍が守るチロル地方を攻撃することを計画していたが、ドナウ軍がオストラッハで敗北したことによりその計画は実行不可能なものとなった。

 そのためシェレールは総裁が決定した攻勢計画に疑問を抱いた。

 しかし「攻勢計画を実行せよ」という総裁からの圧力に屈し攻勢のための準備を行った。

 そしてほぼ同時にゴルティエ将軍とミオリス将軍はイタリア半島の潜在的な敵を排除するためにトスカーナ作戦を実行し、トスカーナ大公国の征服に乗り出していた。

 一方、オーストリア軍を率いるクレイ(Paul Kray von Krajowa)中将は、アディジェ川に沿って兵力を配置していた。

 クレイ将軍はメラス騎兵大将が到着するまでイタリア軍の最高司令官として指揮するよう命じられていた。

 クレイ将軍の任務はスヴォーロフ元帥率いるロシア軍と合流するまでアディジェ川を守り、その後、スヴォーロフ元帥の指揮下で攻勢に出るというものだった。

 クレイはロシア軍が到着するまでの間、塹壕をより深く掘るなどヴェローナ要塞とその周辺の防衛強化を行い、レニャーゴやブッソレンゴ、パストレンゴなどに小規模な要塞を築いた。

 アディジェ川に4つの橋を架け、各師団が迅速に移動して相互支援できるようにした。

 オーストリア軍の防衛線はアディジェ川全域に及び、バルド山とヴェローナを結ぶ堡塁と塹壕線​​が築かれていた。

オーストリア軍の前線の配置と連絡線

 1799年4月23日、クレイ将軍はフランス軍がカステルヌォーヴォとヴィラフランカに集結し始めたことを察知し、ヴェローナを守るカイム将軍に連絡した。

 カイム将軍は24日から警戒を強化し、リプタイ将軍とヴィチェンツァにいるホーエンツォレルン将軍にヴェローナに集結するよう命じた。

 2人の将軍はすぐに部隊をともなってヴェローナに向けて出発した。

 エルスニッツ将軍とゴッデスハイム将軍が指揮するパスコレンゴの防衛線には7個歩兵大隊と新たな3個騎兵連隊がいたが、ホーエンツォレルン旅団とリプタイ旅団が25日にヴェローナに到着したことにより3個大隊と砲兵1個中隊を派遣することができた。

 これらの増援は翌26日の午前7時~8時頃に到着すると予想された。

 オーストリア軍の前哨線はガルダ湖から始まり、国境に沿ってベイルラク(Beirlaque)周辺にまで伸びており、2個歩兵大隊、1個騎兵連隊、1個騎兵中隊によって守られていた。

 そして、その退却を容易にしアディジェ川左岸側との連絡を維持するためにアディジェ川に2つの舟橋がポール(Pol)の近くに設置されており、舟橋はそれぞれ砲兵によって守られ、2重の橋頭保によって補強されていた。

 ポールの陣地とヴェローナとの連絡はお互いの位置が遠すぎたため維持できず、軽騎兵の分遣隊をヴェローナからカーサ・カーラ(Casa Cara)に派遣することによって可能な限り連絡線を維持した。

※ベイルラク(Beirlaque)がどの場所にあるのかは不明だが、ヴェローナとの連絡線を維持できないくらい遠くにあり、「アディジェ川左岸との連絡を維持するために」とあるためアディジェ川右岸側にあると考えられ、「退却を容易にする舟橋がポール近くに設置されている」とあるためポールに撤退できる距離にあると考えられる。ヴォラルニェ(Volargne)の可能性もある。

※ポールとヴェローナの間にあると考えられるカーサ・カーラ(Casa Cara)の正確な位置は不明である。村や町の名前なのか建物の名前なのかも不明である。

 一方、トンベッタ(Tombetta)、トンバ(Tomba)、サンタ・ルチア、サン・マッシモ、クローチェ・ビアンカ、キエーヴォ(Chievo)を経由してアディジェ川の両岸に伸びるヴェローナの前哨線は、3個歩兵大隊によって守られ、新門(Porta Nuova)のヴェローナの斜面によって支援されていた。

 新門付近に3個歩兵大隊と6個騎兵中隊が配置され、後方の援護としてサン・ゼーノ門に4個歩兵大隊と5個騎兵中隊が配置された。

第1次ヴェローナの戦いにおける両軍の強度とシェレール将軍の攻勢計画

1799年3月26日から開始されたヴェローナの戦いにおける両軍の強度と配置

※1799年3月26日から開始されたヴェローナの戦いにおける両軍の強度と配置

 1799年3月26日、シェレール中将率いるイタリア方面軍は3個縦隊に分かれ、アディジェ川への攻勢を開始した。

 イタリア方面軍右翼約9,500人はモンリシャール(Montrichard)将軍によって率いられ、レニャーゴの占領を命じられていた。

 中央約14,500人はモロー将軍によって率いられ、麾下のヴィクトール師団とハトリー(Hatry)師団はサンタ・ルチアとサン・マッシモを占領しヴェローナへの攻撃を命じられていた。

 左翼約22,000人はシェレール将軍によって率いられ、麾下のデルマス前衛師団はブッソレンゴとパストレンゴの占領を命じられ、グルニエ師団はデルマス師団に続いてパストレンゴに向かうよう命じられた。

 セリュリエ師団はガルダ湖東岸を北上してオーストリア軍を駆逐し、グルニエ師団はデルマス師団と合流後にポールでアディジェ川を渡河し、ヴェローナを側面から攻撃することになっていた。

 対するオーストリア軍はパストレンゴ~ヴェローナ周辺地域を守る右翼約25,000人をカイム将軍が率い、レニャーゴ周辺地域を守る左翼約22,000人をクレイ将軍が率いていた。

 シェレール将軍の計画は、モンリシャール将軍率いる右翼がレニャーゴを攻撃している間に、左翼でパスコレンゴとブッソレンゴを占領してアディジェ川を渡り、モロー将軍率いる中央と協力してヴェローナを占領するというものであり、ヴェローナを占領すればレニャーゴのオーストリア軍は撤退を余儀なくされることを想定していた。

第1次ヴェローナの戦い①:フランス軍の攻勢の始まり

 3月26日午前3時、激しい風と土砂降りの雨の中、セリュリエ師団がペスキエーラから進軍を開始し、デルマス師団がカステルヌォーヴォ周辺地域から、ヴィクトール師団とハトリー師団がヴィラフランカ周辺地域から出発した。

 グルニエ師団はデルマス師団の後に続く予定となっていた。

 シェレール将軍の計画通り、セリュリエ師団7,000人はフランスのガルダ湖艦隊の支援を得てラツィーゼへ向かい、デルマス師団7,500人はセリュリエ師団の方に騎兵隊を派遣しつつブッソレンゴとパストレンゴ、セーガ(Sega)に向かい、グルニエ師団7,500人はパストレンゴに向かうために準備をしていたのである。

 デルマス師団はオステリア(Osteria)、ピオヴェッツァーノ、カンパラ(Campara)を経由してパストレンゴとセーガに向かうこととなっていた。

 セリュリエ師団の右翼側では散兵が平野を横切るように展開し、フランスの3個師団の前進を援護した。

 デルマス将軍はオーストリア軍の砲台を攻撃した後、中央(パストレンゴ方面)の前線に進撃した。

 カステルヌォーヴォからサンドラを経由してパストレンゴに続くパストレンゴ街道は大砲専用とされた。

 行軍中に展開していた歩兵大隊がゴッデスハイム将軍が木々に囲まれた3軒の家に設置した前哨陣地の前に到着した。

 これらの陣地の兵士たちはまだ眠っていたが、歩哨がフランス軍を発見し、射撃を開始した。

 オーストリアの兵士たちは目を覚まし、恐怖に駆られて簡素な服装のまま逃走した。

 デルマス師団中央は窪みのある道を通ってパストレンゴにあるエルスニッツ将軍率いる主力部隊の元にたどり着き、塹壕陣地まで押し戻すことに成功した。

 パストレンゴには2つの堡塁があったが、デルマス将軍は損害無く2つの堡塁の前に到着した。

 しかし堡塁の斜面では激しい砲火が轟き、非常に危険な状況となった。

 アディジェ川沿いのパストレンゴ周辺にある丘陵地帯にはオーストリア軍が密集しており、予備兵力もそこに集結していると考えられた。

 デルマス将軍麾下のパンブール将軍は身動きの取れない兵士の群れと防御の弱い砲兵隊への砲撃を指示した。

 オーストリア軍の砲兵もフランス軍の砲撃を受け、一斉に反撃した。

 一方、デルマス師団右翼の作戦を任されたダレム将軍はパラッツォーロを視界に収め、村を見下ろす高台に接近していた。

 この高台は、昨日、ヴェローナから派遣された3個大隊と1個砲兵中隊の増援を受ける予定の場所であり、パラッツォーロの地を守るゴッデスハイム将軍はこれらの増援が来るまで地形を利用して防御を固める方針をとった。

 この時、ゴッデスハイム旅団とエルスニッツ旅団の合計は約7,800人であり、有利な地形で戦っていたためデルマス師団7,500人と対等以上に渡り合っていた。

第1次ヴェローナの戦い②:ヴェローナ方面への攻撃の開始とカイム将軍の迂回作戦

 午前4時頃、ヴィクトール師団8,200人、ハトリー師団6,300人がサンタ・ルチアとサン・マッシモを攻撃した。

 カイム中将はフランス軍の攻撃を知ると直ちに前哨陣地へ進軍し、フランス軍がサンタ・ルチアに主攻を向けていることを察知するとサンタ・ルチアの拠点を強化し、1個大隊で補強した。

 サンタ・ルチアに旅団とともに駐屯していたリプタイ将軍は、午前4時半には既に負傷していた。

 カイム将軍はモルスクウィッツ(Morskwitz)将軍にサンタ・ルチアの地の指揮権を委ね、自らはクローチェ・ビアンカへ進軍しフランス軍の左側面を攻撃しようとした。

 この迂回作戦はルガニャーノ(Lugagnano)とサン・マッシモの間を通ってドッソブオノ方向へと向かう予定となっていた。

第1次ヴェローナの戦い③:サンタ・ルチアとサン・マッシモでの激闘の始まり

 最初に捕らえた捕虜から、ヴェローナへの攻撃を企図していると思われるフランス軍はヴィクトール将軍とグルニエ将軍が指揮する2個師団であり、それにセリュリエ師団の一部と、ピエモンテ、スイス、ポーランドからの移民6,000人が加わっていることが判明した。

 そしてどうやらフランスの兵士たちは15日間無給だったため、シェレール将軍は兵士たちの士気を保つためにヴェローナへの攻撃に際してヴェローナ市を2時間略奪することで補償することを約束したようだった。

 これらの情報からカイム将軍は、フランス軍は25,000人か~30,000人の兵力でヴェローナへの攻撃を行い、側面からの奇襲攻撃を企図していると考えた。

 カイム将軍は直ちに幕僚に前進を命じ、ミンクウィッツ旅団をサン・マッシモに向かわせ、ホーエンツォレルン旅団を左翼に派遣してミンクウィッツ旅団の支援を命じた。

 午前6時、フランス軍中央は全軍を集結させ、主攻をサンタ・ルチアとサン・マッシモに向けた。

 この時点でサンタ・ルチアの陣地はフランス軍によって既に占領されており、ヴィクトール師団はヴェローナに向かって進軍していた。

 しかしヴィクトール師団の進軍はホーエンツォレルン将軍によって阻まれ、占領したばかりのサンタ・ルチアを失った。

第1次ヴェローナの戦い④:パラッツォーロでの死闘

 パストレンゴとパラッツォーロでは午前4時頃から数時間にわたって激戦が繰り広げられていた。

 パストレンゴではグルニエ師団が到着し始め1個旅団を投入したもののオーストリア軍に有利な地形に阻まれフランス軍の士気は衰えつつあった。

 パラッツォーロ方面を指揮するダレム旅団もほぼ同様の状況だった。

 その時、25日にヴェローナを出発した3個歩兵大隊と1個砲兵中隊約3,000人が予定通りパラッツォーロの高台に到着した。

 この補強によりオーストリア軍はいくつかの堡塁を奪還することに成功した。

 デルマス師団の多くは徴兵されたばかりの若い兵士たちであり、彼らは多数の死者と負傷者の叫び声に怯え、恐怖はパニックを引き起こした。

 ダレム将軍率いる師団右翼の隊列が崩れ始め、ゴッデスハイム将軍は勝利を確信した。

 そしてゴッデスハイム将軍はフランス軍の隊列を反転させ始めた。

 パストレンゴ前で指揮を執るデルマス将軍は、自らが置かれるであろう危機的な状況を理解していた。

 パラッツォーロで敗北した場合、カステルヌォーヴォ及びペスキエーラとの連絡線は遮断され、パストレンゴの背後を脅かされることが予想された。

 デルマス将軍はひるむことなく、副官であるグランジャン将軍をパラッツォーロで奮戦しているダレム将軍の支援に派遣した。

 ダレム将軍はこの逆境に対し徴兵されたばかりの兵士たちを鼓舞し、一時中断していた前進を再開した。

 その時、1発の銃弾がダレム将軍の大腿部を貫いた。

 デルマス将軍はパストレンゴから駆け付けて師団右翼の指揮を戦線離脱を余儀なくされたダレム将軍と交代し突撃を率いた。

 しかし、デルマス将軍も馬に乗って突撃しようとしている時、足に重傷を負った。

 負傷したにもかかわらずデルマス将軍は馬に乗ったまま部隊を率いて突撃を開始し、オーストリア軍の陣地へと突入した。

 しかしオーストリアの予備軍によって激しく撃退された。

 楡(ニレ)の森に隠れざるを得なくなったデルマス将軍は予備軍を召集し、側面から再攻勢を開始した。

 オーストリア軍は激しい砲火の中、血に染まり死体で覆われた陣地からの撤退を余儀なくされた。

 ゴッデスハイム将軍はブッソレンゴを経由してアディジェ川を渡りアルチェ(Arcè)で態勢を立て直した。

 デルマス将軍は追撃してブッソレンゴを占領したが攻撃の限界点に達し、オーストリア軍の攻撃にさらされたまま、用心深く川岸の背後に隠れた。

第1次ヴェローナの戦い⑤:パストレンゴでの戦いの決着

 一方、パストレンゴではデルマス将軍に代わってグルニエ将軍が指揮を引き継いでいた。

 グルニエ将軍は2つ目の旅団を前進させてパストレンゴで戦う1つ目の旅団を強化し、ポーロ近郊に架かる舟橋を脅かした。

 パストレンゴを守るエルスニッツ旅団は急速な撤退を余儀なくされた。

 そのため撤退は最善の秩序とは言えず、多くの大砲を放棄したにもかかわらず後衛の撤退が遅れることとなった。

 エルスニッツ将軍は舟橋の1つを即座に破壊したが、もう1つの舟橋は後衛の撤退のために破壊することはできなかった。

 エルスニッツ旅団後衛は撤退中、フランス軍の砲撃で大きな損害を受けながらアディジェ川左岸へと撤退して行った。

 アディジェ川での戦闘は午前8時には終結した。

 パラッツォーロとパストレンゴでの戦闘でゴッデスハイム旅団とエルスニッツ旅団は10,800人の内、ほぼすべての大砲と3,536人の兵士を失ったと言われている。

 その後、ゴッデスハイム将軍とエルスニッツ将軍は残兵を率いてアディジェ川と山が最も接近しているパローナ(Parona)の防壁を越え、ヴェローナへの道の防衛に当たった。

 セリュリエ師団はラツィーゼを占領した後、少数の散兵を蹴散らしながらバルドリーノとインカッフィ(Incaffi)を経由してリヴォリで停止し、グルニエ師団はパストレンゴを占領して2個大隊でアディジェ川左岸の前哨陣地を形成させ騎兵隊をパローナ方面へ哨戒させた。

 デルマス将軍は重傷にもかかわらずその後も指揮を執り続け、追撃を行うつもりだったと言われている。

 デルマス師団右翼はブッソレンゴを占領したままであり、シェレール将軍はこの左翼での勝利を有効活用しようとはしなかった。

 この時、シェレール将軍の元にガルダ湖北のチロル州境でローゼンベルク将軍麾下のヴィカソヴィッチ旅団がフランス軍を撃退したとの知らせが舞い込んで来ていた。

 そのためシェレール将軍は北からの攻撃に備えてセリュリエ師団とモロー師団を動かさなかったと言われている。

第1次ヴェローナの戦い⑥:レニャーゴでの戦いの始まり

 3月26日夜明け、遥か遠方のヴェローナとパストレンゴ周辺から激しい砲撃音がレニャーゴにまで聞こえてきていた。

 午前8時頃、レニャーゴ近くの前哨戦が攻撃を受けた。

 この時、オーストリア軍を指揮するクレイ(Kray)中将はべヴィラックアの宿営地に部隊とともにいたのだが、フランス軍による攻撃を知るとすぐにフレーリヒ師団とメルカンディン師団にレニャーゴに向かうよう命じ、自身はラターマン旅団とともにレニャーゴに急行した。

 スカル大佐率いるレニャーゴの街の守備隊はまだ修復が十分に進んでいなかった城壁と道路に陣取り、勇敢にフランス軍と戦っていた。

 オーストリア軍は橋を守るために2個大隊を街の前面にあるブッセ(Busse)運河近くに布陣した。

 フランスのモンリシャール将軍は主力をアディジェ川沿いのアンジャーリ近くに配置しており、あらゆる方向からレニャーゴに向けて前進を試みた。

 戦いは主にアンジャーリやレニャーゴ、サン・ピエトロで行われ、マントヴァへの主要街道があるサン・ピエトロへの攻撃がフランス軍の主攻だと考えられた。

 モンリシャール将軍はアンジャーリに2回の猛烈な攻撃を仕掛けた。

 そのためオーストリア軍はアンジャーリから退却することを余儀なくされ、サン・ピエトロもフランス軍の手に落ちた。

第1次ヴェローナの戦い⑦:レニャーゴへの増援部隊の到着

 午前11時30分頃、スカル大佐率いるレニャーゴ守備隊は単独でモンリシャール師団の前進を3時間半にわたって阻止していた。

 そこへべヴィラックアからフレーリヒ師団が到着し、モンリシャール師団に襲い掛かった。

 フレーリヒ師団はレニャーゴ前の敵を一掃し、アンジャーリとサン・ピエトロに向かった。

 この攻撃はレニャーゴと繋がるあらゆる道路や分断されている地域などに可能な限り行われたが、オーストリア軍の主攻はサン・ピエトロに対して向けられた。

 フレーリヒ将軍はサン・ピエトロを占領しているフランス軍を包囲するために背後への機動を実行し、麾下のソンマリーヴァ大佐をアンジャーリに向かわせた。

 フレーリヒ師団の到着によってレニャーゴ守備隊の士気は上昇し、レニャーゴの街と近くの平野にいた砲兵隊もあらゆる攻撃に抵抗した。

第1次ヴェローナの戦い⑧:カイム将軍の戦線離脱

 カイム将軍率いるオーストリア軍右翼の兵力は約25,000人(ゴッデスハイム旅団とエルスニッツ旅団の合計約10,800人、カイム師団約14,000人)だが、モロー将軍率いるフランス軍中央(14,500人)とセリュリエ師団を除く左翼(15,000人)の兵力の合計は約29,500人であり、およそ4,500人の差があった。

 レニャーゴ方面の兵力(クレイ師団22,000人、モンリシャール師団9,500人)とセリュリエ師団7,000人も加えるとオーストリア軍約47,000人、フランス軍約46,000人となりほぼ拮抗しているのだが、シェレール将軍はレニャーゴへの攻撃を陽動とし、ヴェローナへの攻撃に兵力を集中させていた。

 ヴィクトール師団とハトリー師団によるヴェローナ正面(サンタ・ルチアとサン・マッシモ)への攻撃は約14,500人で行われ、パストレンゴとブッソレンゴ、そしてリヴォリ方面への攻撃はグルニエ師団7,500人、デルマス師団7,500人、セリュリエ師団7,000人、合計約22,000人の兵力で強力に押し進められており午前8時の段階でパストレンゴとブッソレンゴを占領していた。

 しかし、シェレール将軍はこれら3個師団をヴェローナへの攻撃に活用しなかったため、フランス軍はヴィクトール師団とハトリー師団の2個師団で14,000人が守るヴェローナへの攻撃を継続することとなった。

 カイム将軍と指揮下の軍は攻撃中に一切の補給や休憩を得ることができなかったにもかかわらず驚異的な粘り強さを発揮し、ブッソレンゴとヴィラフランカへも攻撃を仕掛けた。

 正午の少し前、カイム将軍は負傷し、戦線離脱を余儀なくされた。

 カイム将軍はサン・マッシモの陣地を放棄せず、フランス軍の側面と後方での陽動作戦を続けるよう将軍たちに告げた。

 これらを粘り強く継続すればフランス軍は攻勢を諦めるだろうとカイム将軍は考えていた。

 その後、カイム将軍は司令官職を辞任し、戦線を去った。

第1次ヴェローナの戦い⑨:モンリシャール師団の撤退とクレイ将軍のヴェローナへの出発

 レニャーゴではモンリシャール師団が数的劣勢に立たされても抵抗を続けていた。

 しかし遂にオーストリア軍の攻撃を受け止め切れなくなり、午後7時にはあらゆる場所で敗走を余儀なくされることとなった。

 モンリシャール師団は混乱しながらタルタロ川へと退却した。

 クレイ将軍は騎兵隊で追撃させようとしたが、レニャーゴからマントヴァまでの間の多くの運河に阻まれ、有効な追撃ができずにいた。

 そこへクレイ将軍の元にヴェローナが危険に晒されようとしているという情報が舞い込んできた。

 ヴェローナ周辺ではサンタ・ルチアとサン・マッシモがヴィクトール将軍とハトリー将軍によって攻撃されており、オーストリアの2人の将軍、リプタイとミンクウィッツがこの激しい乱戦で負傷したとのことだった。

 カイム将軍は戦線離脱したがヴェローナのオーストリア軍はその意思を引き継ぎ、サンタ・ルチアとサン・マッシモの争奪戦を継続していた。

 ヴェローナの城壁下のこの不透明な状況に加えて、ゴッテスハイム少将とエスニッツ少将率いる右翼が敗走したとの知らせも届けられた。

 クレイ将軍はマントヴァ方向に撤退しているモンリシャール師団の追跡を完全に思いとどまり、兵士たちの疲労にもかかわらず迫り来る深刻な危機からヴェローナを守るため、レニャーゴに十分な守備隊を残して急いでヴェローナへ進軍した。

 クレイ将軍率いる左翼は2日後(28日)に到着すると考えられた。

第1次ヴェローナの戦い⑩:モロー師団の撤退

 午前4時頃開始されたヴェローナ周辺での戦いは一進一退の激戦を継続しており、日暮れになっても続けられていた。

 ホーエンツォレルン将軍はサン・マッシモの増援に向かったミンクウィッツ将軍の負傷を知ったにもかかわらず、2度にわたりサンタ・ルチアの奪還に成功したが、守り抜くことはできず、フランス軍は終日サンタ・ルチアの陣地を占領し続けた。

 サン・マッシモでも一進一退の攻防が繰り返されていた。

 フランス軍は7度サン・マッシモの陣地を攻撃し、7度も新たな部隊を投入したが、7度ともオーストリア軍によって撃退されていた。

 サン・マッシモでの戦闘はフランス軍に大きな損害を出し、オーストリア軍は終日サン・マッシモの陣地を守り抜き、サンタ・ルチアを除いてキエーヴォ(Chievo)からトンベッタ(Tombetta)までの前線陣地の連なりも維持することに成功していた。

 夜10時頃、フランス軍はサンタ・ルチアと近隣の村で持ち堪えていたが18時間という長時間の戦闘での疲労によりドッソブオノ(Dossobuono)とカディダヴィド(Cadidavid)へと撤退した。

 オーストリア軍側も長時間の戦闘で疲弊しており、追撃は不可能だった。

第1次ヴェローナの戦いの後と両軍の損害

 両軍の疲弊は酷く、戦場は死傷者で溢れかえっていた。

 そのためその後の2日間、両軍は軍の休息と治療、再編成と再配置に努めた。

 シェレール将軍はセリュリエ師団とモンリシャール師団の兵力を集結させ、クレイ将軍は自らが率いるレニャーゴの兵力をヴェローナに集結させて態勢を立て直し、スヴォーロフ元帥率いるロシア軍が到着するまでの時間を稼ごうとした。

 しかし、この時スヴォーロフ元帥率いるロシア軍は猛烈な雨によってその進軍を遅らせていた。

 第1次ヴェローナの戦いにおけるフランス軍の損害は、ヴェローナとパストレンゴ戦線:死傷者約2,000人、捕虜316人、大砲1門。レニャーゴ戦線:死傷者約2,000人、捕虜511人、大砲14門だった。

 対するオーストリア軍の損害は、ヴェローナ戦線:死傷者2,818人、捕虜約1,000人、大砲12門、軍旗2旈。パストレンゴ戦線:死傷者・捕虜の合計3,536人、ほとんどの大砲。レニャーゴ戦線:死傷者970人、行方不明または捕虜82人だったと言われている。

 シェレール将軍は1799年3月26日夜のフランス本国への報告で「この日の結果はイタリア方面軍にとって過去の勝利に匹敵するほど名誉となるもの」と評価したが、ヴェローナ要塞とレニャーゴ要塞は依然としてオーストリア軍の手にあり、勝利を声高に叫ぶことはできなかった。

参考文献

・Carlo Botta著「Storia d'Italia dal 1789 al 1814」

・「A Collection of State Papers Relative to the War Against France 第8巻」

・Johannès Plantadis著「Antoine-Guillaume Delmas, Premier Général d'Avant-Garde de la République, 1768-1813」

・「Reimpression de L'ancien Moniteur Seule Histoire Authentique et Inalteree de La Revolution Francaise Depuis La Reunion des Etats-Generaux Jusqu'au Consulat (Mai 1789 - Novembre 1799) Avec des Notes Explicatives」1863

シドニー・スミス将軍によるハイファ上陸作戦

1799年3月26日、シドニー・スミス将軍によるハイファ上陸作戦【ナポレオンのシリア遠征】

※1799年3月26日、シドニー・スミス将軍によるハイファ上陸作戦

 1799年3月26日夜明け、シドニー・スミス将軍は10隻のボートに400人の兵士を乗せてハイファを攻撃した。

 イギリス軍は港に停泊している輸送船を拿捕しようとしているようだったがシドニー・スミス将軍の目的はハイファの占領だった。

 ハイファを指揮するランバート騎兵大尉は、いかなる防御行動も見せることなく、イギリス軍の陸地への接近を許可するよう命じた。

 そして榴弾砲と竜騎兵60騎をイギリス軍から隠して待ち伏せさせた。

 フランス軍の防御が弱いと見たシドニー・スミス将軍は上陸を命じた。

 イギリス軍が上陸するとランバート騎兵大尉は兵士たちの先頭に立って襲い掛かった。

 しかし、イギリス軍は建物を利用して前線を支え上陸を支援した。

 ランバート騎兵大尉は、イギリス軍が建物を利用して戦闘を繰り広げているのを見ると、野砲3門からブドウ弾を発射し、2つの壁のある建物を占拠していた100人の兵士に銃撃し、同時にそれぞれ30騎の竜騎兵で構成される2個小隊の伏兵でイギリス軍の側面と後方から突撃した。

 これらの間、ランバート騎兵大尉率いる部隊は32ポンドカロネード砲を装備したボートの1隻に乗り込んで奪取し、17人を捕虜にした。

 イギリス軍は四方八方から攻撃を受け混乱に陥った。

 これを見たシドニー・スミス将軍は即座に撤退を命じ、フランス軍は撤退する船に砲弾とブドウ弾を放った。

 ランバート騎兵大尉の作戦は成功し、シドニー・スミス将軍の上陸作戦を打ち砕いた。

 この戦闘でのイギリス軍の損害は死者、負傷者、捕虜の合計150人だったと言われている。

※ナポレオン1世書簡集には「100人を殺害または負傷させ、30人を捕虜にし、36口径カロネード砲を搭載した大型船を拿捕した。」と書かれている。

 その後、シドニー・スミス将軍が指揮する戦列艦2隻はアッコ沖に停泊した。

 この時に入手した32ポンドカロネード砲は後に砲架が製作されてからアッコの突破砲台に配備されることとなる。

 ハイファ上陸作戦失敗の後、春分時の暴風が例年になく激しくなり、シドニー・スミス将軍はティーグルと指揮下の艦船とともにカルメル山の風下に避難することを余儀なくされた。

※ナポレオン視点では、シドニー・スミス将軍は悪天候と春分の風を避けるという名目で避難していったが、実際はアッコの占領は避けられないと考え、その場に立ち会うことを望んでいなかったとのことである。

アッコ要塞からの最初の出撃

 3月26日夕方、イギリス戦列艦の支援を一時的に失ったジェザル・アフマド・パシャは宮殿に戻って出撃を命じた。

 最も強固な城壁角の大きな古い塔の東面が崩壊したことを知ったジェザル・アフマド・パシャはフランス軍の砲台は脅威であると感じ、これを取り除こうとしたのである。

 しかし、フランス軍はアッコ要塞を包囲する時点でジェザル・アフマド・パシャ軍の出撃への対策を講じており、出撃は完全に失敗に終わった。

 通常、防御側は要塞の利を活かして戦うものだが、この要塞からの無謀な出撃の背景には、「ダマスカスに集結したであろう軍隊は早期にアッコに到着するだろう」とのジェザル・アフマド・パシャの予測があり、フランス軍の背後にダマスカス連合軍がいることを期待していたという事情もあった。

 一方でフランス軍の前進も堀の外縁壁(カウンタースケープ)からの射撃と城壁からの砲撃により阻止されていた。

 城壁前での攻防は一進一退を繰り返し、停滞しているように見えた。

シリア遠征軍の塹壕からの撤退

 3月27日午前3時過ぎ、フランスのシリア遠征軍がアッコ城壁前の塹壕からの撤退を開始した。

 そして水道橋の右側と突破砲台はクレベール師団が担当し、左側はレイニエ師団が担当することとなった。

 これまでクレベール師団とレイニエ師団の間にいたボン師団とランヌ師団は朝以降に後退して予備軍となる計画だった。

 塹壕からの撤退が完了されたことを確認したボナパルトは城壁への砲撃を命じた。

 午前4時~正午まで、迫撃砲と榴弾砲が配備された砲台から前線の敵攻撃地点を沈黙させるために照準の精度を上げつつ砲撃を行い、突破砲台も城壁角の塔を目標に砲撃を行った。

 そしてアッコ湾側の砦の砲台は、小帆船を追い払い、港に混乱を引き起こすことを目的として砲撃を行なった。

 これらの動きは地雷埋没作業と地下道開通作業が終わり、フランス軍の本格的な攻城が近づいていることを意味していた。

ダマスカスへの道の1つの確保

ダマスカスからアッコへの道

※ダマスカスからアッコへの道

 3月27日、ミュラ将軍は軽歩兵500人、騎兵200騎、大砲2門を率いツファット(Safed)へ向かった。

 その際、3月21日にツファットとベナト・ヤコブ橋の指揮官となったムスタファ・ベチル(Mustafa Bechir)を連れて行った。

 ミュラ旅団の目的はツファットの砦とティベリアス湖北のヨルダン川に架かるベナト・ヤコブ橋を占領して“周辺地域(コーカサスやアナトリア半島など)に住む様々な民族から構成される連合軍”が集結しているダマスカスへの道を監視することであり、もし砦が敵に占領され大砲が配備されていた場合、ベナト・ヤコブ橋を封鎖することにより敵を砦に封じ込めるよう命じられていた。

 ダマスカスからアッコへ通じている道は幾つかあるが、ベナト・ヤコブ橋を渡りツファットを通過する道が最短だと考えられた。

※ナポレオンは住民たちから、ツファットが古代ベツリア(Béthulie)であり、ユディト(Judith)がアッシリアの王(実際はアッシリアではなく新バビロニアの王)ネブカドネザル2世に派遣された軍司令官ホロフェルネス(Holopherne)を殺した場所であるという言い伝えを聞いている。ユディトやホロフェルネスは『ユディト記』の登場人物であり、『ユディト記』ではネブカドネザル2世はメディア王国との戦いに協力的でなかった諸地域に討伐のための軍隊を差し向けている。実際のネブカドネザル2世はエジプトと戦ってシリアを征服したがエジプト本土への侵攻は失敗した。その後、新バビロニア軍の敗北を見たシリアの諸王国は反乱を起こしたがネブカドネザル2世によってエルサレムを奪われ、鎮圧されている。ユディトとホロフェルネスの伝説は恐らくシリア諸王国の反乱時の出来事なのだろう。

 ミュラ将軍はこれらの任務を完了した後、アッコの野営地に帰還することとなる。