シリア戦役 22:アブヌードとコプトスの間の一連の戦闘
Combat of Coptos
アブヌードの戦い

※1800年代初頭のアブヌード周辺地図
ドゼー師団が1799年3月4日のソウハマでの戦いに完勝し、その数日後にアシュートに到着している頃、僅かな兵とともにケナ近郊に潜んでいたヤンブーのハッサンはちょうどクセイルから来た第2隊と合流し、1,500人の兵士で補強されているところだった。
この頃、シリア方面ではフランス軍はヤッファを包囲していた。
ヤンブー第2隊がようやく集結を完了した時、ドゼー将軍が数隻の船を置き去りにしており、強い北風のせいで川を下ることができないでいることを知った。
キフト(Qift)付近にいたフランスの船団は困難を伴いながらなんとかテーベとデンデラの間にあるアブヌード(Abnoud)村にたどり着くことができた。
※キフトは古代ではコプトスという名で呼ばれていた。
※アブヌード(Abnoud)は資料ではベヌート(Benout)と書かれている。
3月7日、ヤンブーのハッサンはクイタ(Kuita)にいるオスマン・ベイ・ハッサンに知らせて出発し、ナイル川に到着した。

※1799年3月7日、アブヌードの戦い
フランスの船団はすぐに激しい砲火で攻撃され、小帆船「イタリア軍」も大砲で応戦した。
ヤンブー守備隊は100人の犠牲者を出しつつもボートを拿捕し、必要だと判断した軍需品や大砲を陸に上げ、それに兵を乗せて小帆船「イタリア軍」に急行した。
ボートの接近を知った小帆船「イタリア軍」の指揮官であるモランディはブドウ弾の発射を加速させた。
しかし、船にはすでに多数の負傷者がおり、左岸から攻撃してくる農民も多数いたため、逃亡するために船を前進させようとした。
この時、小帆船「イタリア軍」には人員がほとんどおらず、風も非常に強かったため逃亡に失敗した。
右岸からはヤンブー守備隊、左岸からは農民たちが押し寄せてきた。
モランディは降伏せず、最後の抵抗を試みた。
小帆船「イタリア軍」の火薬に火を点け、ナイル川に身を投じたのである。
ナイル川に入った瞬間、モランディは銃弾と石の雨に襲われ、苦しみながら息を引き取った。
フランスの船団の他の舟もヤンブー守備隊によって虐殺された。
その後、アブヌードの戦いでの惨事の知らせを聞いたベリヤード将軍は行軍を急いだ。
コプトスの戦い

※1799年3月8日、コプトスの戦い
アブヌードの戦いでの勝利はヤンブー守備隊の士気を上げた。
ヤンブーのハッサンは「フランス軍の壊滅は確実である」と発表し、そして近くにはベリヤード旅団が接近しつつあったため「彼等を打ち破るつもりである」ことを告げ、キフト(コプトス)に向かった。
1799年3月8日朝、ベリヤード将軍はエル・カムーテ(El Kamouté)でナイル川を渡り、キフト(古代のコプトス)の近くに到着した。
※エル・カムーテ(El Kamouté)とは、恐らくルクソールを過ぎた対岸の地域であるアル・カムーラ(Al Qamoula)だろうと考えられる。
その時、ヤンブーのハッサン率いる多数の歩兵3個縦隊と太鼓を打ち鳴らし旗を掲げて現れる300~400人以上のマムルーク軍を目撃した。
エドフでナイル川を渡ったハッサン・ベイ・ジェッダウイの軍がちょうど合流したところだった。
この時、ベリヤード旅団は方陣を形成していたが、大砲は3ポンド砲1門しか有していなかった。
ヤンブーのハッサン率いるヤンブー守備隊の内の1隊がベリヤード旅団に接近してきた。
ヤンブー守備隊の歩き方は自信に満ち溢れていた。
ハッサンはフランスのライフル兵を見ると、襲い掛かって喉を切り裂くよう勇敢な部下100人に命じた。
ライフル兵たちは恐れるどころか、戦闘態勢を整えて敵を待ち構えていた。
白兵戦が開始されたが、勝敗は不確かだった。
その後、第20騎兵連隊の竜騎兵約15人が全速力で突撃し、戦闘員たちを分断し、ヤンブー守備隊の数人をサーベルで切り裂き、その間、白兵戦に参加していた騎兵たちは再び武器を手に取り、残りをバラバラに切り裂いた。
ヤンブー守備隊の50人以上が戦場に残っていた。
副官のラプラード(Laprade)はその内の2人を殺害し、メッカの旗を2旈奪い取った。
この戦闘中、ヤンブー守備隊の残りの2隊が接近してきていたが、ベリヤード将軍の狙いを定めた大砲の射撃により引き返すことを余儀なくされた。
そこへマムルーク騎兵が(恐らく撤退支援のために)方陣の背後に回り込んで攻撃を仕掛けるふりをした。
ベリヤード将軍は25人の銃兵を派遣してマムルーク軍を長時間阻止させ、ヤンブーのハッサン軍を追撃した。
アブヌードへの追撃戦
ベリヤード将軍は行軍を続け、迷路のようになっているいくつかの溝を渡り、運河を占領した後、アブヌードの近くに到着した。
アブヌードからの砲撃はフランス兵に向けてすでに発砲しており、ベリヤード将軍は非常に広く深い運河の向こう側から大砲4門を設置している敵の位置を認識した。
そして騎兵を攻撃縦隊に編成し、方陣が運河を渡り敵を翻弄し始めた瞬間にこれらの部隊を撤退させるよう命じた。
その瞬間が訪れ、騎兵は突撃した。
そして騎兵が砲弾を持ち去ろうととしたその時、素早く後退していたマムルーク軍が全速力で騎兵に突撃した。
フランス騎兵は驚かず、冷静に対応した。
立ち止まり、激しいマスケット銃の射撃を行なった。
マムルーク軍は数人の兵士と馬をその場に残して速やかに撤退することを余儀なくされた。
騎兵は方向転換し、大砲に突進し、ヤンブーのアラブ人約30人を虐殺し、捕らえて敵の元へ向かわせた。
ヤンブーのハッサン軍はモスク、大型船、村の数軒の家、特に壁に銃眼をつけたマムルークの邸宅に逃げ込み、そこに所持品や軍需品、食料の弾薬をすべてを運び込んだ。
アブヌード包囲戦
ベリヤード将軍は旅団を2個縦隊に分割して片方をエップラー(Eppler)大佐に率いさせた。
ベリヤード将軍は1つ目の縦隊を率いて大きな邸宅を包囲し、エップラー大佐率いる2つ目の縦隊を村に侵入させた。
そしてヤンブーのハッサン軍の立て籠もるモスクや家屋を攻撃し、占領しようとした。
ヤンブー守備隊はあらゆるところから砲撃していた。
フランス軍はボートに乗り込み、船内の者すべてを殺害し、村ではエップラー大佐がモスク内に突入しようとしたが、火災により撤退を余儀なくされた。
その後、モスクは火災で焼け落ち、モスク内に立て籠もっていたヤンブー守備隊は炎の中で死亡した。
村は一瞬にして廃墟となり、通りは死者で溢れかえった。
一方、大きな邸宅は1つ目の縦隊によって包囲されているものの未だ占領を拒んでいた。
包囲軍はすべての出口から大きな門に到着した。
工兵たちが左側の壁を崩している間、別の工兵たちが斧で大きな門を破壊し、騎兵たちは軍需品を保管している建物に隣接している小さなモスクに火を放った。
火は火薬に燃え移ると爆発し、中にいたヤンブーのアラブ人25人が空中に吹き飛ばされ、そして建物の壁は崩壊した。
エップラーは直ちに部隊を集結させ、ライフルを右手で持ちサーベルを口で咥えて裸で邸宅の入り口を守ろうとするヤンブー守備隊の抵抗にもかかわらず、広い中庭を占領することに成功した。
その後、ほとんどの動物は狭い場所に隠れ、数時間後に殺された。
そしてこの日、フランス軍は小帆船「イタリア軍」を除くすべての船、大砲9門、2頭の家畜を取り戻した。
コプトスの戦いにおけるヤンブーのハッサン軍の損失は、指揮官であるヤンブーのハッサンを含む死者1200人と多数の負傷者であり、対するフランス軍の損失は騎兵隊長ブリアンド(Bulliand)を含む死者30人、負傷者30人だったと言われている。
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