シリア戦役 47:第3次アッコ要塞突入作戦の準備とイタリア方面軍のアッダ川への撤退
Preparations for the Third Acre Fortress Assault Operation

第3次アッコ要塞突入作戦の準備

 1799年4月20日、ボナパルトはアッコ要塞への3度目の突入作戦を実行するための準備を命じた。

 坑道を大きな古い塔の下にまで前進させ、大きな古い塔とその左側にある塔の対壕である第2塹壕線と第3塹壕線の強化と拡張、そして被害を受けた砲台の修理と新たな砲台の建設の継続を命じたのである。

 塹壕線の強化は重要だった。

 もし塹壕線が突破された場合、坑道作業員は撤退を強いられ、計画は延期を余儀なくされてしまう。

 そのため塹壕線に強力な兵力を配置し、第2と第3塹壕線の繋ぎ目に歩兵陣地を確立し、第2塹壕線をサントン(墓地)の先に延ばして第1塹壕線と繋ぐことにより連携をよりスムーズにする必要があった。

 そしてこれらの塹壕線を支援するためにディジョン(Digeon)砲台とグリゼ(Grizet)砲台は夜間に30~40発を発射し攻撃前線の前の敵に全砲火を集中させ、部隊と銃眼を粉砕するよう命じられた。

 被害を受けた砲台は修理され、新たな砲台であるマンジャン(Mangin)砲台とペティニエ(Pétignier)砲台の建設が進められた。

 ペティニエ(Pétignier)砲台は21日夜明けまでに大砲が配備され、発砲準備が整う手筈となっていた。

※ディジョン(Digeon)砲台、グリゼ(Grizet)砲台、マンジャン(Mangin)砲台、ペティニエ(Pétignier)砲台とあるが、具体的な位置は不明である。しかしディジョン(Digeon)砲台とグリゼ(Grizet)砲台は第1、第2、第3塹壕線を支援する砲台であるため、これらの塹壕線よりも後方に位置していると推測できる。

イタリア方面軍総司令官の交代

左:バルテルミー・ルイ・ジョゼフ・シェレール将軍、右:ジャン・ヴィクトール・マリー・モロー将軍

※左:バルテルミー・ルイ・ジョゼフ・シェレール将軍、右:ジャン・ヴィクトール・マリー・モロー将軍

 4月中旬頃、シェレール将軍率いるイタリア方面軍はオリオ川の防衛線を放棄してアッダ川に到着した。

 アッダ川はミンチョ川やオリオ川よりも川幅が広く、岸も急峻だったため防衛に適していると考えられた。

 シェレール将軍はすでにアッダ川にチザルピーナ共和国軍を呼び寄せており、これと合流してアッダ川に防衛線を構築した。

 イタリア方面軍左翼を指揮するセリュリエ将軍は師団左翼で要塞化された橋頭保を有するレッコ、インベルサーゴ(Imbersago)、トレッツォ(Trezzo)に布陣してアッダ川上流域を守り、師団右翼はカッサーノまで伸びていた。

 アッダ川左岸には塹壕を備えた橋頭保があり、砦には砲兵隊が配置されていた。

 ヴィクトール師団とグルニエ師団はトレッツォの後方で後衛を形成し、大規模な騎兵隊がカッサーノの後方に配置され、必要に応じて突撃できるよう準備を整えていた。

 イタリア方面軍右翼を指揮するデルマス将軍はロディとピッツィゲットーネを占領し、アッダ川沿いに展開していた。

 しかし疲労と負傷で衰弱したデルマス将軍は師団の指揮を交代して治療を受けることを余儀なくされた。

 体力を回復するためには長い休息が必要と考えられたため、デルマス将軍はフランスに帰還した。

 シェレール将軍は「ロシア・オーストリア連合軍はミラノへの主要道路上にあるカッサーノを攻撃してくるだろう」と考えていたが、レッコからピッツィゲットーネまでの約100㎞もの長大な戦線に約25,000人の兵力を分散配置させていた。

 シェレール将軍はここで勝利してロシア・オーストリア連合軍の進軍を阻止できると考えていた。

 しかし兵士たちはシェレール将軍の連戦連敗に憤りを感じ、シェレール将軍に対する不満が蓄積していった。

 シェレール将軍に対する非難は広まり、軍の統率も取れない状況に陥った。

 こうした状況を鑑みてシェレール将軍は総裁に総司令官の交代を願い出て総裁はこれを受理した。

 そして4月21日、この苦境を乗り越える必要があるにもかかわらずモロー将軍はイタリア方面軍総司令官への辞令を受け入れた。

 圧倒的数的優位を誇る敵に勝てる見込みはほとんどない状況だった。

イタリア方面を進軍するスヴォーロフ元帥率いる連合軍の状況

1799年4月20日、イタリア方面を進軍するスヴォーロフ元帥率いる連合軍とアッダ川でのフランスの防衛線の構築状況

※1799年4月20日、イタリア方面を進軍するスヴォーロフ元帥率いる連合軍とアッダ川でのフランスの防衛線の構築状況

 4月15日、ロシア・オーストリア連合軍の最左翼であるクレナウ将軍はオーストリア軍正規兵約3,800人に加え、約4,000人の武装農民を率いてフェラーラを包囲していた。

 フェラーラではチザルピーナ共和国議員ベルテッリとラポワント(Lapointe)少将が正規兵700人、市民衛兵約2,000人が立て籠もっていた。

 クレナウ将軍は降伏を呼び掛けたが、ベルテッリとラポワントは降伏を拒否した。

 この時フェラーラに向かったはずのモンリシャール師団はウルバノ要塞を包囲しているオーストリア軍を追い返し、ボローニャでナポリ方面軍との連絡線を確立しようとしていた。

 4月19日、クレナウ将軍はフェラーラの包囲を継続するだけの兵力を残してポー河の巡回を開始し、19日にラゴスクロ、21日にミランドラ(Mirandola)要塞、23日にマントヴァ要塞の南にあるボルゴフォルテを占領した。

 4月17日、ブレシア占領命令を受けた連合軍右翼を指揮するクレイ将軍はブレシアに向かった。

 この時、最右翼であるローゼンベルク師団はアルプス山脈の中をブレシアに向かって進軍し、左翼はクレモナを占領するよう命令を受けていた。

 4月20日、クレイ将軍麾下のオット将軍とバグラチオン将軍がブクレ(Boucret)旅団1,200人が守るブレシアの前に到着した。

 数時間にわたる砲撃の後、ブクレ旅団は降伏を決定し、ブレシアは翌21日に明け渡された。

 20日、ホーエンツォレルン旅団は戦闘を行わずにクレモナを占領し、アッダ川右岸側に残されていたフランス軍はシェレール将軍のいるアッダ川の背後に撤退した。

 スヴォーロフ元帥はシェレール将軍が率いていたイタリア方面軍とマッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍を分断することを考えていたためポー河沿いからではなくアルプス山脈方面からアッダ川を渡河することを計画していた。

 そのためアルプス山脈方面に兵力を偏らせてアッダ川に向かって進軍した。

 この時、スヴォーロフは統率の観点からオーストリア軍の前方で偵察と警備を担当したコサック部隊を例外としてロシア軍とオーストリア軍の部隊を分けて軍を運用したと言われている。

エジプトからの輸送船団第二陣の到着と第三陣の出発

 4月21日、ボナパルト将軍率いるシリア遠征軍によるアッコ要塞への突入準備は順調に進んでいた。

 作業員は24時間坑道を掘り続け、遂に塔の下にまで達しており、翌22日には装薬孔を穿孔する作業に取り掛かれる予定となっていた。

 そして作業員たちは4月23日には爆破できることを望んでおり、ヤッファで降ろされた24ポンド砲もその日に到着予定となっていた。

 21日、輸送船団の第二陣がシリアに到着し、アレクサンドリアで準備してダミエッタに1ヶ月駐留していた輸送船団の第三陣が大型砲と迫撃砲を満載して出発した。

 そのため砲弾も継続して確保されている状況となった。

ペレー戦隊の活躍

 アッコとロードス島の間の巡航に向かって以降、4月21日までにペレー戦隊はロードス軍の輸送隊を襲って、2つの艦を占領した。

 艦には400人の兵士と補給将校、野砲6門、そして150,000フランの財宝が積まれていた。

 ペレー少将の活躍は地味ではあったが、着実な効果を上げていた。

ヤッファからアッコへの重砲輸送の遅れ

 4月22日、アッコ守備隊は南側の海岸へ向かって出撃する門を隠すため、門の前にある練兵場(の形をしたレダン)を整備した。

 そして4月23日、遂にランヌ師団の各部隊に突入作戦の指示が出された。

 しかし、24ポンド砲も18ポンド砲もアッコに到着しなかった。

※重砲が23日に到着しなかったのは、恐らく、カルメル山でフランス軍の連絡線を妨害していたアラブ人たちが原因だろうと考えられる。大砲をヤッファに降ろしたのが15日、そこから23日の到着予定まで8日間である。そのため、この時点で重砲はまだヤッファとタントゥーラで動かせずにいたのだろう。

 24日午前4時から砲撃を開始して配置に付き、夜に塔の地下を爆破して突入作戦を開始するのである。