シリア戦役 37:ヴィアル旅団によるスール(ティルス)征服とドナウ軍及びオブザベーション軍のライン川への撤退
Conquest of Tyre by General Vial

ヴィアル将軍によるティルス遠征

1799年4月上旬、ヴィアル将軍によるスール遠征

※1799年4月上旬、ヴィアル将軍によるスール遠征

 1799年4月2日、アッコ要塞で地下での攻防が繰り広げられている頃、ジェザル・アフマド・パシャは古代のティルスであるスール(Tyre)の住民たちを扇動して武装させ、フランス軍に敵対させることに成功していた。

※かつてフェニキア人の島だったティルスはアレクサンドロス大王が紀元前332年1月~7月に包囲し、海を埋め立てて攻略した島である。現在はアレクサンドロス大王が埋め立てた地形が残されているため陸続きとなっている。フェニキア人のDNAハプログループ(Y染色体)はE系統であり、古代縄文人のDNAハプログループ(Y染色体)の多くはD系統だということが分かっている。D系統とE系統は同じDNAハプログループ(Y染色体)DE系統(YAP遺伝子)から分岐したとされている。そのためフェニキア人と縄文人は同じ祖先を持っている可能性が高く、もし縄文時代初期~中期の縄文人がDE系統ならばフェニキア人の祖先は縄文人という可能性も否定できない。縄文人は紀元前14,500年頃~紀元前1,000年頃の日本人とされており、フェニキア人は紀元前3,000年~紀元前146年(カルタゴの滅亡)までエジプトやシリアなどの地中海に面した地域で交易によって繁栄した民族である。余談だがカルタゴの将軍で有名なハンニバル・バルカもフェニキア人である。

 4月3日夜明け、ヴィアル将軍は敵対するスールを掌握するためにアッコ前の野営地を出発して北上した。

 ヴィアル将軍は砲兵が通れない道を11時間歩いてスールに到着した。

 途中、ブラン岬(Cap Blanc)の峠の頂上で、150年前にモトゥアリー(Motouàly)族によって建てられジェザル・アフマド・パシャによって破壊された城の遺跡を発見した。

※ブラン岬とは現在のロシュ・ハニクラ(Rosh HaNikra)岬のことである。

 ブラン岬を過ぎて平原に入ると、砦の跡と2つの寺院の廃墟が目に入った。

 ヴィアル旅団が近づくと、スールの住民たちは恐怖に駆られて逃げ去った。

 ヴィアル将軍はスールの住民たちを安心させるために、敵対的な態度を捨てて街に戻れば平和と保護が約束されること、トルコ人とキリスト教徒も保護されていることを伝えた。

 スールの住民たちは戦いを望まず、ヴィアル将軍の言葉に従った。

 その後、ヴィアル将軍は従えたモトゥアリー族の守備隊200人をスールに残し、旅団及びモントゥアリー族の代表団とともに5日にアッコ前の野営地に戻った。

カール大公軍のシュヴァルツヴァルトへの接近とジュールダン将軍のパリへの出発

 4月2日、ライン方面ではカール大公軍の偵察隊がドナウ軍中央が守るシルタッハとシェランベルクに接近していた。

 そのためジュールダン将軍は4月3日に攻撃される可能性を考え、ドナウ軍のすべての将軍に警戒を怠らないよう書簡を送った。

 2日夜、敗北のストレスからかジュールダン将軍は自病の胃炎に襲われたが、3日の報告を待った。

 報告によると、事態は安定しているということだった。

 そのため参謀長であるエルヌーフ将軍にドナウ軍の指揮権を委譲してホルンベルクの本部を離れストラスブールに向かった。

 そしてストラスブールへの道中、パリからの伝令と会い、パリ行きの許可とマッセナ将軍への暫定軍司令官の任命状を受け取った。

ドナウ軍とオブザベーション軍のライン川への撤退

1799年4月上旬、ドナウ軍とオブザベーション軍のライン川への撤退

※1799年4月上旬、ドナウ軍とオブザベーション軍のライン川への撤退

 4月4日、ドナウ軍の指揮権を委譲されたエルヌーフ将軍はカール大公軍の接近にともなってケールとブリザッハ(Brisach)への撤退を開始していた。

 そして4月5日にライン川を越え、ライン川右岸にはオッフェンブルク(Offenburg)とオーバーキルヒ(Oberkirch)にのみ部隊を残した。

 この時、カール大公は軍を率いてドナウエッシンゲンへ進軍していたが、「シュヴァルツヴァルトからフランス軍がすでに撤退した」との知らせを受けてそこで進軍を停止させた。

 ベルナドット将軍率いるオブザベーション軍10,000人は一発の銃弾も撃つことなくマンハイムを占領し、その後、フィリップスブルク(Philippsburg)を厳重に封鎖していた。

 ベルナドットはフィリップスブルクで2,000人の守備隊とともに立て籠もっているザルムのラインラント伯に何度も降伏勧告を行ったが、ラインラント伯はこれを無視し続けていた。

 ところがドナウ軍がライン川を渡ったとの知らせがベルナドット将軍の元に届けられた。

 そのためベルナドットはオブザベーション軍の大部分を率いて再びライン川を渡って撤退することを余儀なくされた。

 この日、マッセナはストラスブールへの召集命令を受け取り、ヘルヴェティア軍の指揮権を一時的にメナード将軍に委譲してザンクト・ガレン(Saint-Gallen)を出発した。