シリア戦役 56:第5次アッコ要塞突入戦
5th Battle of Acre Fortress

「Kleber at the assalt of Acre(アッコ攻勢におけるクレベール)」

※「Kleber at the assalt of Acre(アッコ攻勢におけるクレベール)」

ペレー将軍率いるフリゲート艦隊の活躍

 アッコ要塞での戦いの2日目(1799年5月8日)の終わり、野営地に到着するとガンテオム少将から「ペレー少将率いるフリゲート艦隊がヤッファ沖を巡航中にトルコ艦隊から分離されていた小型船2隻を拿捕した」という知らせが届けられた。

 ペレー少将はこれらの小型船から野砲6門、相当量の装備と食料、現金15万フランを奪い、兵士400人、そしてトルコ艦隊の補給将校を捕虜にしたとのことだった。

 この補給将校はロードス島艦隊に搭乗していた兵力、弾薬、物資のリストを所持していた。

 彼の供述と返答から、この艦隊は計画されていたアレクサンドリア遠征の一部であり、ジェザル・アフマド・パシャが陸路で試みるはずだったエジプトへの遠征と連携していたことは明らかだった。

 しかしアッコへの予期せぬ攻撃の知らせを聞くと、この遠征隊(ロードス島軍)から派遣可能なものはすべてアッコの救援に送られたとのことだった。

 つまりアッコ要塞への増援部隊はロードス島軍であることをフランス軍はこの時点で知ったのである。

 この情報は悲報だったが、ある意味朗報でもあった。

 アッコ要塞内の戦力が増強された一方、このアッコ要塞で戦っている限りロードス島艦隊がエジプト沿岸に襲来することが無くなったのである。

戦列艦「テセウス」のヤッファ沖への派遣

 このヤッファ沖での事件の報告を受けたシドニー・スミス将軍は、戦列艦「テセウス」を指揮するミラー艦長にフランスのフリゲート艦隊を撃退するためにヤッファ沖へ向かうよう命じた。

 その後、テセウスは5月9日にアッコを旅立ち5月10日にヤッファ沖に到着した。

フランス軍への物資供給の一部遮断

 1799年5月9日、前日の戦いによってフランス軍の強さに対する周辺部族の評価は大きく揺らいだと判断したシドニー・スミス将軍は、レバノン山地の諸侯や首長、そしてドルーズ派の首長たちに回覧文を送り、フランス軍陣地へ向かう補給を阻止するよう強く促した。

 シドニー・スミス将軍の判断は正しく、期待した通りの結果をもたらした。

 2人の使節がシドニー・スミス将軍の元に派遣され、これまで侵略者(フランス軍)に供給されていた補給を遮断する措置が講じられたことを伝えた。

 これによりフランス軍への物資の供給の一部が遮断されることとなった。

総力戦の準備

 ボナパルトはツファットでダマスカス方面を警戒しているミュラ将軍にアッコに来るよう命じた。

 ボナパルトの計画は、翌10日未明にアッコ前にいるシリア遠征軍のほぼ全軍とクレベール師団で総攻撃を仕掛けることだった。

 クレベール師団は間もなく到着すると考えられ、休息後に突破口へ前進し、要塞内に侵入して街を制圧するのである。

 この総攻撃には塹壕を掘る作業員や工兵の一部もクレベール師団に組み込まれることとなっており、残りの作業員、工兵、道具などは塹壕の後方へ集めるよう命じられた。

 ボナパルトにとって次の突入作戦は、背後を警戒するクレベール師団や工兵をも狩り出した本当の意味での総力戦であり最後の希望だった。

アッコ要塞からの8度目の出撃

 5月9日未明、前日の戦いでニザーム・ジェディードの連隊は冷静さを欠き、帽子を判別できずにイギリス軍に斬りかかるなどしたため非難を浴びていた。

 この連隊の司令官であるソリマン・アガはシドニー・スミス将軍からフランスの第3塹壕を占領せよとの命令を受け、この機会を利用して連隊の失った名誉を回復しようと試みた。

※第3塹壕とは、元々はアッコ側が築いた塹壕であり、突破口を塞ぐように掘られた城壁のすぐ外側の塹壕のこと。

 5月9日夜明け、ロードス島軍は、海の門と宮殿の両方のラベリンから進軍を開始した。

 フランス軍による砲撃が続けられている中、フランス軍の砲台を奪取し包囲を解かせようとしたのである。

 この攻撃によりソリマン・アガは第3塹壕を確保することに成功し、更なる名誉を求めて第2塹壕線への攻撃を開始した。

 旗をいくつか失い第2塹壕線を確保することはできなかったが、城壁や塔を長く掌握し、フランス軍の砲台を占領して大砲4門を沈黙させ、その他の物的損害を与えた。

 しかし、フランス軍はアッコ軍を側面から包囲した。

 要塞から出撃してきた3,000人の部隊は要塞から切り離されて包囲されたため降伏を余儀なくされた。

 その他に、この戦いでアッコ軍はラベリンと塹壕で死傷者3,000人の損害を出し、要塞に帰還できたのは僅か2,000人だった。

 この戦いの結果は再び戦況を一変させた。

 アッコ軍の間には動揺が広がり、新たな希望がフランス軍の熱意を掻き立てた。

第5次アッコ要塞突入戦

「サン・ジャン・ダクルのクレベール将軍(Le Général Kleber à Saint-Jean-d'Acre)」。テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault) 画。19世紀

※サン・ジャン・ダクルのクレベール将軍(Le Général Kleber à Saint-Jean-d'Acre)」。テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault) 画。19世紀

 フランス軍がアッコ軍による8度目の出撃を迎え撃っている中、クレベール将軍が師団とともに到着した。

 クレベール師団は休息を取り、アッコ要塞への突入のための準備を行った。

 そして5月10日午前2時、ボナパルトは突破口の麓に赴き、この攻撃隊の指揮官となったベルティエ将軍に新たな攻撃を命じた。

1799年5月10日午前2時、ナポレオンがアッコ城壁前の突破口の麓に赴き新たな攻撃を命じている場面。

※1799年5月10日午前2時、ナポレオンがアッコ城壁前の突破口の麓に赴き新たな攻撃を命じている場面。

 この攻撃隊にはベルティエ将軍の側近が多数含まれていた。

 各師団の斥候、第15歩兵半旅団、第19歩兵半旅団、第2軽歩兵半旅団の銃兵が突破口に向かって前進した。

 ボン将軍とクレベール将軍は敵陣を奇襲し殲滅した。

 しかし、この攻撃の最中、歩兵の先頭に立っていたボン将軍は突破口の麓で致命傷を受けて戦線離脱を余儀なくされ、クレベール将軍は要塞内に侵入できたものの突破できない新たな塹壕線に阻まれ、戦闘開始から3時間後、撤退を余儀なくされた。

 フランス軍はこの戦闘で町の一部を占領することに成功し、そこにバリケードを築いた。

 砲台は終日砲撃を継続していた。

 夕方4時、第25半旅団の前衛が到着し、攻撃開始の栄誉を願い出て認められた。

 この勇敢な兵士たちは突撃を開始したが、アッコ軍は第2、第3の防衛線を築いており、更なる準備なしには突破できなかった。

 そのため撤退が命じられた。

 5月8日~10日の間に行われた3度の攻撃で、フランス軍は約200人が戦死し、500人が負傷したと言われている。