シリア戦役 23:ヤッファ攻囲戦の戦後処理とヤッファの虐殺
Jaffa Massacre
ヤッファ攻囲戦の戦後処理と街の占領
1799年3月8日、ヤッファの制圧を終えたボナパルトは、軍の再編成とヤッファの街の秩序の回復に努めた。
学者たちはモスクを清め、いつも通り祈りが行われ、街は徐々に静まり始めた。
フランス軍はフランス式の4インチ砲と6インチ榴弾砲を合計50門(その内、野戦砲30門)とその弾薬を手に入れた。
その他にヤッファ防衛のための30門の大砲は青銅製であり、口径は様々だった。
そのため40門の野戦砲はシリアに集結していたオスマン帝国軍のものだと考えられた。
オスマン帝国軍の将校たちはハンジャール(khanjar)短剣とハンドガンで武装し、従者たちはトルコのエスコペット(Escopette)銃と高級ライフル銃で武装していた。
略奪によってヤッファが被った損失は数百万の価値があると推定されるが、兵士たちはすべてを非常に安く売り払った。
ヤッファの人々は略奪品をその価値の10分の1で買い戻したと言われている。
その他に、コーヒー、砂糖、タバコ、毛皮のコート、あらゆる種類のショールが多く発見された。
ヤッファ占領以降、フランス兵の装いが少し東洋風に変化したのはこれが理由である。
ヤッファ守備隊の捕虜1,600人~1,700人は戦利品や軍旗などを持ってエジプトに送られると知らされていた。
アブドラ・アガは預言者ムハンマドの衣装に変装し、身を隠していた。
彼はヤッファを出発し、ボナパルトの天幕に到着して跪いた。
アブドラ・アガは命を奪われることなく捕虜としてカイロに送られることとなった。
降伏したエジプト人たちはラクダ使い、従者、兵士の合計700人であり、彼らもエジプトに送られることとなった。
エジプト人たちは、兵士たちの足元にひれ伏し、「メスリ(Mesri)。メスリ(Mesri)。」 と訴えかけた。
※メスリ(Mesri)とはエジプト人やエジプト語という意味。
フランスの兵士たちには「フランシアス(Français)。フランシアス(Français)。」と言っているように聞こえたと言われている。
守備隊の兵士の内500人は殺されることも捕虜となることもなく住民を装って難を逃れた。
住民を装って難を逃れた兵士500人は、後にヨルダン川を渡るための安全な通行許可を得た。
伝染病の恐怖の始まり
3月8日、ヤスール(Yassour)村に設置された救護所を担当する軍医オリオール(Auriol)はボナパルトに報告書を提出し、一部の兵士が発症した病気の状況を説明した。
病人は屋根があるだけのモスクの柱廊玄関で横たわっており、治療に用いられる強壮剤と防腐剤の組み合わせによる治療の効果が期待できないと説明し、病院、毛布、医薬品などが必要だと訴えた。
そして伝染病が疑われることを伝えた。
この日、ラムレの野営地にいた軍医デジュネットはヤッファの本部に来るよう呼び出しを受け、夕方に到着した。
3月9日朝、ヤスール村の救護所からヤッファに設置された病院へ患者を移動するよう命じられ、すぐに実行に移された。
ヤッファの虐殺

※1815年に出版された、William Combe著「The Life of Napoleon: A Hudibrastic Poem in Fifteen Cantos」の挿絵。「エジプトの囚人の射殺」。参考資料:大英博物館所蔵のものを使用。タイトルが「エジプトの囚人の射殺」であり、絵の中にピラミッドやオベリスクのようなものがあるが、アッコ包囲戦直前の挿絵のためヤッファの虐殺を描いている場面だと考えられる。恐らく作者はエジプトとシリアは同じようなものとイメージしていたのだろう。
3月9日、ボナパルトはヤッファ守備隊の捕虜の中の砲兵将校20人をカイロへ連行し、その他の捕虜をヤッファの海岸まで連れて行き、誰も逃げないように予防措置を講じた上で射殺するよう命じた。
ボナパルトは降伏すれば助命するという降伏条件を守らず、無抵抗のエル・アリシュ守備隊とヤッファ守備隊、そしてヤッファの長であるアブドラ・アガを含む合計約2,500人をこのヤッファの海岸で殺害したのである。
エル・アリシュ守備隊が殺害されたのはエル・アリシュ砦包囲戦での降伏条件を破ったのが理由だが、助命が約束されたヤッファ守備隊が殺害されたのは、フランス軍の食糧事情だと言われている。
ただでさえ輸送隊が砂漠地帯の行軍で遅れ、ほぼ現地調達のみで進軍しているのにもかかわらず、ヤッファからカイロまでの約450㎞もの距離を連行する必要があった。
捕虜を養うには食糧が必要であり、捕虜の人数はおよそ2,000人だった。
恐らく、フランス軍の兵站事情を考慮すると捕虜を養うのは困難と考えたか、捕虜を養うのは無駄と考えたのだろう。
虐殺の後、ヤッファの住民たちには病気で亡くなった遺体を海岸に埋めたと説明し、住民たちは虐殺があったことを知らなかったと言われている。
エルサレムへの宣言
フランス軍の次なる目標はジェザル・アフマド・パシャの本拠地であるアッコ(フランスではサン・ジャン・ダクル(Saint-Jean-d’Acre)と呼ばれている)だった。
しかし、聖地エルサレムはまだフランスの勢力下には無く、軍が配備されていた。
もしエルサレムの軍がヤッファとガザの間の連絡線を脅かしてきた場合、アッコからの撤退を余儀なくされる可能性があった。
そのためボナパルトはエルサレムの指導者に書簡を送った。
その書簡には、フランス軍はガザ、ラムレ、ヤッファを占領したがイスラム教の友人であること、エルサレムの住民は平和か戦争かを選ぶことができること、もし平和を選ぶならヤッファに代表者を派遣し、フランス軍に対して何もしないことを約束させること、もし戦争を選ぶのであれば、私は自ら戦争を仕掛けるだろうことが書かれていた。
アッコからの輸送船団の到着と鹵獲
3月9日、伝染病の恐怖が将軍たちの間で広がりつつある中、2日前の3月7日にアッコを出発したヤッファがフランス軍によって占領されたことを知らないオスマン帝国輸送船16隻がヤッファ港に停泊した。
フランス軍はすぐにこれらの輸送船を攻撃して鹵獲した。
輸送船には米、小麦粉、油、火薬、弾薬が積載されていた。
アンドレオシー将軍、デュロック大佐、エメ大隊長がこの輸送船への攻撃で活躍したと言われている。
病名の特定
輸送船団の中には、ヤッファ守備隊の負傷者の治療のために派遣されたコンスタンティノープルの軍医ムスタファ・ハッジ(Mustapha Hadji)が乗船しており、ヤッファの港で逮捕されていた。
オスマン帝国の軍医を逮捕したとの報告を受けたボナパルトだったが、忙しかったためムスタファをデジュネットの元に送った。
夕方、ボナパルトは軍医たちを呼び集め、ムスタファにアッコで何が起こっているのか、そこで流行している可能性のある病気とその原因について質問した。
デジュネットによると、ムスタファはアッコの内情については曖昧な返答をし、病気については長々と内容の無いことを話したため、コンスタンティノープルの話題に変えて興味深く満足のいく返答を得たとのことだった。
デジュネットが執筆し1802年に出版された「東洋軍の医療史(Histoire médicale de l'armée d'Orient)」にはこれ以降、ペストという病名が出てくるため、ムスタファからコンスタンティノープルやアッコなどでペストが発生してる、もしくは発生していたことを聞いたのではないかと考えられる。中世に大流行したペストだったが、オスマン帝国領(エジプト含む)では19世紀の始めまで有効な対処をしておらず、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国からの船を警戒していたという背景もあった。
ダミエッタとヤッファ間の海上連絡線の構築とクレベール師団の前進

※1800年代初頭のナブルス周辺地図
ボナパルトはヤッファを占領し港を手に入れたことによりダミエッタとの物流を構築させようとした。
これにより砂漠を越えての輸送のみに依存する必要はなくなり、前線への物流速度が上昇することが見込まれた。
ダミエッタからの物流の指揮はガントーム少将が執ることとなった。
レイニエ師団はラムレに到着し、隣村のロードも占領した。
これによりカティアから送られてきた物資が到着し、ガザやヤッファなどで現地調達したものも合わせてフランス軍の物資は潤沢となった。
レイニエ師団がエルサレムへの道があるラムレとロードを占領したことにより、約40㎞離れたエルサレムへの圧力が増した。
加えて、ラムレとロードはアッコ方面の山沿いからの攻撃の防衛にも適している地点だった。
この日、クレベール師団はメスキ(Meski)の森へと出発した。
※第三回十字軍の1191年9月7日に起こったアルスフの戦いの時、リチャード獅子心王軍は海を背後に、サラディン軍はアルスフの森を背後に布陣した。メスキはアルスフ(Arsuf)村の内陸側の森の中に位置しているため、ナポレオンの言うメスキ(Meski)の森とは、当時シリア最大の森だったアルスフの森だろうと考えられる。
関連する戦いRelated Battle
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