マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 09 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 09

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)終盤 01
Siege of Mantua ( July 1796 ) Late Stage 01

 1796年7月18日、両軍の捕虜交換が行われた。

 捕虜交換時、カント・ディールは潰れた弾丸をフランス軍が使用することについて不平を言った。

 フランス軍としては弾丸が跳弾したことによって潰れただけで潰れた弾丸を使用したわけではなかったが、カント・ディールはフランスの大砲から放たれた砲弾を再利用できないことへの不満をぶつけたのだろうと考えられる。

 同日、フランス軍は前日に実行するはずだった作戦計画を修正し、再び攻撃の準備を整えた。

 第1部隊としてミュラが強力な2個大隊約1,000人を率い、攻撃開始の数時間前にシャセループ工兵司令官によって端から端まで配置され設置されたボート橋でミリアレットの塹壕のある島に渡り、道に沿って前哨基地に向かい占領した後、ミリアレットの塹壕地帯の左側面を攻撃して柵を壊し銃剣突撃で占領し、そこにフランス軍の前哨基地を形成する。

 ジラウド少将が指揮する第2部隊は、2個大隊約600人で構成され、チェレセから始まる塹壕を延長し、最初のオーストリア軍の前哨基地の攻撃を引き付け、他の部隊がミリアレットの塹壕を包囲したら、他の部隊とともにミリアレットの塹壕を攻撃する。

 第3部隊と第4部隊はダルマーニュが率い、第3部隊は1個大隊と1個分遣隊の約1,000人で構成され、第4部隊は2個大隊で構成された。

 第3部隊は可能な限りチェレセの土手道に沿って前進し、第2部隊の動きを気にせずに右に曲がり、遭遇したものは排除しながらミリアレットの塹壕の右後背に移動する。

 それが成功しなかった場合、撤退してオーストリア軍の前哨基地の後方に位置するか、少なくともミリアレットの塹壕にできるだけ近づくように命じられた。

 第4部隊はミリアレットの塹壕への攻撃の左側面をカバーすることが目的であり、オーストリア軍のすべての前哨基地を排除し、ティー(Thé)と呼ばれるプスタ―ラ門前の堡塁を占領する。

 これら4つの部隊はそれぞれ工兵と鉱山労働者の中から一定数の土木作業者を引き連れ、工兵将校から柵を破壊し、馬を停止させるすべての同様の障害物を破壊するように命じられた。

 これら4つの部隊の他に、フィオレラは監視部隊約200人にプラデッラ門とプスタ―ラ門でオーストリア軍を止め、カサ・ミシェリ砲台を防衛するよう命じた。

 最後に3隻の砲艦からなる部隊が編成され、内2隻にはそれぞれ2門の大砲で武装され、もう1隻には榴弾砲を配備した。

 これら3隻の砲艦はミンチョ川を上って堡塁とフランス軍本体の間に停泊し砲撃する。先のオーストリア軍の攻撃時に損傷したカサ・ザネッティ砲台の代わりである。

 セリュリエはそれぞれの部隊の効果を調べ、命令を出し、状況に応じた適切な対応がとれる位置で指揮を執るよう命じられた。

 ボナパルトはスタッフとともにサン・ジョルジョで作戦結果を待った。

◎ミリアレット塹壕再奪取作戦②

 18日夜11時頃、部隊が動き始めた。

 最初の砲撃の音が響き渡るとカント・ディールは約400人でミリアレットの塹壕を防衛するルカヴィナ旅団を補強し、その後、プスタ―ラ門、チェレセ門、プラデッラ門を強化した。

 ダルマーニュ指揮下の第4部隊は、オーストリア軍が補強されたにも関わらず前哨基地をすべて排除しティー(Thé)と呼ばれるプスタ―ラ門前の堡塁を防衛する部隊と衝突した。

 第1部隊を指揮するミュラはミリアレットの塹壕を防衛するルカヴィナ旅団の部隊の抵抗に遭遇していた。

 ダルマーニュ指揮下の第3部隊の1個大隊とミュラ指揮下の第1部隊の1個大隊の合計2個大隊はミリアレットの塹壕の至近まで到達し、勇敢な部下の何人かは塹壕前の柵を越えていた。

 この時、第1部隊の兵士が誤って数発発砲してしまった。これに驚いたミリアレットの塹壕の至近にいたフランス軍の2個大隊は自陣の塹壕に避難した。

 マントヴァ要塞からの砲撃は0時から1時の間、発砲の間隔が遅くなった。

 攻撃の手が緩んだこの時間を利用してミリアレットの位置に塹壕を掘り始めた。

 フランス軍が塹壕を掘り進めると、それを追跡するようにオーストリア軍は銃と大砲で非常に激しい攻撃を行った。

 この攻撃によりフランス軍の土木労働者は恐怖に陥り秩序を失った。

 しかし秩序を失ったのは土木労働者のみであり、歩兵や他の部隊は規律を保っていた。

 少しづつ土木労働者の秩序が再確立され、塹壕の掘削を再開した。日中も作業できるようにマントヴァ要塞と平行になるように塹壕を掘り進んだ。

 砲艦はミンチョ川の上からミリアレットの塹壕に避難した部隊や塹壕それ自体に対して継続的に発砲した。

 この夜の攻撃にも関わらず、ミリアレットの塹壕とその防衛部隊は未だ健在だった。

 しかし、柵の後ろの部隊が後退したことにより顕著な損失を被っていた。

 フランス軍は焼玉式焼夷弾2砲とその他2つの砲台で19日午前7時までマントヴァの街を砲撃し、500個以上の砲弾または赤い弾(焼弾)がいくつかの場所で発火した。

 19日夜から20日未明、焼夷弾は22日までの48時間中断することなく砲撃を続け、いくつかの火災が発生した。

 カント・ディールはフランス軍の攻撃に対し反撃で応えた。少なくとも砲弾とブドウ弾12,298発、キャニスター弾389発、榴弾179発を発砲した。

 20日午前、ベルティエから派遣された議員がボナパルトの名でマントヴァ要塞司令官に降伏勧告を行った。しかしカント・ディールはこれを拒否した。カント・ディールはワームザーが近づいてきていることを察知しており、戦い抜く決意を見せたのである。