マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 03 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 03

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

マントヴァ要塞駐屯軍の動向Movement of the Mantua Garrison

 マントヴァ要塞駐屯軍はフランス軍の行動が「攻囲」から「封鎖」に変化したことにより休息の時間を得た。

 この休息の時間を要塞の防御を修復・強化するための武装に費やした。

 6月4日からの砲撃により要塞のあちこちが破壊され、防衛機能が低下していたのである。

 要塞司令官カント・ディール大将はこれまでの砲撃で破壊されたチッタデッラ要塞にあるトリニータ砦(Bastione S.Trinita)からアンセルモ砦(Bastion S.Anselmo)までを修復するためにアンセルモ砦の前に新たな防衛施設を作り、サンタ・マリア砦(Bastion S.Maria)の前にいくつかの防衛施設を建設した。

◎チッタデッラ要塞 1866年

※この図は1866年のものであり、1796年とは違いがあるが、チッタデッラ要塞に関して違いは少ないと考えられる。

 また、マントヴァ要塞の内港であるカテナ港の左右にいくつかの塹壕を作った。

 このカテナ港はインフェリオーレ湖を制するための重要な港であり、サン・ジョルジョの前哨基地がフランス軍の手に渡ったことにより対岸から集中砲火を受ける可能性が高まった。そのため防衛を強化する必要があったのである。

 カント・ディールはさらに人口調査とその生存の検証、食糧備蓄の調査を行い、その結果、食糧不足であることが判明した。特に穀物、小麦粉、肉の備蓄量が深刻だった。

 およそ3ヵ月分の食糧があると見込まれていたが、当時のマントヴァには駐屯軍の他に約25,000人が住んでおり、住民達の分も食糧を調達しなければならなかったため深刻な食糧不足になったと考えられる。

 マントヴァ駐屯軍はフランス軍に包囲されている中、いかに食糧を調達するか頭を悩まされることとなる。

マッセナ師団の防衛状況Massena Division Defense Status

 ボナパルトはオージュローとセリュリエに命じ、マントヴァ要塞へさらに攻撃を加えようとした。しかし6月上旬に降った大雨によりマントヴァの河川が氾濫し近づくことさえできなかった。

 ボナパルトはこの河川の氾濫によってできた時間を利用し、ライン方面軍から増援としてきたヴォーボワ少将の部隊の前衛部隊全体の指揮をミュラに、前衛部隊の歩兵の指揮をランヌに任せトルトナ方面の反乱地帯の平定に向かった。

 6月11日、ボナパルトは略奪を行ったものは士官であっても銃殺刑に処する旨の布告を出した。恐らくフランス軍による各地の略奪が問題になっており、それに対処したのだと考えられる。

 同日、マッセナはブレンティーノから1個大隊をプレアボッコに移動させ、ガルダンヌは前衛を支援できるようにインカナーレ(Incanale)で2列を形成した。

 さらに2つの180人の部隊をリヴォリ・ヴェロネーゼとガルダ湖の間に野営させた。

◎ガルダ湖東側地図

 ソーレ師団はガルダ湖西側を担当していたが、サローには未だ半旅団しかおらず、ソーレと残りの部隊はマントヴァ要塞とミラノの封鎖のためにゴーイト周辺にいた。

 1個大隊を守備隊の補強としてペスキエーラ要塞とサローの間に宿営させ、オーストリア軍発見の警鐘が鳴らされた場合、レンツォ(Renzo)かサン・ジョバンニ(San Giovanni)のいずれかに行くよう命じた。

 この命令はガルドーネ・ヴァル・トロンピア(Gardone Val Trompia)方面の山岳地帯からオーストリア軍が行軍してきた場合のことを警戒したと考えられる。

◎ガルダ湖西側地図

 ペスキエーラ要塞には10門の大砲が配備されていたが、砲兵や物資の不足により使用ができなかった。

 マッセナはボナパルトに砲兵、物資を要求していたが、全体的に不足しており、部分的に補充されるまで20日以上かかった。

 この時点で砲兵、物資の不足はマッセナ師団だけではなく、ミラノを封鎖しているデスピノイ旅団、マントヴァ要塞を包囲しているセリュリエ師団など、あらゆるところで発生していた。

 12日、マッセナは予備部隊とともに師団の本営をカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレに移し、ベローナの指揮をランポン少将に任せた。

 後にマッセナ師団に合流することになっている約6,000人、そしてソーレ、セルヴォニ、セルヴィエズ(Serviez)の部隊は未だ到着しなかった。

マントヴァ要塞の封鎖Blockade of Mantua

 6月12日、オージュロー師団はボナパルトの命令によりマントヴァの南側の包囲をダルマーニュと交代し、レニャーゴ要塞へ向かった。キルメインは騎兵隊とともにビラフランカ・ディ・ベローナで野営した。

 オージュロー師団約6,000人がマントヴァの包囲から抜けたことにより、セリュリエ師団約7,000人、ダルマーニュの部隊約3,000人、合計約10,000人の兵力で約14,000人のオーストリア軍が立て籠もるマントヴァ要塞を包囲することを余儀なくされたセリュリエだったが、セリュリエはマントヴァ要塞を陥落させることを考えており、マントヴァ要塞を陥落させる作戦をボナパルトに提案した。

 セリュリエの作戦はミリアレットの塹壕のある島とチッタデッラ要塞(Cittadella)にあるトリニータ砦への攻撃を主攻とした作戦であり、サン・ジョルジョの臼砲とカサ・ミシェリ(Casa Micheli)に配置した榴弾砲によって支援する計画だった。

 この作戦のためにセリュリエは、54門の大砲、予備を含まない22門の臼砲、1,000人の砲兵、25,000人の歩兵、1,000騎の騎兵を要求した。

◎セリュリエの作戦計画

 ※カサ・ミシェリ砲台はもう少し北の可能性がある。

 しかし、この時点でマントヴァ要塞の攻略、反乱地域の平定、スフォルツェスコ城の攻略、対オーストリア軍の防衛、教皇領への遠征のすべてを同時に行うには、兵員、装備、物資が明らかに不足しており、この時点ではボナパルトはセリュリエの作戦案をあきらめざるを得なかった。

 そのためセリュリエは積極的な攻囲はできず、ボルゴフォルテ(Borgoforte)で大砲や攻城に必要な道具を組み立て、マントヴァ要塞を柵や逆茂木(先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べて地面に固定し、敵を近寄らせないようにした障害物のこと)で囲み、封鎖を主軸に包囲作戦を展開した。