マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 07:オーストリア軍による飼料調達のための出撃とセリュリエ将軍による反攻作戦 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 07

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

マントヴァ要塞駐屯軍の出撃と飼料の調達

 包囲されてから1ヵ月以上が経過し、マントヴァ要塞の食糧や飼料の不足はより深刻になっていた。

 マントヴァ要塞司令官カント・ディール(Canto d'Irles)はこの食糧や飼料不足を緩和するために、フランス軍が防衛線を構築しているであろう要塞外に出て食べられるものや飼料を入手することを命じた。

 この命令は部隊を交戦部隊と採餌部隊に分け、交戦部隊がフランス軍を引きつけている間に採餌部隊が食糧や飼料を調達するというものだった。

 1796年7月6日午前、マントヴァ要塞からの砲撃に支援された約600人の兵士と2隻の武装船、3隻の砲艦が隠されて配置され、フランス側の塹壕といくつかの前哨基地を攻撃し、フランス軍を前哨基地から後退させた。

 採餌部隊は食糧や飼料の探索に取り掛かったがフランス軍の流れ弾により思うように作業できなかった。

 そのため交戦部隊は前哨基地のいくつかを砲撃した。

 セリュリエは約700人の兵士と2門の大砲を前進させた。

 2時間の戦闘後、オーストリアの部隊は飼料を積んだ26台の荷車を持って後退を余儀なくされた。

 この時オーストリア軍が採餌したのは主に飼料用の草だった。

 これは同時に偵察にもなり、フランス軍の攻撃の状態や地形を含めた周囲の状況の把握という重要な情報ももたらした。

 この攻撃時、フランス軍側ではスフォルツェスコ城の攻略を終えたミラノから砲兵が到着し始めていたが、チェレセ橋の片側しか支配していなかったということもあり、マントヴァ守備隊を要塞化したミリアレットの塹壕から追い出すことはできなかった。

セリュリエ将軍による反攻計画

 セリュリエは反攻作戦を計画した。

◎セリュリエ将軍の反攻作戦

※作戦図では支援するとなっているが、カサ・ミシェリ砲台とサン・ジョルジョ砲台は修復のため休ませていた可能性がある。

 ミリアレットの塹壕攻略では、ピエトレからミリアレットの塹壕のある島に橋を架け、2つの部隊はオーストリア軍から見えないように準備し、インフェリオーレ湖の狭く曲がりくねった運河と葦の茂みから出現して塹壕防衛隊を攻撃し塹壕へ侵入する。

 1番目の部隊は攻撃するための部隊の展開に適した唯一の地点であるミリアレットを確保するためにマントヴァ守備隊を柵の後ろに押しやり、2番目の部隊はミンチョ川の近くで下船し塹壕の溝や側面に張り付きそれを取り除く。

 3番目の部隊にはそれらの部隊を支援させるためにチェレセからピエトレへ土手沿いに歩いて行進しさせる。

 次に前線の部隊はこれら塹壕を包み込むように攻撃し、塹壕守備隊の射程内に身を置く。

 3番目の部隊は前線の部隊の攻撃が成功した場合、後方の連絡を確立するためにピエトレの前線基地に留まるか、最悪のことを考え、自陣の塹壕の入り口を防衛するためにピエトレの背後に留まる。

 さらに、この攻撃を支援するためにインフェリオーレ湖の対岸にあるカサ・ザネッティ(Casa Zanetti)に砲台を建設する。

 この計画を契機として、工兵大隊長アンドレオシーは湖の偵察を行い、ミリアレットへの奇襲を成功させるためにピエトレにボート橋を架けることを提案した。

 アンドレオシーは若干複雑な構造のボート橋を提案したがボナパルトはあまり操作を必要としない単純な構造のボート橋を好んだ。

 チッタデッラ要塞側ではマントヴァの街からチッタデッラ要塞への連絡を遮断するためにミルズのダム橋を破壊する計画を立てていた。

 現在のブルゴ製紙工場のあるメッツォ湖北岸辺りに8門の大砲からなる砲台を建設。そして8日夜から9日未明の間に南側での攻撃も同時に攻撃する計画だった。

 プラデッラ門、プスタ―ラ門側では他の地点の攻撃と連動して攻撃を行い、オーストリア軍の防衛施設の至近に前哨基地を建設する。

 チッタデッラ要塞側ではレンガと土でできたミルズのダム橋を破壊しチッタデッラ要塞を孤立させ、南側ではオーストリア軍はカサ・ザネッティからの砲撃により態勢を崩され、至近から攻撃を受けるためミリアレットの塹壕の占領はより確実になると考えられた。

 7月8日、マントヴァの北に位置するマルミローロ(Marmirolo)に本部を設立したボナパルトはヴェローナでデスピノイに対してマントヴァ要塞攻略のための兵員、物資を速やかに送り届けるよう催促し、自らの副官を送った。

 ヴルムサー率いるオーストリア軍がトレント周辺への集結を完了し作戦行動に移る前にマントヴァ要塞を陥落させなければならないのである。

 ボナパルトは兵員、物資の移動を急がせた。

反攻作戦の開始

 ボート橋が完成し、セリュリエの作戦が決行された。

 フランス軍はミリアレットの塹壕を占領し、要塞の斜堤のふもとに到達した。

 その後プラデッラ門前とプスタラー門前の斜堤のふもと、チェレセ門東側にあるポンパナッツァ砦(Pompanazza)の向かいのインフェリオーレ湖のほとりに前哨基地を建設した。

 要塞の至近に迫ったフランス軍の前哨基地はオーストリア軍からのさらに激しい攻撃にさらされたが、フランス軍の砲台は着実にマントヴァ要塞の防衛施設を破壊していった。